hirax.net::Keywords::「新潮文庫」のブログ



2001-12-15[n年前へ]

スキップ 

 「スキップ」北村薫 新潮文庫。主人公は17歳の運動会の夜に眠り、目覚めた時には42歳になっていた。そして、夫と17歳の娘がいた。高校の教師をしている主人公の周りには、将来の進路に悩む生徒達や、卒業して大人になっていった生徒達や、そして、42歳の主人公を恋し見つめる17歳の生徒がいた。
 「三十数年に一度訪れるという獅子座流星群を待ちながら…」という「リセット」と共に星がきれいな夜にでも読もうかな…。(リンク

2003-05-28[n年前へ]

新潮文庫で色占い 

 nobodyさんのはてなダイアリから「新潮文庫も著者が背の色を選べる、もしくは過去においては選べた」という情報が。
 本屋に行って文庫本を眺めるときは、その背表紙の色を選んでいる著者の気持ちになってみるのも、面白いかも。
 もちろん、講談社文庫についての情報も「こんな情報」とか。で、こんな風に情報がすぐ集まるところが、はてなダイアリのrefererの便利なところ。自分のサイトのログはめんどうでチェックしないけど、はてなダイアリのrefererはいやでも目にはいるから、ね。

2008-01-15[n年前へ]

「れる」言葉のヒミツ 

 「逆上がりが”できる”」という言葉を打っているとき、ふと「ずっと感じてたこと」「そんな風に感じていた悩みが氷解したこと」を思い出した。

 遥か昔、「海が見られる」なんていうコトバを口にして、あるいはそんな文字を原稿用紙に書いて怒られ続けた覚えがある。「海が何かに見られている」”受動”の意味なのか、「海を見ることができる」”可能”な意味なのかはっきりしないと言われ、そんな言葉の違い・区別がわからなくて、戸惑い・言葉に詰まっていた覚えもある。そんな言葉の違い・区別がわからないという悩みが、少し前まで、ずっと残っていた。

 もし、「人に思われる」と使えば「れる」は受身を表し、「出来るだろうと思われる」と使えば、「れる」は自発を表し、「宇宙旅行は五年以内に可能だとも思われる」という場合は、可能を表すものだと見ることもできる。

 大野晋の「日本語の年輪」(新潮文庫)を読んでいたとき、に書かれていた一節を読んで、そんな受動とか可能の間の戸惑いが氷解した。

 しかし、この受身・自発・可能は、ばらばらに成立したものでなく、その根源的な意味があり、その根源の意味から分かれて、それらの区別を表すようになったのである。では、その根源の意味は何かといえば、「自然とそうなる」ということである。
 私たちが無意識のうちに浸っている日本の文化では、受身も可能も、そして自発も、元来同じものだったのだ。「自分からしようと思ってすること」「他のものからされること」「何かが成し遂げられること」そういったものは、すべて同じ事象だと捉えられていたという事実を知ると、言葉を使う時の自分の中の迷いが理解できるような気がする。

 だいたい「できる」とは、今は、可能を表現する言葉であるが、もともとこれは、人間が力をふるって物事を作り上げてゆくという考え方から成り立った言葉ではない。人力を借りずに、自然の力によって「出(い)で来(く)る」「出来(でく)る」から変じて「出来る」となったものである。
 「できるかな?」というタイトルで、雑文を書く時も、やはり、そんな受身と自発と可能の違いがよくわからなくなる。けれど、それが自分たちの土壌の上で同じものだと意識すると、何だか目の前の霧が晴れたようにな気持ちになれる。「気持ちになれる」の「なれる」が、果たして受身・自発・可能のどれかは、やはり今でもわからないけれど、それはそれでいいのだ、と思うことができるようになった。

2008-02-17[n年前へ]

「にくい」という言葉 

 大野晋の「日本語の年輪」(新潮文庫)を読んでいた時だったと思う、「にくい」という言葉が生まれた源・その言葉が抱えるものについて書かれていた一節に付箋紙を貼った。そして、昔の日本で使われていた本来の意味と現在とでは、その意味合いも変わってきているという一節も興味深く読んだ。個人主義が輸入された現在の日本では、昔ながらの「にくい」という言葉はないのかもしれない、という一節も面白く読んだ。何より、本来の意味を読んだ。

 色んなものを抱えている人がいる。とても綺麗に澄んだものも、濁って先が見えないようなもの、ありとあらゆる抱えきれないものを、それでも抱え走る人がいる。あの人の本当に身近にいる人は、それをどう見ているのだろうか。そして、あの人はそれをどう感じているのだろうか。

 なんだ、あれが僕たちの探している青い鳥なんだ。 僕たちは、ずいぶん遠くまで探しに行ったけど、本当はいつもここにいたんだ。

 「青い鳥」 M.メーテルリンク

2008-12-05[n年前へ]

西岡常一 「木のいのち木のこころ 天」 

木のいのち木のこころ―天・地・人 (新潮文庫)」(あるいは「木のいのち木のこころ〈天〉」)は本当に貴重な必読書だと思う。斑鳩大工の西岡常一が語った言葉を塩野米松が書いたこの本には、本当に色々な形の、それでいて重い言葉が詰まっている。

 時代は科学第一になって、すべてが数字や学問で置き換えられました。教育もそれにしたがって、内容が変わりました。「個性」を大事にする時代になったといいますな。
 しかし、私たち職人から見ましたら、みんな規格にはまった同じものの中で暮らしているようにしか見えませんのや。

 近くの図書館の蔵書にこの本が入っていたならば、迷わず借りて読んでみるといいと思う。とても高い密度の真理が、きっとこの本には詰まっている、と思う。そして、折に触れてこの本に書かれている「たくさんのこと」を何度も何度も読み返したい、と思ったなら自分のものとして買ってみると良いと思う。

 木そのものが精密やないんですから精密機械は無駄ですな。そのとき精密に削っても次の日には狂っていますやろ。 

 少なくとも、技術者になりたいと思っている人は、けれどこれまで読んだことがなかったというような人は、読んでみるといいと思う。絶対に、そう思う。



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