2002-04-27[n年前へ]
■視線のベクトルは未来に向くの? from 麗美さん
偶然ですが、4月24日に、NHKで夜中に「BSマンガ夜話」の再放送をやっていて、その中で韓国のマンガ「アイランド」を取り上げて、この「できるかな?」と同じような分析を夏目房之介がやっていました。もちろん夏目氏の場合は「できるかな?」のような理系的・数量的な分析ではなく、ストーリーに則った文学的・文芸的分析だったわけですが、両者とも同じような結論ですね。ということで、人物の配置解析によるストーリー解析は的を射ていると思います。
夏目氏の分析でおもしろかったのは、韓国ではマンガの台詞は当然ハングルだから縦書きではなく横書きになります。そのため、日本のマンガのように右から左に読み進むのではなく、左から右に読む進む。つまり、韓国では左開きなのです。とすると、絵も基本的に左右が逆転されます。右に向いた顔は未来指向・肯定的・明るさを表わし、左に向いた顔は過去回顧・否定的・暗さを表わします。じゃあ、日本のマンガの絵をそのまま左右反転させればいいかといえばそうでもないらしいです。台詞が横書きであることも関係して、視線の動きが単純に左右反転では合致しないわけです。
日本人の未来は左で、韓国人の未来は右なんですね(笑い)
(リンク)
2002-08-17[n年前へ]
■印刷文字の可読性(第一報)可読性の概念と過去の研究の解説
川合ら。第二報以降も探さなきゃ。
2002-12-07[n年前へ]
■私たちの手で全てを描く
ATOK数式処理プラグインを作る
大雑把に言えば、「ノートや本で使われている紙」を使うときには「読む(表示する)」「書く(記録する)」という大きな二つの目的がある。もちろん、紙自体には「拭く」とか「包む」とかいった重要で欠かせない役割がある。しかし、トイレットペーパーじゃあるまいし、「本のページでお尻を拭く」なんてのは何かが差し迫ったよほどの非常事態でなければ、絶対しないに違いないのである。とりあえず、「読む・書く」というのが二つが重要なところに違いない。
しかも、もう少し考えてみると、結局のところそれらの目的・用途は
- 自分で何かを書く・描く
- 他人の何かを読む・見る
で、重要なことは紙はこれらの目的の中で「書かれたり、描かれたり」はしているけれど、決して「書いたり、描いたり」はしていないのである。紙の上には文字や言葉やあるいは絵がスラスラと書かれていくわけだけれど、それらの文字や言葉や絵といったものを描いているのは決して紙ではないのである。それらを実際に描いているのはペンであり、そのペンを持っている私たちの手なのである。紙の上に色んなものが描かれていくけれど、それらは単に紙の上に描かれているだけで、全てを描いているのはペンを持った私たちの手なのである。
だから、アランケイが提唱したダイナブックに近づきつつあるタブレットPCなんかものを眺めていると、それはあまりに多くの役割を「ブック=紙」に求めすぎているんじゃないのかなと感じてしまう。「読む(表示する)」「書く(記録する)」という役割を全部求めようとすると、私たちの「手」で使う道具にしては「重く」なってしまうんじゃないだろうか、と思ったりするのである。それでは、私たちの手で持つ軽いペンではなくて、まるで手で抱える重くて厚い本になってしまうんじゃないだろうか、と思うのだ。あるいは、もしかしたら「読む」ことに重きをおいていて、「書く」ことを無意識に軽んじているのかもしれない。
だから、「ペンが紙の上でどういうものを描いたり動いたりしたかをペン自身が覚えていて」「必要なときに、無線でPCにそれらが描いたものやペンを持ったての動きを転送する」というアノトの電子ペンなどを見ると、逆にとても面白いなと感じるのだ。こういうものだったら、自分で何かを書いたり描いたりする際にとても役に立つ「私たちの手の一部としての賢いペン」になるかもしれない。
ATOK数式処理プラグイン
そういえば、PC上で動いてはいるのだけれど「IMEなどの日本語入力システム」だって「私たちの手の一部としての賢いペン」に違いない。例えば、それらの日本語入力システム無しには、「自分で何かを書く」際に難しい漢字を書くことはきっとできないと思う。私たちが曖昧に頭の中に思い浮かべた日本語をタイプすると同時に日本語入力システムがちゃんとした漢字に変換することで、私たちの言葉が次々ときちんとした漢字でタイプされていくのである。つまりは、日本語入力システムは私たちの手の一部としての「辞書内蔵の賢いペン」なのである。
ところで、事務処理や技術的な仕事に携わる人であれば何かの計算のために電卓を使うことも多いに違いない。PCを使いながら、そんな計算をしたいときにはどうするだろう?私はこれまでコマンドラインクイック起動のバーでcalcとタイプして電卓ソフトを起動していたのである。そして、電卓ソフトに数字を入力して計算をしていた。
しかし、こんなことをしているとちょっと何だか変な気分になるのである。どうして、電卓の進化した姿であるハズの二十一世紀のコンピューターで、わざわざ電卓ソフトを立ち上げなければいけないのだろう?しかも、その電卓ソフトは昔ながらの電卓そのまま(なおかつホンモノよりもちょっと使いにくい)なんてとても変じゃないだろうか?何でもっと、楽に手軽に計算ができないのだろうか、とワタシは思ったりするのである。
というわけで、試しに日本語入力システムであるJUSTSYSTEMのATOKに「数式処理機能を追加するプラグイン」を作成してみた。通常の日本語入力システムは「辞書内蔵の賢いペン」であるわけなのだけれど、このプラグインを追加すれば、ATOKは「高機能関数電卓内蔵の賢いペン」に早変わりするのである。
- ATOK11以降に数式処理機能を追加するプラグイン(変数代入機能付き(Win98対応版) お勧め)
- ATOK11以降に数式処理機能を追加するプラグイン(変数代入機能無し 一番最初に作ったバージョン。軽いのが好きというなら)
これを使えば、文章作成中に計算をしたくなった時には、例えば
1/year= 0.00273972602739726と表示されるわけだ。sin()やcos()といった関数やpiなどと言った定数も使えるので、普通に使われるような計算であればタイプすると同時にすぐに答えを得ることができるのである。通常の日本語変換システムが「私たちがタイプすると同時に漢字に変換する」のと同様に、「私たちがタイプすると同時に数式計算をしてくれる」のである。これで、やっとPCを「計算機内蔵の賢いペン」として使うことができるわけだ。
とはいえ、こういう色んな「賢いペン」を使ったところで、結局のところそれらを描いているのはそのペンを持っている私たちの手であり、私たち自身である。書かれたり描かれていくものはペンが描いているわけではなくて、私達自身が描いたものなのである。私たち自身の心が何かを感じ、私たちの頭が何かを考え、そして、私たちの手が全てを描くのである。
2003-01-12[n年前へ]
■新穂高ロープウェイスキー場の今年・去年・一昨年
考えてみると毎年ここには行っているので、ここのページの過去ログを見てみると、2001年、2002年なんて感じだった。去年、一昨年の方が今年よりもちゃんとした写真を撮っていたかな。
今日は、少しくらいは滑ろうかとも思ったけれど、朝天気が今ひとつだったのでゆっくりと帰ることにした。出発する頃には天気も晴れてきたけれど、別にいいのである。 そして、松本でふと見かけた看板に誘われて、日本浮世絵博物館というところを見てきた。その話はまたいつか、と。
2003-03-08[n年前へ]
■過去の未来
私だって、きっと何処かにいる「もうだめなのかもしれないと迷ったりするひと」だって、誰だって、結局のところみんな時間のベクトルは未来にしか向かわないのだから、安心していいんじゃないのかな。