1999-06-28[n年前へ]
■風呂場の水滴を考える。
オールヌードの研究員
風呂場の天井から浴槽めがけて、水滴がしたたって音がしているのはよくある風景である。ピーンという(もちろん人によっても印象は違うのだろうが)気持ちのいい音がしている。似たようなものとしては、水琴窟などもある。この音がなぜ鳴るかは、ロゲルギストの「物理の散歩道」に詳しい考察がある。それによれば、水滴が一粒落ちたように見えても、実は何粒かに別れており、ちょうどカルガモの親子のようになっているという。つまり、大きな親の水滴の一粒の後を、何粒かの小さな子どもの水滴が追いかけているという具合である。まず、水滴の親が水面に空洞をつくり、その中に子どもの水滴が飛び込むことにより音が出るという。結局、水滴の音を作っているのは、その子どもの水滴の方だという。「物理の散歩道」の中では、針をつたって水滴を落とせば、子どもの水滴ができないという。
風呂に入って、濡らした手から水滴を落としてみる。指の爪の先から水滴を落とすと音はほとんどしないが、指の「はら」から落とすと派手に音がする。ぜひ、自分でも確かめていただきたい。
爪先は比較的尖っているので、落ちる水滴は一粒だが、比較的平らな指の「はら」からの場合には、カルガモ親子のような水滴が落ちているせいだろう。
なぜ、このような違いが生じるかを推測してみたい。まずは、下の絵を見て欲しい。
上の上手な絵が言いたいのは、次のような推測である。
- 平らな表面から水滴が落ちる際には、長く伸びた水のブリッジが出来ていて、1つぶ目の水滴が落ちた後も、このブリッジ部分が「カルガモの子ども」のように小さな水滴となって後を追いかけていくのではないか。
- それに対して、尖った表面から水滴が落ちる際には、先のブリッジ部分のほとんどは水でないため、後続の水滴は発生しない。
計算モデルとしてどのようなものを使うかであるが、私の知っている範囲では大きく分けて2種類のやり方がある。
- 流体をモデル計算する。すなわち、Navier-Stokesの方程式を解く。
- 流体を粒子のようなものの連続体として解く(ex.格子ボルツマン法)
電気通信大学情報工学科情報数理工学講座渡辺研究室( http://assam.im.uec.ac.jp/fluid.html )
また、水滴が水面に衝突する状態の計算は、電気通信大学情報工学科情報数理工学講座渡辺研究室にもあるし、他にもNaSt2DというFreeの2次元Navier-Stokes方程式のソルバーを用いて行われた計算結果が
http://www5.informatik.tu-muenchen.de/forschung/visualisierung/praktikum.html
にある。
Michael Griebel氏らによるNast2Dのコードは公開されているので、その中身をいじりながら、計算を行う予定である。
とりあえず、今回はバックグラウンドを紹介する所までで、次回(といってもすぐではないだろう)に計算の本番に入りたい。
手のひらの実験から考えると、風呂場で水滴の音が聞こえるのは天井が平らなせいだということになる。ならば、鍾乳石のようなつらら形状の天井の風呂場では音がしないのだろうか?しかし、水滴は空気中で落下していく最中には空気の抵抗をうける。そのため、大きな水滴は落ちる最中に分裂し、複数の水滴になってしまう。
となると、
- 落ちる水滴の最初の大きさは、どう決まっているのか。
- 水滴は落下するスピード、水滴の大きさがどの程度になると分裂するのか?
ところで、インクジェット方式のカラープリンターも液滴で画像を描くのだから、液滴の様子は重要な筈である。液滴が飛び散ってしまっては困るし、位置がずれても困る。各社ともカルガモの子ども水滴をなくすために色々工夫をこらしている筈だ。
実は風呂場の水滴問題は重要で、奥が深いのだ。オールヌードで私は考えるのであった。
2000-01-31[n年前へ]
■落ちゆくエレベーターの中…で悩みます?
無重力の理想と現実(仮)
今日もまた「ちゃろん日記(仮)」を読みに行くと、何とも面白い話があった。
である。この「ちゃろん日記(仮)」は「疑問とそこに隠れている真実を見つけだす感覚」に満ち溢れている、と私は思うのである。面白すぎである。さて、今回の話は、エンパイアステートビルでエレベーターが落ちたっていうけど、落ちていくエレベーターの中の人は
- 床に張り付く
- 天井に張り付く
- 宙に浮かぶ
「ほんとう〜にそうか? ほんとう〜にそうか?」
こういういかにも教科書に載っていそうな話には、時として落とし穴がある。教科書に書いてあるのは理想的で単純化した場合の結果である。それを鵜呑みにすると間違えてしまうことになる。極端に言えば、教科書に書いてあるような理想的な状態はほとんど存在しないので、教科書に書いてあるような現象はそうそう再現しない、ということになる。
ピサの斜塔から「落下の実験」を行ったのはガリレオ・ガリレイであると思っていると間違いである、というのは少し違う例になってしまうか。
久しぶりに思い出したが、私の所属していた研究室では重力測定は大きな柱であった。そして、確か大学院の入試問題の内の一題は、まさに
「落ちていくエレベーターの中の人達に働く力を精密に論ぜよ」であった(簡単に大雑把に言えば)。私はちゃんとこの問題を解けた覚えがない。いや、はっきり言えばずいぶん悩んだ覚えしかない。ってことはいまいち解けなかったのだろう。なので、「落ちていくエレベーターの中の人達は無重力状態である」と聞くと、「ほんとう〜にそうか? ほんとう〜にそうか?」と歌いたくなる。
研究室関連では、絶対重力測定を行う研究をする人達もいたわけである。絶対重力(加速度)測定は自由落下する物体の運動を測定して、重力加速度を測定するわけであるが、そう簡単に物体は自由落下してくれないのである。簡単な実験で物体を自由落下させて重力加速度を測定してみるとわかるが、大雑把な実験(自分の家ですぐできる程度の)では一桁ちょいの精度しか出ない。一桁ちょいの精度しかでないということは、(例えば)体重が10%弱程度になったように感じるかもしれないが、それは無重力ではない。体重が60kgの人であれば、6kgも感じてしまうのである。(雑な話だが。)
空気中を落ちてくる雨だってそうだ。もし、雨が自由落下を続けていたらものすごいスピードになって、雨に打たれるのは命がけになってしまう。しかし、実際にはそんなことはない。空気抵抗で速度は飽和してしまい、自由落下状態ではないからである。
さて、本題である。果たして、
例えば、
- 若井研究室の研究概要
- http://mech.gifu-u.ac.jp/~wakailab/research/Basic/base_h.html
北海道の上砂川町にある施設(JAMIC)で、490m落下させることにより、10秒の無重量環境が得られます。落下中は空気抵抗を受けるので、落下カプセルを二重構造にし、空気抵抗を無視できるように工夫してあります。と、記述されているように、実際には工夫をこらさなければ無重力状態は実現できないのである。絶対重力系などでも空気抵抗を無視するために、投げ上げて往復運動を測定するなどの工夫がいるのである。
と、言葉だけで書いてもしょうがないので、適当な計算でもしてみる。いや、もちろん、実験をするのが良いわけであるが、面倒だし…
まずはエレベーターには、
- 何の抵抗も働かない
- 空気抵抗とワイヤーの抵抗が働く
そして、エレベーターの中の人には空気抵抗は働かないとした。エレベーターの中の空気と人の速度差はほとんどないからである。また、エレベーターは人よりもはるかに重く、人の重さはエレベーターの運動に何の影響も及ぼさないと近似した。
その計算の結果を以下に示す。これが落ちていくエレベーターの軌跡である。抵抗のない場合が(赤)で抵抗のある場合が(青)である。エレベーターが落ち始めてから30秒後までの軌跡である。
理想的な場合(赤)に比べて、抵抗のある場合(青)の落ち具合が鈍っているのがわかると思う。それでは、もっと時間が経った場合はどうだろうか?それを次に示す。エレベーターが落ち始めて300秒後までの軌跡である。つまり、五分間もこのエレベーターは落ち続けているのである。落ちた距離は理想的な場合で40kmの深さに達している。すごいエレベーターである。こんなに落ち続けていると、すでに重力加速度が一定とは言っていられなくなる。
ここまでくると、抵抗のない場合(赤)と抵抗のある場合(青)では全然違う軌跡になっている。抵抗のない場合(赤)では放物線そのものであるが、抵抗のある場合(青)では一定の速度になっている。
それでは、エレベーターがこのような状態になった時の、エレベーターの中の人に働く加速度(と実際の加速度の差分)を示してみる。これを見れば、落ちていくエレベーターの中の人が無重力状態であるかどうかがわかる。まずは、300秒後までの変化を見てみる。
理想的な場合(赤)はずっとゼロすなわち無重力状態であるが、抵抗のある場合(青)は無重力状態は最初だけで、50秒後位には通常の状態に戻ってしまっている。最初の部分をもう少し拡大してみる。次に示すのは、3秒後までの落ちていくエレベーターの中の人に働く重力加速度(と実際の加速度の差分)である。
これを見ると、あっという間に人は無重力状態ではなくなっているのがわかると思う。
というわけで、先の三つの選択肢、
- 床に張り付く
- 天井に張り付く
- 宙に浮かぶ
先日みたニュースのエレベーター落下実験の中で、中にいた男性リポーターが、落下しながら「ひぃ?」とアオ向けになった状態で床にハリ付いていたからなのです。という実際の現象が正しいのである(いや、もちろん状況はかなり異なるが)。「頭の中だけ」で考えたことというのは大抵の場合間違ってしまう。(もちろん、今回の「できるかな?」の話もその例外ではない)
そして、その後に、
ありはきっと、速度がそこまで充分でなかったのと、もしやのトキのために、男性リポーターに安全な姿勢をとらせていたタメだと思われます。とあるが、実際問題として「速度がそこまで充分」になることは未来永劫ないわけである。だから、(私の中では)エレベーターの中の男性リポーター氏は床から浮かぶことはないのである。
こういうのは、結局考える人の数だけ答えがあるのだと思う。もし、その内のどれが真実に一番近いかどうか知りたければ、実験すれば良いだけの話だし。
2003-01-27[n年前へ]
■ツララに注意
先週末の新穂高温泉ではカツイエさんと滑っていたのである。というわけで、露天風呂の写真はよく見てみると(よく見なくても)、カツイエさんが全裸で写っているのであった。で、風呂に入っているときに上から落ちてきたつららが私の腕をえぐり風呂に落下したのだった。つらら恐るべし。腕で本当に良かったのである。あれが、目の近くにでも当たっていたら大事だったに違いないのである。
2005-01-25[n年前へ]
■「舞い落ちる枯葉と、名刺落下のはためき」
「秋になると枯葉が不規則に舞い落ちるのをよく目にする。流体力学の複雑さを象徴する現象として教科書にもしばしば登場する。この舞い落ちる枯葉の数値シミュレーションを行うために、(何故か)手から離れた名刺が左右にヒラヒラとはためきながら落下するようすを計算してみた」という「舞い落ちる枯葉と名刺落下のはためき」
寺田寅彦が椿の花が落下するようすを描いた「思い出草」の話を思い出す。寺田寅彦が理研の庭の椿の花を観察した話をふと思い出す。
2005-02-19[n年前へ]
■『○×的センス』と「素晴らしい科学」
ちゃろん日記(仮)文体で遊んだときには、寺田寅彦の文章などを比較例に使ってみました。寺田寅彦と言えば、椿の花が落下するようすを描いた「思い出草(やこの件に関する科学論文)」が理研の庭の椿の花を実験材料にしていることは有名かもしれません。その理研が発行している 理研ニュース'05/1の河合隼雄・野依良治特集対談がとても面白く楽しめます。対談の中から、気になる一節をメモし始めると…、全文になってしまいそうですね。
「科学」と「論理」と「情緒」と「言葉(数式と日常語)」
(野依)自然科学者として、文化には4つの大きな要素があると思っています。ひとつは“科学”、それから“論理”、3番目が“情緒”、最後に“言葉”だろう…(河合)言葉の中で、一番はっきりしているのが数式なんですよね。日常語は、あいまいさを持っていますから、サイエンス(科学)はそれをできるだけ排除しようとする。できたことを説明し、記述する場合は数式といったものが強いのですが、新しいものを見つけていくときには、あいまいさの中に入っていかないと駄目なんです。「理系」と「文系」
(野依)日本の教育では比較的若いときから理科系・文科系を分けますが、私は亡国への道だと思っているのです。(河合)私も絶対に反対です。高等学校くらいの年齢で理科系・文科系なんていうのは、本当におかしいと思います。「人を疲れさせない・駄目にしない」
(野依)研究所も大学もそうですけれども、研究を通して人を育てることが大事であって、人を疲弊させてはいけないと思うんです。しかし今の研究所では、評価とか資金調達とかいろいろなものが導入されて、人を疲れさせています。これは研究者だけではなくて、事務方にもいえるわけですが。そういった研究所の職員をエンカレッジ(激励)するには、研究所全体の文化度を上げなければならないと思っています。さもなければ人間が駄目になります。「素晴らしい科学というのは、わかりやすい」
(野依)社会に自分たちがやっていることの意義を分かりやすく話すということは、大変大きな意味があると思います。素晴らしい科学というのは、やはり分かりやすいんです。