2002-04-06[n年前へ]
■文字が飛び出すステレオグラム
愛の言葉とハートマーク
いつだったか、アスキーアート関連を調べてみるときに、下のような3Dアートを見つけた。単に無意味なの文字の羅列に見えるかもしれないが、ぼんやりと遠くを見る要領でこの英文字の羅列を眺めていれば、いつしかピラミッド状の形状が浮かび上がってくるハズである。
]KMQ\\SP]UMY]KMQ\\SP]UMY]KMQ\\SPUMY]KMQ\\SPUMY]KMQ\\SPUMY]KMQ\\SPUMMY]KMQ\\Sp ER_J]KUMS\QPER_J]KUMS\QPER_J]KUM\QPER_J]KUM\QPER_J]KUM\QPER_J]KUM\QQPER_J]KUM CQE_PSVJ^COJCQE_PSVJ^COJCQE_PSVJCOJCE_PSVJCOJCE_PSVJCOJCE_PSVJJCOJCCE_PSVJJCO HTXZQDDUTZUXHTXZQDDUTZUXHTXZQDDUZUXHXZQDDUZUXHXZQDDUZUXHXZQDDUUZUXHHXZQDDUUZU EYZIHVFQ[K`CEYZIHVFQ[K`CEYZIHVFQK`CEZIHVFQK`CEZIHVFQK`CEZIHVFQQK`CEEZIHVFQQK` EEDHYNWSMFZCEEDHYNWSMFZCEEDHYNWSFZCEDHYNWFZCEDHYNWFZCEDHHYNWFZZCEDHHHYNWFZZCE ZNFDRGB`JKZVZNFDRGB`JKZVZNFDRGB`KZVZFDRGBKZVZFDRGBKZVZFDDRGBKZZVZFDDDRGBKZZVZ NQAQLHPZQ\X`NQAQLHPZQ\X`NQAQLHPZ\X`NAQLHP\X`NAQLHP\X`NAQQLHP\XX`NAQQQLHP\XX`N VRMT^C]XN_TPVRMT^C]XN_TPVRMT^C]X_TPVMT^C]_TPVMT^C]_TPVMTT^C]_TTPVMTTT^C]_TTPV CNH^N\HYWVQMCNH^N\HYWVQMCNH^N\HYVQMCH^N\HVQMCH^N\HVQMCH^^N\HVQQMCH^^^N\HVQQMC KJ\A[RN\]WNKKJ\A[RN\]WNKKJ\A[RN\WNKK\A[RNWNKK\A[RNWNKK\AA[RNWNNKK\AAA[RNWNNKK `YCILI^CE[QU`YCILI^CE[QU`YCILI^C[QU`CILI^[QU`CILI^[QU`CIILI^[QQU`CIIILI^[QQU` UBIKIDP^E[ZMUBIKIDP^E[ZMUBIKIDP^[ZMUIKIDP^[ZMUIKIDP^[ZMUIKIDP^^[ZMUUIKIDP^^[Z E^\CLHAQBGEDE^\CLHAQBGEDE^\CLHAQGEDE\CLHAQGEDE\CLHAQGEDE\CLHAQQGEDEE\CLHAQQGE JYB_V_B`LP_RJYB_V_B`LP_RJYB_V_B`P_RJB_V_B`P_RJB_V_B`P_RJB_V_B``P_RJJB_V_B``P_ NCLD`^KRCE[]NCLD`^KRCE[]NCLD`^KRE[]NCLD`^KRE[]NCLD`^KRE[]NCLD`^KRE[[]NCLD`^KR ]L[\[Z`EFM[[]L[\[Z`EFM[[]L[\[Z`EM[[]L[\[Z`EM[[]L[\[Z`EM[[]L[\[Z`EM[[[]L[\[Z`E HTHE\JXLNQLGHTHE\JXLNQLGHTHE\JXLNQLGHTHE\JXLNQLGHTHE\JXLNQLGHTHE\JXLNQLGHTHE\ |
これはAA-projectのAA3D- ASCII art stereogram generatorを用いて作成された"ASCII art stereogram"だ。一世を風靡したランダムドットステレオグラムのアスキー文字版である。
言うまでもなく、ランダムドットステレオグラムは潜在意識でのパターン自動認識を利用して両眼視差を生じさせることにより立体感を得るものであるが、この"ASCIIart stereogram"では「パターン」として、ランダムドットでなくて「アスキー文字」を使ってやるものであって、考え方としてとても面白いアートだと思う。ランダムドットよりも、「謎の暗号っぽい」ところがちょっと楽しい感じになる。
人間はこんなランダムドットやこのアスキー文字のようなパターンを眺めるときに、目にするその全ての領域に対して「あぁココとココは同じパターンだなぁ」と無意識の内に判断できるわけで、何ともスゴイとしか言いようがない。オリンピックなどを眺めていてもよく思うことだが、人間の能力はとてもスゴイのである。
が、とはいえ太陽が西から昇ってもワタシがオリンピック選手にはなれないのと同じく、やはりスゴイ能力にもピンからキリまであるわけで、ワタシなどは実はこういう英語のASCIIart stereogramを眺めていても、一瞬で立体に感じたりはしないのである。なぜだか、左右の目が位置対応が一瞬では判らないのだ…。どうもワタシはアルファベットのパターン認識に時間のかかるニブイヤツであるらしい。もしかしたら、いやもしかしなくても、日本語ネイティブで英語が苦手なワタシはアルファベットに対するパターン認識能力が今ひとつ低いに違いないのだ。だから、この手の「英語」を使ったstereogramだと、左右で眺める映像間のパターン相関認識に時間がかかって、なかなか立体感を得ることができないのだろう(根拠はないけど)。ワタシのように異文化コミュニケーション能力が低いとステレオアートの観賞すらろくにできないに違いないのだ。
じゃぁ、ワタシのような異文化コミュニケーションに欠ける人々は「このステレオアートを日本語で作って眺めてみれば良いじゃないか」と思うわけだけれど、このAA3Dは「アスキー文字」にしか実は対応していないのである。名前からして、ASCIIArt Projectという位だから当たり前と言えば当たり前でしょうがないのではあるけれど、異文化コミュニケーション的には「日本語にだって対応して欲しい〜」と思ってしまうのである。火星人だって大阪弁をしゃべる今日この頃なのだから、AA3Dにも日本語を喋って欲しいところなのであるが、そんなことを言ってもしょうがないわけで、日本語を使ってステレオグラムを作るプログラムを早速自分で作ってみることにした。
とはいえ、2バイト文字と1バイト文字、全角と半角の混在文章に対応するのはメンドくさかったので、結局2バイト全角文字のみに対応ということにしてしまった。つまり、日本語と英語の混在文章などには対応していないわけで、これでは「日本語に使えないAA3D」と全く同じく、「他の言語のことなんか考えていない」という異文化コミュニケーション能力に欠けた、「作った親の顔が見たい」と言われそうなソフトが生まれただけだったのである。が、何はともあれ、これがそのできあがったNihogo3Dである。
- nihogo3d.lzh (284kB) function部 bc++b source
- 左上の画面に日本語を入力するか、LoadTextボタンで日本語を読み込む
- Load Heightボタンで立体マップ(Bitmapファイル)を読み込む(それは0〜255の高さマップに自動変換される)
- Make 3D Textボタンを押して、ステレオグラムを作成
例えば、上の動作画面は左上のテキストウィンドーにラブレターに使うようなちょっと恥ずかしい文字をただ無意味に入力して、そして右上の立体マップ(Bitmapファイル)にハートマークを読み込んで、ステレオグラムを作成しているところである。そして、その出力結果が下のテキストだ。一見意味不明の「読むだけで恥ずかしくなるような文字」がただ並んでるか、あるいはキョーフのデンパ系メールか、と思いきや、実はその言葉を背景にして「ハートマーク」が自分の方に浮かび上がってくる、という趣向なのだ。「愛の言葉を背景に相手の心にハートマークを浮かべさせる」という超マニアックでハイブロウなラブレター(イヤがられる可能性も超高し)なのだ。
愛しい。ちゅっ。ちぇ愛しい。ちゅっ。ちぇ愛しい。ちゅっ。ちぇ愛しい。ちゅっ。ちぇ愛しい。ちゅっ。 っ。スキ。大好き。愛っ。スキ。大好き。愛っ。スキ。大好き愛っっ。スキ。大好き愛っっ。スキ。大好き しい。ちゅっ。ちぇっしい。ちゅっ。ぇっしい。。ちゅ。ぇっしい。。。ちゅ。ぇっしい。。。ちゅ。ぇっ 。スキ。大好き。愛し。スキ。大好。愛し。スキ。大好。愛し。スキ。。大好。愛し。スキ。。大好。愛し い。ちゅっ。ちぇっ。い。ちゅっちぇっ。い。ちゅっちぇっ。い。ちゅゅっちぇっ。い。ちゅゅっちぇっ。 スキ。大好き。愛しいスキ。大好。愛しいスキ。大好。愛しいスキ。大大好。愛しいスキ。大大好。愛しい 。ちゅっ。ちぇっ。ス。ちゅっ。ぇっ。ス。ちゅっ。ぇっ。ス。ちゅっっ。ぇっ。ス。ちゅっっ。ぇっ。ス キ。大好き。愛しい。キ。大好き愛しい。キ。大好き愛しい。キ。大好好き愛しい。キ。大好好き愛しい。 ちゅっ。ちぇっ。スキちゅっ。ちぇ。スキちゅっ。ちぇ。スキちゅっ。。ちぇ。スキちゅっ。。ちぇ。スキ 。大好き。愛しい。ち。大好き。愛い。ち。大好き。愛い。ち。大好好き。愛い。ち。大好好き。愛い。ち ゅっ。ちぇっ。スキ。ゅっ。ちぇっ。キ。ゅっ。ちぇっ。キ。ゅっっ。ちぇっ。キ。ゅっっ。ちぇっ。キ。 大好き。愛しい。ちゅ大好き。愛しい。ゅ大好き。愛しい。ゅ大好好き。愛しい。ゅ大好好き。愛しい。ゅ っ。ちぇっ。スキ。大っ。ちぇっ。スキ。っ。ちぇっ。スキ。っっ。ちぇっ。スキ。っっ。ちぇっ。スキ。 好き。愛しい。ちゅっ好き。愛しい。ちゅっ好。愛しい。ちちゅっ好。愛しい。ちちゅっ好。愛しい。ちち 。ちぇっ。スキ。大好。ちぇっ。スキ。大好。ちっ。スキキ。大好。ちっ。スキキ。大好。ちっ。スキキ。 き。愛しい。ちゅっ。き。愛しい。ちゅっ。き。愛い。。ちゅっ。き。愛い。。ちゅっ。き。愛い。。ちゅ ちぇっ。スキ。大好きちぇっ。スキ。大好きちぇっ。スキ。大好きちぇっ。スキ。大好きちぇっ。スキ。大 |
同じステレオグラムでもランダムドットの方はあくまでも画像なので、メールに貼り付けようとするとどうしても添付ファイルになってしまって嫌がられることも多い。しかし、この「文字ステレオグラム」であれば、こちらは完全に「文字」なのであるから、いくらでもメールに貼り付けることができる。というわけで、e-mail時代の昨今にはとても使いやすいハズなのである。もしかしたら、今年の年末には「2002年度のラブレターe-mailの半分はこのNihongo3Dを用いて作成されました」という驚愕の事実が判明しても不思議でないくらいなのである。
また、「言葉を紡いで-何か-を描く」のが小説であるが、このNihongo3Dを使えばまさに「言葉を並べて-何か-を浮かび上がらせる」ことができる。例えば漱石の草枕の冒頭の文章で「角張った人の世」を描いてみたものが下の文章である。この文章をぼんやりと眺めてみれば、
人の世が住みにくいからとて、越す国はあるまい。あれば人でなしの国へ行くばかりだ。人でなしの国は人の世よりもなお住みにくかろう。という文章を背景にして、「角張った人の世」が何と浮かび上がってくるのが判るハズだ。
さお)させば流されるさお)させば流されるさお)させば流されるさお)させば流されるさお)させば流さ みにくさが高(こう)みにくさが高(こう)みにくさが高(こう)みにくさが高(こう)みにくさが高(こ 、詩が生れて、画(え、詩が生れて、画(え、詩が生れて、画(え、詩が生れて、画(え、詩が生れて、画 ない。やはり向う三軒ない。やはり向う三軒ない。やはり向う三軒ない。やはり向う三軒ない。やはり向う 「人の世」に傍点]が「人の世」に傍点]が「人の世」に傍点]が「人の世」に傍点]が「人の世」に傍点 の国へ行くばかりだ。の国へ行くばかりだ。の国へ行くばかりだ。の国へ行くばかりだ。の国へ行くばかり 住みにくかろう。 越住みにくかろう。 越住みにくかろう。 越住みにくかろう。 越住みにくかろう。 、束(つか)の間(ま、束(つか)間(ま、束(つか)間(ま、束((つか)間(ま、束((つか)間(ま に画家という使命が降に画家という命が降に画家という命が降に画家家という命が降に画家家という命が降 が故(ゆえ)に尊(たが故(ゆえ)尊(たが故(ゆえ)尊(たが故((ゆえ)尊(たが故((ゆえ)尊(た かど)が立つ。情(じかど)が立つ情(じかど)が立つ情(じかど))が立つ情(じかど))が立つ情(じ とかくに人の世は住みとかくに人のは住みとかくに人のは住みとかくくに人のは住みとかくくに人のは住み ても住みにくいと悟(ても住みにくと悟(ても住みにくと悟(ても住住みにくと悟(ても住住みにくと悟( 作ったものは神でもな作ったものはでもな作ったものはでもな作ったたものはでもな作ったたものはでもな ある。ただの人が作っある。ただのが作っある。ただのが作っある。。ただのが作っある。。ただのが作っ 人でなし[#「人でな人でなし[#人でな人でなし[#人でな人でななし[#人でな人でななし[#人でな [#「人の世」に傍点[#「人の世に傍点[#「人の世に傍点[#「「人の世に傍点[#「「人の世に傍点 をどれほどか、寛容(をどれほどか寛容(をどれほどか寛容(をどれれほどか寛容(をどれれほどか寛容( こに詩人という天職がこに詩人とい天職がこに詩人とい天職がこに詩詩人とい天職がこに詩詩人とい天職が のどか)にし、人の心のどか)にし人の心のどか)にし人の心のどかか)にし人の心のどかか)にし人の心 う考えた。 智(ち)う考えた。 智(ち)う考えた。 智(ち)う考えた。 智(ち)う考えた。 智( とお)せば窮屈(きゅとお)せば窮屈(きゅとお)せば窮屈(きゅとお)せば窮屈(きゅとお)せば窮屈( 所へ引き越したくなる所へ引き越したくなる所へ引き越したくなる所へ引き越したくなる所へ引き越したく 人の世[#「人の世 人の世[#「人の世 人の世[#「人の世 人の世[#「人の世 人の世[#「人 どな)りにちらちらすどな)りにちらちらすどな)りにちらちらすどな)りにちらちらすどな)りにちらち らとて、越す国はあるらとて、越す国はあるらとて、越す国はあるらとて、越す国はあるらとて、越す国は 「人でなし」に傍点]「人でなし」に傍点]「人でなし」に傍点]「人でなし」に傍点]「人でなし」に傍 世が住みにくければ、世が住みにくければ、世が住みにくければ、世が住みにくければ、世が住みにくけれ の間でも住みよくせねの間でも住みよくせねの間でも住みよくせねの間でも住みよくせねの間でも住みよく あらゆる芸術の士は人あらゆる芸術の士は人あらゆる芸術の士は人あらゆる芸術の士は人あらゆる芸術の士 |
疲れたときにCRT画面の遙か遠くを眺めるようにして、漱石の言葉をボンヤリと眺めてみれば、その言葉が見る見る立体的に立ち上がって、角張った世界が起きあがってくるのである。疲れたとき、ボンヤリした時には、ぜひこの「草枕2002by 漱石フューチャーリングhirax.netを眺めて、そして楽しんでみてもらいたい。もしかしたら、バラバラに並べられたこんな文字が心の中で不思議に立ち上がってくるのかもしれない、と思うのである。
飛び出せぬ「この世が」住みにくければ、少しはそれを住みよくせねばならぬ。だから詩人という天職と、画家という使命ができる。あらゆる芸術は「この世」をのどかにし、人の心を豊かにするがゆえに尊とい。
2002-04-24[n年前へ]
■視線のベクトルは未来に向くの?
マンガのストーリーの方向を顔向きで探る 前編
一年くらい前から、コンビニで300円ほどの安いコミックをたまに買うようになった。休日の早朝、コンビニで発泡酒とおつまみを買って、ついでにそんな安いコミックを買って、そして、ビールを飲みながらそれを読むのがワタシの休日のささやかな(だけど至高の)幸せなのである。そんな至高の幸せをかみしめるとある休日、286円の西岸良平の「三丁目の夕日」を読みながら、ワタシはふと思ったのである。
これまで、「できるかな?」では、様々な小説、例えば「星の王子さま」「明暗」「こころ」「草枕」「失楽園殺人事件」といった小説を色々と解析してきた。そして、その中の主人公達がどんな風に動いていくのかとか、作者が何を考えているかとか、あるいは、犯人は誰かであるのか、などを調べてきた。何でそんなことを考えるの、と人には聞かれそうだけれども、とにもかくにもワタシはそんなことを考えてきたのである。そして、さらにふと考えてみれば、ワタシの至高の幸せを支える素晴らしき286円のマンガ本に関して、ワタシはストーリー構造などを真剣に考えてみたり、調べてみたりしたことはなかったのである。イケナイ、イケナイ、こんなことでは「恩知らず」野郎としてワタシにはバチが当たってしまうに違いないのである。
そこで、今回「コミックの中のストーリー構造」について調べてみたい、と思う。コミックの中で主人公達がどのような方向へ進もうとしているのか、あるいはその歩みの中で主人公達は一体何を考えているのか、などについて少し調べてみることにしたのである。
これまで、小説中のストーリー構造や主人公達の動く方向を調べるときには、「特定の言葉や主人公達」が登場する位置を調べたり、あるいは他の言葉や登場人物との相関を調べたりしてきた。それでは、一体マンガのストーリー構造や主人公達の動く方向を調べるにはどうしたら良いだろうか?そんなものどうやって調べるの?と一瞬悩んでしまいそうではあるが、ちょっと考えてみればそれはとても簡単なのである。小説と違って、マンガでは登場人物達がちゃんと見えるカタチで描かれているのである。主人公達がどの方向を向いているかがちゃんと描かれているのである。そしてまた、主人公やその周りの人々や、ありとあらゆる人々がどんな方向を向いているかがもうありのままにちゃんと描かれているのである。
だったら話は実に簡単、マンガの中の登場人物達の向きを刻々調べてみれば、そのマンガのストーリーの中で主人公達がどちらへ向かって何を見ながら動いているかが判る、というわけだ。実に即物的でシンプルなアプローチである。
善は急げ、というわけで、早速今さっきまで読んでいた手元に掴んだままの西岸良平の「三丁目の夕日 ジングルベル」の中から、「霜ばしら」という短編を題材にして、その中の主人公の顔の向きを調べてみることにした。ある恋人同士の、とても楽しくて、そしてとても悲しい物語である。
まずは、マンガのコマ中の登場人物達の向きと角度の対応表を下の表のように定めた。登場人物がコマ中で右方向を向いているときに0度とし、正面方向(すわなち読者方向)を向いている時が90度。コマの左方向を向いていれば180度である。そして、280度では真後ろを向いているという具合である。
270 | ||
180 | 0 | |
90 |
このようにコマの中に登場する主人公達の向きを数値化することにして、話の冒頭から結末までの各コマ中での主人公(周平)とその恋人(アキちゃん)の向きを調べてみたのが下のグラフである。青色の四角が主人公で、赤色の三角がヒロインである。また、その二人が向かい合ってる場合には朱色の丸を方向=0の位置に書き入れてみた。グラフ中では水平軸がストーリーの時系列で、左端が話の冒頭であり、右端が話の結末、そして縦軸が「主人公達の向かう方向」である。また、ヒロインのアキちゃんが途中の2カ所にしか現れないのは少しばかり悲しいストーリーのせいだ。この「霜ばしら」は主人公とアキちゃんの涙を誘う悲しい物語なのである。
左端 = 話の冒頭 右端 = 話の結末 縦軸 = 主人公達の向かう方向 |
このグラフを少し眺めていると大体の特徴が見えてくるだろう。すなわち、
- 主人公達はほとんど45、135、235度の3方向しか向いていない
- それ以外の向き(例えば315度)を向く場合などは、ほとんどが「向き合っている」場合である
- そして、135度の方向を向いていることが圧倒的に多い。
しかし考えてみれば、これらの特徴はごく当たり前なのである。まずは、舞台やテレビと同じく、登場人物達は読者にお尻を向けるわけにはそうそういかない。読者に顔を見せずにお尻を向けていたら、誰が誰だかよく判らなくなってしまうに違いない。だから、登場人物達はあまり後ろを向くわけにはいかない。どうしても、主人公達は文字通り「前向き」にならざるをえない。もし、後ろを向くとしたら、それは文字通り登場人物達に「後ろを向かせる」何らかの強い意図に基づく場合以外ありえないに違いない。それが、例えば他の誰かと「向き合って」いる場合であったり、あるいは他の表現意図に基づくものであろう。
また、日本におけるマンガが右から左に読まれていくのであるから、読者の視線の動きの中では「右のコマ= 過去」「左のコマ = 未来」と時間感覚が成立している。マンガを読む私たちの視線のベクトルは右から左、過去から未来へと進んでいるのである。すなわち、「マンガの中の話の流れ= マンガの中の時間・因果の流れ」をスムーズにするためには、主人公達が過去なり未来なりのコマの方向を向くことで、時間の流れ=因果の流れをスムーズに受け継ぐのが自然だと考えられる。過去に発生した「何か」に応えた反応をするならば、主人公達は当然右を向くし、そうでないならば通常は時間の流れる先の向き= 左側を向くことになるだろう。
すると、マンガの中の登場人物達は読者に対して「前向き」であって、なおかつ時間の流れる方向に前向きの「左側」を向くのがごく自然である、ということになって、「コマの中の主人公達は135度の方向を向くことが圧倒的に多い」ということになるのだろう。まぁ、当たり前の話である。
そしてさらには、こんな風にも考えられる。「右<->左」方向は時間の流れに対する主人公達の向きであって、「前向き<->後ろ向き」は登場人物達が文字通り「前向きであるか」あるいは、あるいは「後ろ向きであるか」という「主人公達の内たる気持ちの向き」ではないだろうか、とも考えられるのである。
だから、例えばこの「霜ばしら」の結末の部分80コマ以降を見ると、45->135->225度という主人公のベクトルの変化がある。これは主人公が「過去に向かう向き(死んでしまったヒロインへを見る向き)→未来に向かう方向へ進む→未来に向かう(だけど、やはり亡くなってしまったヒロインをたまに振り返りながら)」というまさに主人公のベクトルを描き出しているのではないだろうか、と思うのである。そんな風に眺めてみれば、最後のコマの主人公の向きが「何かを振り返りながら、だけど未来へと歩いていく様子」をまさに映し出しているようにも見えるのである。ストーリーはここに書くわけにはいかないけれど、こんな想像も割と良い線をいってるのかもしれない、と思ってみたりするのだ。
こんな風に、単にマンガの登場人物の向きだけで主人公達の向かうベクトルを探る、なんていうことが乱暴なのはさらさら承知の上である。こんな人物の配置解析によるストーリー解析が的を射ているのか、あるいは的を外しまくっているのかは、ぜひこのマンガを読んで実際に判断してみてもらいたい、と思うのである。
さて、こんな風に舞台の右と左、上手と下手に対してどんな風に登場人物達が向かっていくのか、なんてことを考えるといろんな想像が広がってとても面白いのである。時間の進むベクトルであるLeftStage(舞台から見ると逆なんてことは言わずに)に消えていく登場人物達(例えば今回の話では恋人アキちゃんを亡くしてしまった主人公)は「残されたもの達」を連想させてみたり、あるいは、色んなものを眺める私たちの視線のベクトルは本当に未来に向いているのかな?などと色んな想像や空想を駆けめぐらせてみることも、それはそれでとても趣深いことだなぁと思うのである。
2002-05-26[n年前へ]
■「ブラックエンジェル」松尾由美
松尾由美「ブラック・エンジェル (創元推理文庫)
」を夜読む。「自分が少なくとも表面的に目指していることを叶え、他のことは忘れていく」という推理?小説。それにしても創元推理文庫は懐が深いなー。いしいひさいちも入ってるもんなー。
それはともかく、モラトリアム系中年層には案外面白いかも。
2002-06-02[n年前へ]
■職場のスフィンクスの名台詞
止まったエスカレーターに何故上手く乗れないのか?
ある朝、いつものように出社すると、いつもと違うことがあった。職場へ行くために通らなければならないエスカレーターが動いていない。エスカレーター横のガラスが割れているため、それを直すまではエスカレーターを止めたままにしているらしい。かなり、不便ではあるが、壊れたモノはしょうがないのである。しょうがなく、建物の端にある階段をエッチラ、オッチラ上って職場の居室へ行ったのである。きっとスカレーターはすぐに直るだろうと思っていたのだが、残念ながらエスカレーターは直る気配が全く無いまま数日過ぎた。いつまでたっても、いぜんとしてエスカレーターは停止したままなのである。しかし、私たちの職場にはそのエスカレーターを使わないと辿り着けないので、その職場の人達はその止まったままのエスカレーターをいつしか階段代わりに登り降りするようになっていた。止まったエスカレーターは「楽ちんなエスカレーター」ではないけれど、ただの階段としては十分使える、というわけだ。
ところが、である。ただの階段と違って、何故か止まった「エスカレーター」は歩きづらいのである。特に、エスカレータに乗る最初の一歩がなんとも上手くいかないのだ。よく、エスカレーターに乗る最初の一歩や、エスカレーターから降りる最初の一歩が上手く出せない人がいるが、ちょうどあんな感じになってしまうのである。普段、動いているエスカレーターを使う分には、私は「上手く乗れない」なんてことは全然無いのだけれど、何故か止まったエスカレーターに足を踏み出そうとすると、体のバランスが崩れてしまうのだった。もちろん、エスカレーターが止まっていることも、微妙に段差が違うことも判っているのだけれど、だけれども何故かバランスを崩してしまうのである。
というわけで、私も含めてあらゆる人達がスカッスカッと何故かバランスを崩しながら、止まったエスカレーターに恐る恐る足を踏み出していたのである。
そんなある日、止まったエスカレータの横にシミュレーションプログラム作成を生業とするN氏がいつまでも立っていることに気づいた。そして、止まったままのエスカレーターを登り降りしようとする人達を次から次へとつかまえては、N氏は何事かを喋りかけているのである。何故だか、N氏は通る人通る人に何かの言葉を発しているのであった。それはまるで、ピラミッドの前に佇み、そこを通る旅人達に謎かけをするというスフィンクスであるかのようだった。
もちろん何処へ行くにもその止まったままのエスカレーターを使わなければならないので、私もすぐにN氏改めスフィンクスに捕まってしまうこととなった。そして、N氏はこう言ったのである。
「止まったエスカレーターに足を踏み入れるとき、何故だか体のバランスが崩れるような気がしないか?オマエは?」もちろん、それは私も不思議に思っていたわけで、
「そー、そー、そうなんですよねー。ただの止まったエスカレーターなんだから、普通の階段みたいなものなのに、不思議ですよねー。」と私が答えると、
「喝〜!不思議ですよねー、じゃぁないだろー。何故?どうして?を追求するのがオマエの仕事じゃないのかー!」と怒るのである。そ・それは私の仕事ではないのじゃないだろうか…、百歩譲ってそれが趣味なら確かにそうかもしれないが…、ワタシは別に子供電話相談室ではないんだけどなー…、と私が心の中で考えていると、
「ちゃんと、物事にはすべて原因があるハズだぁー。止まったエスカレーターに足を踏み入れるとき、何故体のバランスが崩れるのか、その理由を考えてみろー。」と怒りまくるのである。ここまでくると、ピラミッドの前で謎かけをするスフィンクスそのものである。いや、むしろそれよりタチが悪いかもしれない。何しろ、このスフィンクスはシミュレーション・プログラムを作るのを仕事にしているのだから、物理と論理に長けているのである。だから、きっと結構素朴であろう元祖スフィンクスよりなおさらタチが悪いのだ。
う〜む、これはそう簡単にこのスフィンクスからは解放されそうにないな〜、と思いながらも、私が
「う〜ん、エスカレーターが止まっている、って判っていても、無意識のうちに体がエスカレーターが動いていると思いこんじゃうんですかね〜。それで、何かバランスを崩してしまうんですかね〜」とあいまいに答えると、
「違〜う。答えはちゃんとすぐ目の前にあるのに、それにオマエは何故か気づいていないだけなのだ〜」と、スフィンクス、じゃなかったN氏はものすごく嬉しそうに叫ぶのだった。そして、そのスフィンクスは驚くべき解説を始めたのである。
「オレ達はエスカレーターが止まっている、という大きなことに気をとられて目の前、いや足下と言った方が良いか、の大事なことが見えていないんだよ。ホラ、エスカレーターの動く階段部分の直前がどうなっているか、良く見てみろよ。そこだけ傾いて斜面になっているだろう?」「あー、確かにそーですねぇ〜」「確かにそーですねぇ〜、じゃねぇよ。エスカレーターに乗ろうとするときに、俺たちの体を支えている足はそのちょうど斜面の上に乗っかっているわけだよ」「…」
「だから、エスカレーターに足を踏み出そうとする瞬間、実はオレ達の体はエスカレーターの方に傾いてしまっているわけだ。だけど、オレ達は- エスカレーターが止まっている - ということに気をとられて、斜面の上でオレ達の体がすでに傾いてしまっていることに気づかないわけさ」このN氏改めスフィンクスが語る話を聞いたときに、ワタシは目からウロコが落ちるような気がした。そして、ワタシの頭の中で加納朋子「ななつのこ」冒頭の台詞の文章「オレ達が止まったエスカレーターに足を踏み入れるとき体のバランスが崩れるのは、踏み出したオレたちの足に原因があるわけじゃなくて、もう一方の足下が傾いているということに気づかないことが原因なわけだ」
「答えはすぐ目の前に書いてあるのに、オレ達はただそれに気づかないだけなんだよー」
いつだって、どこでだって、謎はすぐ近くにあったのです。何もスフィンクスの深遠な謎などではなくても、例えばどうしてリンゴは落ちるのか、どうしてカラスは鳴くのか、そんなささやかで、だけど本当は大切な謎はいくらでも日常にあふれていて、そして誰かが答えてくれるのを待っていたのです....。が流れ出したのである。何もスフィンクスの深遠な謎などではなくて、職場の壊れたエスカレーターの前でも謎(大切かどうかはともかく)はいくらでも日常にあふれていて、そして時には誰かがスフィンクスに変身して、その謎に答えを出してくれるのであった。なるほど、なのである。
そして、「動く階段部分の直前にある斜面」を意識するようになった途端、止まったエスカレーターでも何の問題もなく乗れるようになり、むしろ、どうしてあんなにスカッスカッとバランスを崩していたのか不思議に思えるほどになったのだった。
で、その後スフィンクス改めN氏と「動く階段部分の直前にある斜面」のその他の効果、止まったエスカレーターに足を踏み入れるとき体のバランスを崩してしまうということ以外の効果、についてしばらく話をした。で、数日後成田で「動く歩道」の上を歩きながら、その効果を確認したので、その内容を書いてみる。
上の写真は平らな「動く歩道」だが、この場合にも先の場合と同じように、「動く歩道部分」直前は斜面になっている。そして、私たちは「動く歩道」に片足を踏み出すとき、もう一方の足は必ずその斜面部分に立っている。それは、ちょうど跳び箱を飛ぶ前に必ず私たちが踏切板を踏み込む瞬間のようなのである。すると、斜めになった面に片足で立った私達は、それに気づかないまま無意識のうちに体が前に倒れ、加速するのである。もちろん、斜面を片足で後ろに踏み出す効果もあって加速するのである。
私達が普通に歩いている状態に比べて、「動く歩道」の上を歩く状態というのは、私達の体の速度は速いのである。だから、普通に歩く状態から「動く歩道」の上を歩く状態にスムースに移行するためには、私達はその瞬間に「動く歩道」の速度に応じた若干の加速をしてやらなければならない。ところが、「動く歩道部分」直前の斜面のために、無意識のうちに私達はその加速を行ってしまうのである。だから、比較的スムースに「動く歩道」の上に移動して、しかもその瞬間の不連続な速度変化を感じずに済むわけだ。
そして、「動く歩道」を降りるときには、これとは逆のことが生じる。つまり、通常の歩道部分に踏み出した片足が、斜面部分に着地し、その斜面が私達の方に傾いているため上り坂を上るような状態になって、自然と私達の体は減速するのだ。だから、「動く歩道」から普通の歩道部分への移行がスムースになる、というわけなのである。
このような効果が誰にでも起きるのかどうかは判らないし、仮にそれが一般的に起きる現象だとしても、それが制作者達の意図したものであるかどうかは判らない。しかし、止まったエスカレーターを前に当惑したことのある人や、あるいはいつもエスカレーターや「動く歩道」に上手く乗れない人は、ぜひ「動く部分直前の斜面」に気をつけながら、足を踏み出してみてもらいたい、と思うのだ。
それにしても、「答えは目の前に書いてあるのに、オレ達はただそれに気づかないだけ」とは、ミステリー小説の中の気持ちの名探偵の台詞のようである。色んなところで色んなことで、私達はよろめいたり、つまづいたりするけれど、そんな時目の前の景色や、足下の景色をじっと眺めてみれば、目の前にその答えが大きく書いてあったり、あるいは転がっていたり、そして時にはその答えを踏みつけていたりするものなのかもしれないな、とふと思ったりするのである。だけど、やっぱり私達はそんな答えには気づかないまま、無意識に体が傾いてバランスを崩してしまうのかもしれないな、と思ったりもするのである。
2002-07-18[n年前へ]
■抜井規泰「一人の闘い」
最近、新聞記事を「少なくとも前より」注意深く読むようになった。今日は朝日新聞夕刊の抜井規泰という人の「一人の闘い」という記事を読んだ。スポーツ部の記者のようだが、山際淳司が書く小説のような記事だった。
気のせいか、新聞のインタビュー記事は、ほとんどの場合インタビューされる人のセリフで締めくくられるように見える。インタビューされる人の台詞の内のどれを選ぶかが、記者の書ける範囲での精一杯の意思表示、あるいは感情表現なのかな。きっと、そうなんだろうな。きっと。
たまには、記者の「言葉」で終わる記事もあっても良い。