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2011-10-14[n年前へ]

「ローカリゼーションマップ」と「相手を知り、自らを知り、変える・変えないを選ぶ」 

 安西洋之・中林鉄太郎氏に「ローカリゼーション」について話を伺いました。『「マルちゃん」はなぜメキシコの国民食になったのか? 世界で売れる商品の異文化対応力 』の著者である両氏に聞いたのは、地域・国あるいは、その時代変化、さらには各個人に合わせて、「どう商品を変えていくか」という話です。

 人の頭の中をのぞき見ることはできない。しかし、異文化市場のお客さんに製品を売り込んでいくためには、その地域のお客さんの思考回路をじっくりと観察するぐらいの気持ちで顧客思考を貫く必要がある。

INTRODUCTION 「グローバル時代に欠かせないローカリゼーションの視点」
 異文化の人々に製品やサービスを受け入れてもらうためには、ローカリゼーション(現地化)が必要になる。(中略)地域や文化が違うとロジックが変わってくる。ユーザーの思考プロセスも異なってくる。

INTRODUCTION 「グローバル時代に欠かせないローカリゼーションの視点」

 本書の最後の方で、「コンテクスト(背景文脈)への依存量」と「市場規模」という2軸で作られる平面上に「商品(製品)」を配置(ポジショニング)させた「ローカリゼーションマップ」というものが出てきます。これがブレーンストーミング・思考整理のためにとても役立つように思われたので、自分の手で清書し直してみました。それが、下図です(この図は本書中では”ローカリゼーションマップ”と”ローカリゼーション動的図”という2種のグラフに分けられているものを、ひとつのポジショニングマップへと合成したものです)。

 たとえば、「ルイ・ビトン」の商品というものは、その製品(企業)文化・歴史とともに価値が認められ(そういった歴史・文化と言った”コンテクスト”に強く依存しており)、そのコンテクスト理解が世界的に広まり売れています(グローバルである)。
 また、基本的にスマートフォンなどは、現在のところ、各地域文化といったコンテクストへの依存は比較的少ないが、グローバルに売れ始めている。
 あるいは、洗濯機などは地域によって使い方・商品に対する捉え方が大きく異なっており(各地域毎のコンテクスト依存が大きく)、各地域におけるローカル市場ごとの製品となっている、という具合です。

 このローカリゼーションマップで面白いのは、「コンテクスト依存」の量を示した横軸が、同時に「商品更新頻度」すなわち「変化の速さ」という時間軸にもなっていることです。たとえば、ルイ・ビトンの製品があまりにも変化してしまったら、そこにあるコンテクスト(価値があると認められているコンテクスト)からズレてしまうがゆえに商品が姿を変えていく速さは遅く、一方で、スマートフォンは刻々と追加されていく新機能の量にこそ価値があると認められ、だからこそ変化が非常に速い(次々と新製品を出し続けなければならない)、ということがわかりやすく見て取れるのです。

 両氏から話を聞き、感じさせられたのはこのようなことです。ローカリゼーション(究極にはパーソナリゼーション)というのは、「どう商品を変えていくか」という話です。それは、自分(たち)が向かおうとする相手に応じて「どこを変える・どこを変えない」ということを決める、ということです。つまり、相手を見つつ・自分の価値をどこに見い出すかということです。さらに端的に言ってしまえば、それは「相手を知り」「自らを知る」ということになります。

 「変えないこと」に価値を持つ「老舗」もあれば、ドッグイヤーで走り続けることに価値があるモノ(今のところは、変わり続けなければならないモノ)もあります。どこに価値があるか・それを見いだし、自らのどこに”変わっていくこと”を置き、どういうことに”変わらずにいること”を選ぶか…これは企業・商品だけでなく、人についてもあてはまる話でしょう。(関連記事:「ローカリゼーション技術」は「相手」に合わせなつつ「自分」を表す「コミニュケーション技術」

 「世界は同じになった」ユートピアに近づいている感を与えやすい台詞だ。さまざまな文化の魅力を維持しながら、地域特有の閉鎖性を破って自由なコミニュケーションがどれる風景があって欲しいという願いからくる、魅力的な言葉だと思う。それゆえ、あまり浮かれすぎてはいけない。必ず毒があり、しっぺ返しがある。

最終節 「パーソナリゼーションとの関係」
 

「ローカリゼーションマップ」と「相手を知り、自らを知り、変える・変えないを選ぶ」






2012-01-08[n年前へ]

「迂回し余る道」や「余る何かを導く何か」 

 十年一昔、と言います。十年というのはとても長いようでいて、それと同時に、思うよりずっと短い…そんな時間です。十年以上、WEB上で日記を書き続けていれば、色々あるものです。 from 「n年前へ

 本当の理科人間は理屈を言い争うディベートを好みません。どんな結論にも理屈はつけられるので、このようなコトバによる議論が、意味ある結論に導くとは思わないからです。
 中学時代、「グレてる生徒がマジメになるきっかけは、ほんのささいなことだったりする。けれど、それが大事なことなんだ」と老先生が言っていた。それは、たとえば、母親が化粧っ気も無しに働いているところを眺めて、「母親に化粧をさせてやりたい」と思ったりするとか、そんなことだった。
 道が柔らかく曲がっている。ゆったりと左に右に道が方向を変えている。そんな時、昔の街道の雰囲気を感じる。そして、その道端のどこかには、必ず寺社や祠がある。
 坂村健は「新技術が研究されてから一般化するまでに二十年かかる」と言う。つまり、その当時の新技術が今現在2005年の世界を支えている(あるいは近い未来に支えていく)ことになる。科学技術の発展はそんなに速くない。科学技術を作っている側も使っている側も、時の流れはドッグイヤーであるかのように早いように思えるかもしれないが、実はそんなに速くない。
 むしろ、いとうせいこう氏のような(数式を言葉とみなせない)文科系作家は、言葉の厳密な意味からもれてしまいがちなある種の感情や雰囲気といったものを表現していくのが主たる仕事ではないんだろうか。
 これらの小説は、昭和初期という舞台上に、”今”という瞬間が描かれている。だから、小説に登場する登場人物たちは、”今”を生きる私たち自身である。…”今”を生きる私たちに向けて発せられた「ひとこと」に、少しばかり、目を通してみるのも良いと思う。

2012-01-20[n年前へ]

「自分自身」に向けた「メッセージ」 

 最近の「とりとめもない、つぶやき(twitter)」から。

 努力した量が手に入れる未来を決めるんじゃない。無限の好奇心・興味・未来や可能性を想像して見つけ出す心・自分が楽しくなる何かを見つけ辿り着きたいと欲する心…それが、「無意識のうちに努力する量」を限りなく増やし、未来を作り出していくんだ。
 「苦労や悩み」は「必然」で、それを減らすことも消し去ることもできないけれど、「そんなものを無視できるくらいの魅力」を「見つけ出す・欲する」ことはいくらでもできるはず…それが「未来」というものじゃないか…と。うーん、何だか小さな赤ちゃんを(想像できないくらいの)痛みを伴って産み、そして、育てるお母さんにとっての「可愛いベイビー」みたいだ。
 「運」や「偶然」は、未来を決める大きな要素だと、確かに思う。…その上で「(天性でない部分の)才能」や「(なにがしかの)運」といったものには、「それらを生み出す”何か”」「自分が操作することができる何か」も、人それぞれ違うにせよ、存在しているんじゃないかとも思う。…いや、「思う」と決めている(そう思わないとやってられないから)。
 先日、隣の楽屋に「中林鉄太郎 様」と貼られていて驚いた。驚いた理由は、そのほんの少し前、中林・安西両氏らのローカリゼーションマップに興味を持ち、お二方のお話を聴きに伺ったばかりだったからだ。そして、それから数週間も経たないうちに、思いもがけない場所で隣り合わせる偶然に驚いたのだ。…これは確かに「偶然」だ。けれど「(ローカリゼーションというものに)興味を持つ」「そして、中林・安西両氏に話を聴きに行った」ことがあって、ようやく生じる偶然なのだ。そういう「偶然」は、結構ある。
 右辺と左辺、どちらかが原因でどちらかが未来だと決まっているわけじゃない…と思うことが大事だ。右辺と左辺を自由自在に動かす想像力と機転を、必ず手に入れて欲しい。
 『「高校・大学の頃の自分」に送る「短く具体的なメッセージ」』で書いた言葉を、さらに短く「ひとこと」にしてしまえば、「大変なこともある。それでも、未来に魅力を感じる力を手に入れて、前に進み続けろよ」ってことなんだろう。過去・現在(それはまさに自分自身だ!)・そして将来…すべての・ありとあらゆる自分自身に向けて。

2013-07-11[n年前へ]

「時代は自ら前に進めるものだと信じよう」 

 2013年07月12日、たぶん±3歳くらいの同世代、「陰気な男でいいですか?」の日記にしびれました。

 ”オレの軌跡はどんなだろう。他人が見てもワクワクするものを作り、自分がワクワク出来るよう精進しよう。時代は自ら前に進めるものだと信じよう”

 「勢い」というものは多分とても大事なことで、何かひとつの視点から見た景色を感じとり・的確に言葉として描き出すことができた時、その文章には「確かなリズム」が必ず伴うような気がします。それは、たとえば、 「知らないことは知らないと言おう。」の太宰治の「正義と微笑」のようなリズムです。

 ぼくは、きょうから日記をつける。この頃の自分の一日一日が、なんだか、とても重大なもののような気がしてきたからである。人間は、十六歳と二十歳までの間にその人格が作られる、ルソーだか誰だか言っていたそうだが、あるいは、そんなものかもしれない。

 …これからは、単純に、正直に行動しよう。知らないことは、知らないと言おう。できないことは、できないと言おう。思わせ振りを捨てたなら、人生は、意外にも平坦なところらしい。岩の上に、小さい家を築こう。

 僕は、来年、十八歳。

 2013年07月12日の「陰気な男でいいですか?」、「オレが行かずに誰が行く。オレが読まずに誰が読む。オレの軌跡はどんな感じなんだろう」というリズムを、1980年代に青春を過ごした人が2010年代の今この瞬間に読んだなら、きっと(そこに)書かれていることと同じような心地になるに違いありません。

 それぞれのコーナで紹介されている内容に偏りが感じられるが、それが筆者のマイコン人生の軌跡や時期を表していると思うとグッとくる。同じ日本でマイコンに全てを注いでいてもイロイロなルートがあったんだな。オレの軌跡はどんな感じなんだろう。
 それはそれとして、当時のワクワク感を思い出して改めて感じる。他人が見てもワクワクするようなものを作って自分がワクワク出来るよう精進しよう。時代は自ら前に進めるものだと信じよう。明日も楽しく前向きに。

2018-06-27[n年前へ]

人類が月面上で日常を過ごす時代…それは「あのイタズラが成功する日」かもしれない? 

 その辺の人(@create_clock) さんのtweetが面白かった。

マンガとかで教室の引き戸に黒板消しを挟んで開けると頭の上に!みたいな描写があるけど、実際にやったことのない人の描写だなと思う。黒板消しの落ちるタイミングが早すぎて頭には当たらない。

10:08 PM - 25 Jun 2018
 …確かに、実際にやった過去を振り返ると、黒板消しの落ちるタイミングは早すぎて、誰の頭にも当たらなかった。

 計算をしてみるとこうなる。教室の入り口の高さは、約2メートル。そこに黒板消しを挟み、ターゲットを待ち構える。ターゲットがドアを開け、身長1.7メートルのターゲットの頭の高さに黒板消しが落ちるまでの時間は、わずか4分の1秒の0.25秒。…そんな短時間に、教室のドアを開け、ドアの真下を通過するのは確かに無理に違いない。

 もしも、もうひとつの世界があったとしたらどうだろう?…「教室の引き戸に黒板消しを挟んで開けると頭の上に当たる」…そんなもう一つの世界線、もっと別の場所があったとしたならば、そこは一体どんな場所なんだろうか。

 たとえば、教室のドアを開け、ドアの真下に移動するまで、1.5秒掛かるものとしてみる。…もしも、その世界が地球と同じような惑星・密度の場所だとしたら、その惑星の半径は約1900キロメートルという計算になる。そういう星の上で生まれたのなら、「教室の引き戸に黒板消しを挟んで開けると頭の上に落ちる」イタズラができることになる。

 もしも、その星の密度が地球と違ったらどうだろう?地表での黒板消しが「頭の高さまで落下する時間」が0.25秒だとして、「教室のドアを開け、ドアの真下に移動するまでの自然な時間、1.5秒」は、ちょうどその6倍に近い。…すると、たとえば、主人公が暮らす世界線がもしも(地球表面比で重力が1/6の)月面上だったとしたら、計算が合うことになる。つまり、教室のドアを開けてから、身長1.7メートルの主人公の頭に黒板消しがあたるまでの時間が、ちょうど1.5秒後…という計算になる。

 そうか!そうだったんだ!…ぼくらが昔から眺めたあの景色、「教室の引き戸に黒板消しを挟んで開けると頭の上に落ちる」は決して過去の懐かしい「三丁目の夕日」的な昭和の懐かし風景ではなく、あれは人類が月面上で日常を過ごす遙か未来の日常風景を蜃気楼のように眺めていたに違いない!と気がついた。

 そんな発券をしてEureka(エウレカ)!とアルキメデスのように叫び、その瞬間に夢から覚めた。…重力が1/6の世界で、「教室のドアを開けてからわずか1.5秒でドアの真下に移動することは難しい」かもしれない。「教室の引き戸に黒板消しを挟んで開けると頭の上に当たる」…そんなもう一つの世界線は、一体どんな宇宙にあるんだろうか。



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