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2000-09-07[n年前へ]

草枕で遊ぶ 

それが人間の科学なんだよ、と誰かが言った

 どうしても割り切らないではいられない話だと知った時、それが人間の科学なんだよ、と...(半神)


 私が大好きな演劇の一つに「半神」がある。レイ・ブラッドベリ・萩尾望都・野田秀樹の共作とも言うべきこの「半神」の中で1/2+ 1/2 = 2/4 という「螺旋方程式」の謎に対して

「その謎はひとごと(他人事)ではない。」
「ひとごと(人ごと)でないのだから、その謎は化け物に関わることだ。」
というレトリックが使われていた。ここでは「ひとごと」という言葉の意味を巧みに切り替えて、「論理をすり替え」ている。こんなレトリックが私は気持ち良くて大好きだ。急斜面のコブを巧みにすり抜けていくスキーのモーグル選手みたいで、爽快な感じがするのである。

 ところで野田秀樹ほど言葉遊びが巧みな人もそうそういないだろうが、この

「ひとごと(人ごと)でないのだから、その謎は化け物に関わることだ。」
というもののオリジナルはもちろん夏目漱石の草枕の冒頭部だろう。その草枕の冒頭部分を部分的に抜粋するとこんな感じになる。

 智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。とかくに人の世は住みにくい。人の世を作ったものは神でもなければ鬼でもない。やはり向う三軒両隣りにちらちらするただの人である。ただの人が作った人の世が住みにくいからとて、越す国はあるまい。あれば人でなしの国へ行くばかりだ。人でなしの国は人の世よりもなお住みにくかろう。

 この

人の世が住みにくい」
->「人が作った世が住みにくいならば、人でないものの世なら住みやすいだろうか」
-> 「人でなしの国へ行くばかり」
-> 「人でなしの国は人の世よりもなお住みにくい」
という巧みな論理はどうだろうか?私には実に爽快な自然な飛躍に感じられる。目的とする場所へ、巧みに言葉を切り替えていくことで自然に辿り着くこんなやり方がとても気持ちが良い、と私は思う。

 ところで、以前

でも挙げたとても面白い
  • 「漱石とあたたかな科学」小山慶太著 講談社学術文庫
  • の中でもこの草枕冒頭部の論理のすり替えについて触れられていて、その中で漱石の「文学評論」中の
     花は科学じゃない、しかし植物学は科学である。鳥は科学じゃない、しかし動物学は科学である。文学はもとより科学じゃない、しかし文学の批評または歴史は科学である。
    というレトリックに対しても
    「文学のどこに観察、実験、数理解析が施せるのであろうか。」
    と書かれている。もちろん、「文学を味わうのは心であるべき」ということは言うまでもない。しかし、「文学のどこに観察、実験、数理解析が施せるのであろうか。」というところで思考を停止してしまうのは、実に残念であると私は思う。そこで、今回は「草枕」を題材に採って、いつものように単語解析をすることで、適当な考察をしてみることにした。「草枕」に対して数理解析をして遊んでみたい、と思うのである。

     「草枕」は青年画家がブラブラしたり、ボうっと色々なことを考えたりする話だ。そして、いかに芸術が生まれるかということに考えてみたりするのである。例えば、冒頭では

     住みにくさが高じると、安い所へ引き越したくなる。どこへ越しても住みにくいと悟った時、詩が生れて、画が出来る。
    という具合である。また、途中の部分では
    して見ると四角な世界から常識と名のつく、一角を磨滅して、三角のうちに住むのを芸術家と呼んでもよかろう。
    というように書かれている。

     一体、青年画家がどんな時に「画」を書くのかどうかを知るために、他の単語の出現分布と「画」の出現分布を調べてみることにした。今回、ノミネートしてみた単語は「角」・「男」・「女」である。

     角が立つ四角い人の世の中で三角のうちに住むのが芸術家であるならば、その「角」と「画」の相関は調べてみたいと思うハズである。また、これまでに様々な「男」と「女」の関係を考えてきた「できるかな?」であるから、やはりここは「男」と「女」もノミネートしないわけにはいかないだろう。

     そこで、「画」・「角」・「男」・「女」の各語の出現分布を調べてみたのが次の各図である。もちろん、今回も前回

    と同じく、wordfreqを使って解析を行った。
     
    「画」・「角」・「男」・「女」の各語の出現分布
    「画」
    「角」
    「男」
    「女」

     次に、「画」の出現分布に対するそれぞれの言葉の出現分布の相関値を計算してみよう(なお、計算の安定のために、適当な平滑化をここでは行っている。)主人公の青年画家がどんな時に「画」について考えたり、描こうとしたりするかを考えてみるわけである。その計算結果が次の表である。
     

    「画」の出現分布に対するそれぞれの言葉の出現分布の相関値
     
    相関係数
    0.08
    0.09
    0.21

     そして、さらにこれをグラフにしてみたものが、下のグラフである。
     

    「画」の出現分布に対するそれぞれの言葉の出現分布の相関値のグラフ

     おやおや、困ったなぁ。ちょっと、この「画」と「女」の相関の高さはちょっと異常だなぁ。「角」や「男」の出現分布の「画」に対する相関は0.1以下であるが、何と「女」は0.2を越えている。最初は、「画」と「角」を強引に結びつけて話を終わらせるつもりでいたのになぁ。これじゃぁ、主人公はヒロインを前にするときだけ芸術家になるみたいじゃないの。おかしいなぁ、こんな狙いじゃなかったのになぁ...まるで、「草枕」は漱石の前田卓へのラブレターみたいに思えてきてしまうではありませんか...
     う〜ん、これはどっか間違えたかなぁ。まぁ、いいや。今日はもう眠いし。
     

     ところで、「草枕」ではどのようにして文学・音楽・絵画などのさまざまな芸術が生まれて来るかが書かれている。そして、冒頭の「半神」でも、シャム双生児の姉妹とともに「螺旋方程式」の謎を追いかけるうちに、人の心を動かす孤独と音が生まれてくるようすが語られていく。
     

    孤独は、ヒトになる子にあげよう。代わりに、おまえには音をつくってあげよう。
    ( 夢の遊眠社 半神 )

     今回の相関解析では、「芸術は女を前にしたときに生まれる」というフザケタ結果に終わってしまったが、その真偽についてはまたいつか考えてみることにして、とりあえず今回は草枕の中の台詞で話を強引に終わらせたいと思う。
     

     越す事のならぬ世が住みにくければ、住みにくい所をどれほどか、寛容て、束の間の命を、束の間でも住みよくせねばならぬ。ここに詩人という天職が出来て、ここに画家という使命が降る。あらゆる芸術の士は人の世を長閑にし、人の心を豊かにするが故に尊とい。

    2001-02-19[n年前へ]

    ひとりで書いてるだけだから。 

    ヘッポコ文章を直したい


       面白い情報を探しにと「お笑いパソコン日誌」を眺めていると、「ウエヤマの事件簿」の「他人の日記をオモチャにしよう!」が紹介されていた。「お笑いパソコン日誌」に〜『できるかな?』風ネタであります〜と紹介されてあった通り、実に私好みの話だった。ウエヤマ氏が「自分で書いてる日記の文章」を解析して、文字の出現頻度を調べてみたものである。

     「できるかな?」は画像や科学の関連の話が多いように見える。しかし、実はそれだけではなくて文章や日記に関する話も多い。例えば、これまでに出てきた話を振り返ってみると、

    に始まり、と続く、「文学の世界を眺めてみよう」という話など、あるいは「WEBページで見かける文体の特徴を解析しよう」としたなど、あるいは「WEB日記の文化を眺めて見たい」というなどの話があった。「技術サイト」という分類をされることも多い本サイトではあるのだけど、非技術的な話に強引に技術的な話を持ち込みたくなったり、技術的な話なのに何故かとても私的で非技術的な話が入ってしまったりするのが、良くも悪くも「できるかな?」の特徴だろう。もちろん、良いことでは全然無いのだけれど、こうでも書かないと悲しい気分になってしまうので、「良くも悪くも」と書いているのである。

     そういったhirax.netの特長ならぬ特徴は私が書く文章が下手なせいなわけで、そんなヘッポコ文章から脱出するべく、私の書く文章の特徴を調べて反省してみることにした。もちろん、自分のヘッポコ文章だけを眺めてみてもしょうがない。他の素晴らしい文章を書く書き手と比較しなければならないだろう。そこで、今回はいくつかの文章を品詞解析し、その結果の特徴を調べることにする。そして、書き手による文章の特徴が眺めながら、私のヘッポコ文章の欠点を調べ、さらには誰もが思わず涙がこぼしてしまうような素晴らしい文章を書けるようになりたい、と思うのである。
     

     さて、まずは目標を決めよう。私がヘッポコ文章を脱出してどんな文章を目指すかを、何より先に決めなくてはならない。となれば、あまりにも大それた目標ではあるのだが、やはり日本の文豪、夏目漱石は外せないだろう。そして、その教え子でもある寺田寅彦もやはり外すわけにはいかない。一応私も理系のはしくれ、日本の理系文章の流れを作ったこの二人を目標にしなくてなんとしよう。ヘッポコ文章を脱出していきなり、夏目漱石と寺田寅彦というところに無理があるが、そんなことを考えていては駄目なのである。「少年よ大志を抱け」とクラーク博士も言ったのである。もう少年と言うにはどう考えても年齢的に無理があるのだが、気持ちはまだまだ少年で目標は大きく持ってみたいと思うのである。

     そして、もう一人の目標は「ちゃろん日記(仮)」をマイペースに書き続ける「ななゑ」さんである。私は彼女の書く文章を読むたびにとても素晴らしい理系的センスが感じ続けているのである。しかも、理系的でありつつも笑いと涙のペーソスたっぷりの「ちゃろん文体」という独自の確固とした文体を築いているところも尊敬していたりするのである。

     というわけで、今回の文章の比較は

    1. 夏目漱石
    2. 寺田寅彦
    3. ちゃろん日記(仮) ななゑ
    4. 「できるかな?」 jun hirabayashi
    の四人の書き手の文章を適当に二つずつピックアップして、その文章を品詞解析して簡単に特徴を眺めてみることにした。各書き手に対して、それぞれピックアップした文章はである。なお、夏目漱石と寺田寅彦は「青空文庫」から入手した。そして、これらの文章を日本語形態素解析システム茶筌&perlで解析後、Excelでさらに解析・表示を行ってみることにしよう。

     ところで、形態素解析とはどのようなものだろうか。まずは、例を挙げよう。例えば、

    私が好きな書き手達は、夏目漱石、寺田寅彦、ななゑさんです。
    という文章を茶筌で分解すると、
    1. 私 名詞-代名詞-一般
    2. が 助詞-格助詞-一般
    3. 好き 名詞-形容動詞語幹
    4. な 助動詞
    5. 書き手 名詞-一般
    6. 達 名詞-接尾-一般
    7. は 助詞-係助詞
    8. 、 記号-読点
    9. 夏目 名詞-固有名詞-人名-姓
    10. 漱石 名詞-固有名詞-人名-名
    11. 、 記号-読点
    12. 寺田 名詞-固有名詞-人名-姓
    13. 寅彦 名詞-固有名詞-人名-名
    14. 、 記号-読点
    15. ななゑ 名詞-固有名詞-人名-名
    16. さん 名詞-接尾-人名
    17. です 助動詞
    18. 。 記号-句点
    というようになる。このように各文章を品詞毎に分解して、その出現分布から特徴を調べてみるのである。なお、今回注目した品詞は
    1. 読点
    2. 形容詞
    3. フィラー
    4. 感動詞
    の四つである。この四つを選んだ理由は、読点は明確な決まりがないだけに書き手の感覚が入りやすいと思われ、形容詞、フィラー・感動詞に関しては書き手の気持ちが素直に現れやすいと思われるからである。ちなみに、フィラーとはから引用すれば、「あのー」「えー」といった語句ということになる。まずは各文章が書き手によってどのくらい特徴づけられるかのイメージを掴むために、形容詞の出現頻度とフィラーの出現頻度を軸にとり、各文章を二次元の世界に配置してみた結果を図示してみよう。
     
    形容詞の出現頻度とフィラーの出現頻度を軸にとって、
    各文章を二次元の世界に配置した結果

     結構、同じ書き手による文章が同じような位置に配置されることがわかると思う。ちゃろん日記(仮)などは、二つの独立した文章がほとんど同じ位置に配置されている。もう、ちゃろん文体は安定しまくっていて完成されているのである。そしてまた、「文豪」夏目漱石の場合も、「我が輩は猫である」と「坊っちゃん」がかなり近い位置に配置されていることがわかる。

     なるほど、結構書き手による特徴はこんないかにも雑な解析でも評価できるものなのかもしれない(あくまで「遊び」だけどね)。そして、形容詞の出現頻度などは、「雪だるまがいる景色」と「自然と生物」以外は大体同じようなものである。寺田寅彦の「自然と生物」は妙に形容詞の出現頻度が高いところが面白いところである。私の「雪だるまがいる景色」はあまり技術的な話ではなくて、確かに形容詞が多そうな話ではあるのだが、一体「自然と生物」はどうだっただろうか?

     ちなみに、「できるかな?」からの二つの文章は共にフィラーが一個も出てこない。その他の6つの文章にはフィラーが出てくるのであるが、何故か「できるかな?」の二つの文章にはフィラーが含まれていないのである。この差がなければ、寺田寅彦の二編と「できるかな?」はかなり似た場所に位置するのであるが、このフィラーは特に違うのである。

     さて、上の図ではフィラーと形容詞の出現頻度だけを眺めてみたが、読点、感動詞の出現頻度も加えて、クラスター分析を行ってみた。つまり、「読点・形容詞・フィラー・感動詞」の出現分布が似ているものを分類してみたわけである。クラスター分析にはExcelアドイン工房「早狩」の統計解析アドインを使用させて頂いた。ちなみに、クラスターの結合はウォード法を用い、非類似度計算法には標準化ユークリッド平方距離を使用した。その結果が下の図である。
     

    クラスター分析の結果

     このクラスター分析の結果を示す図は近い文章をまとめていったものを示している。つまり、文章の「近さ」あるいは「似ている度」を示しているのである。ちゃろん日記(仮)の二編は本当によく似ていて、また夏目漱石の書いた二編も互いに似ている。そして、それより「近い度」は低いが「新宿駅は電気羊の夢を見るか?」は「科学について」に近くて、「雪だるまがいる景色」は「自然と生物」に近い。おして、さらに似ているものを探せば、ちゃろんの二編と「新宿駅は電気羊の夢を見るか?」・「科学について」は似ているといえなくもない、さらに言えばその四編と夏目漱石の二編が似ている。

     ここでは、四人の書き手がいるということが私には判っているので、あえて四つのクラスターに分解してみると、

    1.
      • 「雪だるま」がいる景色
      • 自然と生物
      2.
      • 新宿駅は電気羊の夢を見るか?
      • 科学について
      3.
      • ちゃろん日記1998(仮)11月上旬
      • ちゃろん日記1999(仮)6月上旬
      4.
      • 我が輩は猫である
      • 坊ちゃん
    という風になる。やはり夏目漱石とちゃろん日記に関してはこんなチープなごく少数の品詞解析でも、「作者の文体が同じである」と解析されてしまうのである。なかなか、スゴイとは思わないだろうか?数多くの解析をしてみるのもなかなか面白いと思う。高校生のレポートくらいだったら、これで何とか書けそうである。

     しかし、その一方で考えてみれば寺田寅彦の名随筆と「できるかな?」のヘッポコ文章が「文体が近い」と解析されてしまっているわけなので、実はこの解析の信頼性はかなり低いと言わざるを得ないところもあるのである。いや、もしかしたら「文体は同じやけど、内容が全然違いますがな」というような冷たいアドバイスを解析結果は言わんとしているのかもしれないが、もうそれは哀しすぎる事実なので考えたくないのである。

     さて、そう言えば一番最初の図で「できるかな?」と寺田寅彦の差はフィラーの出現分布だったわけであるが、「大学の講義における文科系の日本語と理科系の日本語-- 「フィラー」に注目して --」では、「聞き手への働きかけのあるフィラーが多いということは聞き手への配慮が大きいということにつながる」と書いてあった。ということは、フィラーの出現分布は聞き手への配慮に比例するというわけで、「できるかな?」の文章にフィラーが出てこない、ということは読み手に対する配慮がない、なんてことなのかなと思ってしまったりするのである。

     そんなことを考え出すと、ホラどうせひとりで書いてるだけだから読み手のことなんか考えていないのさと、思わず涙がこぼれてしまうような哀しい気持ち、になったのである。う〜む、最初は誰もが思わず涙がこぼしてしまうような素晴らしい文章を書けるようになりたいと思ったったのに、何でこんな結論になるんだろう?

     答え: それは文才がないからです。ハイ。
     
     

    2001-03-31[n年前へ]

    Inside out 

    Liberation





     M.C.Escherの画集を眺めていた。その中のLiberationというリトグラフが、ちょっと千羽鶴がぶらさがっている姿に似ていて、何故だか気に入った。千羽鶴に姿が似ている、というわけで、このLiberationは私にちょっと折り紙を連想させた。何しろ、私が折ることのできる折り紙は折り鶴だけなのである。

     折り紙と言えば、その技法の一つに"Inside out"というものがある。なんでも、「折り紙の裏と表をうまく利用して作品に色や模様を折り出す技法」だという。裏と表とで色や模様が違う紙を使って折り紙を折れば、裏が見えるところと表が見えるところが組合わせて違う模様を表すことができるわけだ。
     

     もちろん、それは表と裏が分けられるからできることだろう。もしも、表と裏が分けることができないものであったら、そんな折り紙の技法みたいな"Insideout"はできないに違いない。いや、もしかしたらできそうな気もするから、「できそうにない」と言い換えておこう。

     例えば、このページのトップにある「クラインの壺」やM.C.Escherがよく描いた「メビウスの輪」では裏や表なんていう風に表面を分けることはできない。だから、そこには表も裏もないから、「裏と表を利用して」なんていう折り紙の技法としての"Insideout"は「できそうにない」。

     だけど、Liberationを見ながら少し考えこんでいると、こんな「クラインの壺」や「メビウスの輪」こそが本当の"Insideout"ではないだろうか、と私には思えてきた。

     言葉としての"Inside out"は「裏返して、ひっくりかえして」という意味である。そして、「クラインの壺」や「メビウスの輪」は裏と表が「ひっくりかえることで」繋がっている。そして、そこには結局のところ裏も表も存在しない。裏も表もなくて、それは完全に同じ一つの表面なのである。
     それと同じくして、言葉としての"Inside out"も「完全に,何もかも」という意味をも表す。一見、裏と表に分かれて見えるようなものをひっくり返してつなげてみたときに、そこでは「何もかも完全に一つ」になる。

     そういえば、そんな「クラインの壺」や「メビウスの輪」はたくさんある。例えば、文学と科学で「クラインの壺」や「メビウスの輪」を作り上げようとしたのが夏目漱石であり、そして寺田寅彦だろう。一見、二つのものに分けられているように見えても、それを繋げてひとつのものにした例は他にもたくさんあるはずだ。もしかしたら、「表と裏」というものそのものだって本当はそうかもしれない。

     内側も外側も関係なくて、二つに分けられているように見えるものをなんとか繋げ続けたら言葉通りの"Insideout"が見えてくるかもしれない、とLiberationを眺めながら考えた。そして、それがきっとLiberationなのだと思うのである。
     
     

    2001-04-04[n年前へ]

    漱石という名前の由来 

     漱石は26才の時に、分家し北海道岩内村浅岡方へ「送籍」し、徴兵免除のために北海道市民になった。また、「吾輩は猫である」中には「送籍」という名の作家のことを自虐的に書いている。
     丸谷才一は「徴兵忌避者としての夏目漱石」に「日清戦争下にあたって、漱石がその送籍に対する自責の念から、精神的に不安定になってそれを執筆活動で癒そうとした」と書いた。確かに、前線に行く兵士がいる中で自分が「送籍」によって残っているということは耐え難いことに違いない。
     この話が真実であるかは誰にもわからないだろう。しかし、少なくともそれが部分的にでも真実でない、ということもやはり誰にもできないだろう。

    2003-02-19[n年前へ]

    POV RAY꓇ꇖ뻐꒦닆쳜샐ꇗ 

    뻐꒦닆쳜샐
     「センスが無い人」のためにソフトを作る人だっているんだから、アンイストールしちゃダメよ。POVファイル作るの面倒だし、「センス」もいるし、Photoshop上で苦労知らずに簡単にできるならそっちの方が…って思うでしょう?えっ、怒りんぼは機嫌を悪くしたって…?

     というわけで、今日のバージョンのプラグインで作ってみた「笑う夏目漱石」。ほら、笑うと気力も少し出てこない?
     こんな画像もPhotoshopで簡単に作れるようになります。今週末にはボリュームレンダリングまでいくハズ…です。



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