2008-01-15[n年前へ]
■「れる」言葉のヒミツ
「逆上がりが”できる”」という言葉を打っているとき、ふと「ずっと感じてたこと」「そんな風に感じていた悩みが氷解したこと」を思い出した。
遥か昔、「海が見られる」なんていうコトバを口にして、あるいはそんな文字を原稿用紙に書いて怒られ続けた覚えがある。「海が何かに見られている」”受動”の意味なのか、「海を見ることができる」”可能”な意味なのかはっきりしないと言われ、そんな言葉の違い・区別がわからなくて、戸惑い・言葉に詰まっていた覚えもある。そんな言葉の違い・区別がわからないという悩みが、少し前まで、ずっと残っていた。
もし、「人に思われる」と使えば「れる」は受身を表し、「出来るだろうと思われる」と使えば、「れる」は自発を表し、「宇宙旅行は五年以内に可能だとも思われる」という場合は、可能を表すものだと見ることもできる。
大野晋の「日本語の年輪」(新潮文庫)を読んでいたとき、に書かれていた一節を読んで、そんな受動とか可能の間の戸惑いが氷解した。
しかし、この受身・自発・可能は、ばらばらに成立したものでなく、その根源的な意味があり、その根源の意味から分かれて、それらの区別を表すようになったのである。では、その根源の意味は何かといえば、「自然とそうなる」ということである。私たちが無意識のうちに浸っている日本の文化では、受身も可能も、そして自発も、元来同じものだったのだ。「自分からしようと思ってすること」「他のものからされること」「何かが成し遂げられること」そういったものは、すべて同じ事象だと捉えられていたという事実を知ると、言葉を使う時の自分の中の迷いが理解できるような気がする。
だいたい「できる」とは、今は、可能を表現する言葉であるが、もともとこれは、人間が力をふるって物事を作り上げてゆくという考え方から成り立った言葉ではない。人力を借りずに、自然の力によって「出(い)で来(く)る」「出来(でく)る」から変じて「出来る」となったものである。「できるかな?」というタイトルで、雑文を書く時も、やはり、そんな受身と自発と可能の違いがよくわからなくなる。けれど、それが自分たちの土壌の上で同じものだと意識すると、何だか目の前の霧が晴れたようにな気持ちになれる。「気持ちになれる」の「なれる」が、果たして受身・自発・可能のどれかは、やはり今でもわからないけれど、それはそれでいいのだ、と思うことができるようになった。