2007-07-10[n年前へ]
■いろいろ
from n年前へ.
それは、まさに「"高学歴"な人たちが、各種技術を使いこなす一方で、安易な考え・物語を信じる」という「オウム的な構図」を生んだ土壌にそっくりな風景が見え隠れてしている気がしたからです。
対象に触発され、知覚・感情・理性・意志活動・喜怒哀楽・愛憎・嫉妬となって現われ、その働きの有無が、「人間と動物一般」、また「敬愛・畏怖の対象となる人と憎悪・軽蔑すべき人間」を区別するものと考えられる。
正義の女神ジャスティス は目隠しをして、右手に持った剣でバッサバッサと人を切り捨てる。そう言われてみれば、キャッチフレーズ通り「座頭市」は"Justice is Blind"に違いない。
ずっと昔にラブホテルでバイトしていた時に「特別室」にだけ置いてあった「立体テレビ」 故障中で観ることができなかったけれど。ちょっと観てみたかったな。
2007-07-11[n年前へ]
■正義と"Justice"とフィード・フォワード制御
正義がフィード・バック制御に似ているとするなら、"Justice"はフィード・フォワード制御に似ているように見える。
制御対象に対する正確な知識があり、外乱が存在しない場合は、制御=基準量となる操作量を計算し操作すれば、制御量と基準量を一致させることができる。 すなわち、フィードフォワード制御とは、制御量の現在値を用いず、操作量を決める制御である。 内山 章フィードフォワード・フィードバックと経営の関係http://www.posy.co.jp/3319-6uchiyama.pdf正義の女神ジャスティスは目隠しをして、右手に持った剣で人を切る。"Justice is Blind"と言われるように、目の前で起きている景色を直接見ることなく、「制御」という介入を行うのが"Justice"だ。何が起きるかを正確に知り、そんな状況を正す方法が存在して、その方法を少しの間違いもなく把握することができる、そして、その方法を確実に実現する。そんなフィード・フォワード制御と正義の女神ジャスティスは少し似ている。
けれど、…こんな考え方もできる。"Justice"の"just"は「ジャスト」のjust"だ。右手に剣を持つジャスティスは、左手には秤を持つ。その秤で釣り合いを調べ、そして右手に持った剣で、秤が釣り合う「ジャスト」を実現する。それは、フィードバック制御にも重なって見える。
2007-07-16[n年前へ]
■創造性とミューズ
世界は限りなく広い。けれど、それと同時に、そんな世界はとても狭い、と感じる瞬間があるのも事実だ。どんなに長く生きていても、地球の上にいる99.999…%の人には一度も会うことはない。けれど、意外なところで、よく知っている名前や顔と再開することがある。
画像処理のプログラムを作るために古今東西の絵画のテキストを読んでいる時に、こんな一節に出会った。
以前クヌースというアメリカの数学者と話したとき、「絵を描くとき、自分の意志というより、頭の中に誰かがいて、わたしの感性を左右するらしく…」森鴎外も、なんだか自分を支配するものが頭の中にいて…などと書いていますが、それはこういうことだったか…」とわたしは言いました。クヌース「という」アメリカの数学者と話したとき、である。(理系であれば知らない人はいないだろう)「ドナルド・クヌースと話した時」ではなく、つまりは「読者はしらないだろうが、あるアメリカの数学者と話したとき」だ。
安野光雅 「絵の教室 」
画像処理アルゴリズムを考えるために、絵画の本を読む。そして、ドナルド・クヌースに出会う。こういった巨人を見ると、世界が実に小さなものに見える。それは、一種の錯覚のであるとも思う。けれど、こうした巨人が世界を繋ぐ高速道路の役割を果たしているのも、また一面の真実であるとも思う。
森鴎外や安野光雅や口にした「頭の中にいる誰か」「感性や自分を支配するもの」の名前を、クヌースというアメリカの数学者は口にする。
はじめ、原因不明のふとした着想から考えを進めるのだが、すると、ひとりでに論証の車がまわりはじめて、論文が楽にできあがる。…思うに背後にいるのは、ミューズだよ。クヌースが言葉にした「頭の中にいる誰か」は、ギリシャ神話で芸術を司る9人の女神"ミューズ"である。私たちの頭の中で9人のミューズたちが踊り、絵画や文芸や論文やプログラムを作らせる。何だか、とても面白い。
ドナルド・クヌース
2010-07-28[n年前へ]
■「見届ける」ということ
from 「見える範囲のFinite justice」から。
正義の女神ジャスティスは、目隠しをしている。予断を禁じ、公平な採決を下すためだが、けれどもその目隠しは、同時に、彼女自身の隠れみのにもなる。彼女は、人を平気で天秤に乗せ、平気で剣を振り下ろすことができる。彼女は自分の剣が、どんな人の命を奪うことになるのか見ないままでいられる。
しかし、わが国の<正義>の女神は、目隠しをしない。日本の最高裁判所にある「正義」の像は目隠しをしていない。
彼女は、誰を天秤に乗せ、誰に対して剣を振るわなければならないのか、その目をしっかり開いて、一部始終を見届けなければならない
2011-03-18[n年前へ]
■「雲のシッポ」の中に入ってみた。
雲から垂れ下がりつつたなびいているシッポは「雲からこぼれ落ちる雪」だと思っています。
雲の下の部分からシッポのようなものが垂れ下がり、そして風に吹かれるかのように横に伸びている姿を見ることがあるのです。…たぶん、こんな「雲のシッポ」は「雲からこぼれ落ちる雪」なのだろう、と思っています。この前、雲のシッポのことを見た時にこんなことを書きました。
雲のシッポは「雲からこぼれ落ちる雪」
…次にそんな雲のシッポを見つける機会があれば(そんな機会が何度もあるかどうかが怪しいところですが)、すかさずその雲の下までその正体を確かめに、力一杯駆けて行きたいと思っているのです。
今日、夕日が沈もうとする道の向こうに、浮かぶ雲から「雲のシッポ」が垂れ下がっているのが見えました。そこで、力一杯そのシッポに向かって走ってみました。
雲のシッポの中は「吹雪」でした。雲のシッポに向かって走っていた時には、風は強いけれど、頭上には蒼空がのぞく夕暮れだったのに、シッポの中に入ったと思った瞬間、たくさんの雪がうずまく風とともに四方八方から降り注いでいたのです。雲のシッポに入った瞬間、周りの街の灯りが、吹雪(ふぶき)の向こうに霞んでしまいました。右の写真は、「私が入ってみた雲のシッポ」が通り過ぎ・走り去ってしまおうとする瞬間に撮った写真です。
「(近くに雲のシッポを見かける)そんな機会が何度もあるかどうかが怪しいところですが」なんて書きましたが、雲のシッポを気にかけてさえいれば、「雲のシッポ」を捕まえて、「雲のシッポ」の中に入ってみることだってできるのです。
そんなことを考えていると、ふと「運命の女神は後頭部が禿げている」という言葉を思い出します。
運命の女神は後頭部ハゲだ。女神を後ろからから追いかけても無駄だ。彼女の後ろ髪をつかむことは絶対にできないからだ。運命の女神を捕まえようと思うなら、女神の前髪のある正面にに先回りすることだ。
今日確かめることができたのは、「雲のシッポ」は「雲からこぼれ落ちる雪」だ、ということでした。