2006-07-12[n年前へ]
■「努力」と「21世紀」と「いろんな気持ち」
from n年前へ.
12年経つと21世紀がやってきます。世界はより支え合わなければ生きていけない時代であります。「3年B組金八先生」 第3シリーズ 12話(1988)
努力して理解できるようになったときに、何かを学ぶことができるんだ。だから、コインには2つの面があるということさ Steve Wozniak
いつもより多くの「いろんな気持ち」が水に変わる。もしかしたらそれは数ミリグラムだけしか多くないかもしれないけれど、いつもより気持ちがほんの少しは軽くなるのかもしれない。
晴れの日に野外で上を仰ぎ見た時、無限に続いて見える、広い空間。 新明解国語辞典「大空」
2006-10-07[n年前へ]
2006-10-19[n年前へ]
■「銀河鉄道999」@20世紀の洞窟の隅
槙原敬之の「約束の場所」の歌詞にまつわるニュースを見る。第三者の言葉などを含めて「歌詞の誕生経路」は松本零士のコミック経由かも、と思う。その一方で、松本零士という「作家」はブラウン管とカセットテープと一緒に「20世紀に置いて、21世紀には持っていかない、21世紀の私には要らないもの」という箱に入れよう、とも思う。
そう感じつつ関連記事を読んで、件の「銀河鉄道999」が21世紀に入ってからの「作品」だということに驚く。読むつもりは全くないが。
外へ外へと向かっていくそういうエネルギーがなかったら、人類はいまだに洞窟の中で暮らしてたんだろうか。 「イラクと幕末」
2007-07-03[n年前へ]
■科学とオカルト
「科学とオカルト(池田清彦 講談社学術文庫)」を読んだ。
オカルトとは元来「隠されたこと」を意味し、…シェパードによれば「通常の経験や思考ではとらえることのできない神秘的、超自然的な現象を信じ、これを尊重しようとする進行全般を示す概念であって」(渡辺恒夫・中村雅彦「オカルト流行の深層社会心理」)ということになる。 …この定義に従うと、ビッグバン仮説を信じている物理学者はオカルト信者となってしまう。なぜなら、百五十億年前、宇宙はゴルフボールぐらいの大きさだったと主張するビッグバン仮説は、通常の経験や思考ではとらえることのできない進歩的、超自然的な現象を信じることにほかならないからである。 「科学とオカルト」 P.17 第一章 科学の起源「水からの伝言」に関する記事へのブックマークを眺めるとき、そこには「オカルト」「ニセ科学」「科学」なんていうタグがついていることが多かった。それらのタグがどういうことを指そうとしているのか、そんな言葉にはどんな過去があるのかを考えてみたりした人たち、あるいは考えなかった人たちであれば、この 「科学とオカルト」を読むときっと面白いと思う。
十六、七世紀の第一の科学革命の頃、業績評価というのは、もっぱら異端審問のためのものであった。…理論は所詮オカルトであり、背反する神学的信念のどれが正しいかを決める客観的基準などあり得ようはずはなかった。 十九世紀になり…さまざまなオカルト(個々の研究者の理論や実験結果)を平準化する必要が生じた。オカルトの大衆化あるいは民主化といってもよい。社会的に平準化されたオカルトは、公共性を獲得したのだから、もはやオカルトとはいえない。それでは何と呼ぶかというと、「科学」ということになったわけだ。実に科学とはオカルトの大衆化だったのである。 「科学とオカルト」 P.47 第二章 オカルトから科学へアーサー・C・クラークは「十分に発達した科学は、魔法と区別がつかない」と書いた。科学の専門化・細分化・高度化が進む21世紀は、そんな科学と魔法が区別が付きにくい時代なのかもしれない。
2007-07-06[n年前へ]
■「物語」と「市場経済」
現代は大衆民主主義と資本主義と科学技術の時代である。人々は原則平等という権利と引き替えに、細かい差異化過程に巻き込まれ序列化されることを余儀なくされる。「科学とオカルト(池田清彦 講談社学術文庫)」は科学という積み木と隣り合うオカルトという積み木の姿を描く。そして、それと同時にこの本が描くのは、科学だけでなく資本主義と大衆民主主義という積み木とも隣接するオカルトの姿でもある。
「科学とオカルト 」P.7 はじめに
本屋に置いてある雑誌や駅に置いてあるフリーペーパーを眺めてみれば、たくさんのファッション・スタイルや数限りないグルメスポットが掲載されている。そんなたくさんの選択肢から自分なりのものを選んで自分に振りかけてみても、他人と自分の違いは、スターバックスで注文するコーヒーかホットドッグのトッピング程度の違いしかないことだって多い。
宗教という大きな公共性も身分制という規範も存在しない現代では、自分が何者なのかということを教えてくれるものは何もない。唯一、最大の公共性であり科学は、そういう問いには原理的に答えることができない。元サッカー日本代表の中田英寿は「自分探しの旅」へと出かけてしまい、須藤元気は格闘技のリングから「スピリチュアルな世界」へと舞台を変えた。「僕って何」という問いかけをする「一見さんに対し」、ほとんど全てのものが明確な答えを与えることはしないように、科学が一見さんが抱えるその問いに答えることはない。
「科学とオカルト 」P.148 現代オカルトは科学の鏡である
お客様は神様です。 三波春夫「お客様は神様です」という言葉とともに、スーパーにはたくさんのものが並び、私たちは自分が持っているお金の範囲で自由に商品を選ぶことができる。現代社会は、お金を持っている限り有効の神様チケットを持った人で満ちあふれている。それと同時に、そんな神様たちは「選択」という価格の付けられたチケットを持ってはいるけれども、選択に迷いがちで自分を見つけられない存在でもある。
幸か不幸か、社会はこの現実社会にはないものを物語という形で流布する。「かけがえのない私」というのも、こういった物語の一つである。消費者が望むものを誰かが生産する。需要のあるところには、必ず供給が生まれる。科学が生産できないものを現代の消費者が望むなら、そこには、必ず別の供給者が現れる。それが自由市場主義で動く現代社会なのだろう。消費者という神様は欲しいものに応じ、時には科学を選び、時にオカルトを選ぶのである。お客様という神様たちと、そんな神様たちの欲望に応える供給者が作り出していくのが、21世紀の世界なのだろうか。
「科学とオカルト 」P.149 現代オカルトは科学の鏡である
(「科学とオカルト」を書いた)池田の著書は、自分で考えるとはどういうことか、結局はそれを教えてくれる本なのである。
養老孟司
■Powered
by yagm.net