2002-11-13[n年前へ]
■あなたとあなたと私だけ 後編
結局、聴衆(兼タイムキーパー)はかなりの確率で予鈴を鳴らしたりするのを忘れました。まぁ、当たり前です。ちょっと真剣に聞き入っていると、予鈴を鳴らすべきタイミングなんかすぐ過ぎるわけですから。
しかも、予鈴も最初はPCのサウンド機能を使ってみたのですけれど、途中からは「手元のコーヒーの空き缶をボールペンで叩く」という手抜きのやり方になりました。はたからみると、タイムキーパーを兼務している聴衆というよりは「発表者にヤジをいれている、あるいは抗議の意志を表しているサル」にしか見えないところが、またキツイところです。
とはいえ、こういう研修も楽しいな、と思ったりするのでした。
2003-06-08[n年前へ]
■寝坊して遅刻しそうになり…
「寝坊して遅刻しそうになり、慌てて朝食のパンをくわえながら急いだところ、交差点で同じように急いでいた女子高生に正面衝突する確率の算出方法を教えて下さい」というマンガの冒頭のような確率を求めたいという質問に「そんな確率を求めてどうするんでしょうか? 」とツッコミがされている。
しかし、この質問のあまりの役立たずさはとても魅力的に感じたので、挑戦したいと思ってみたりもしたのだった。
2003-08-08[n年前へ]
■色んな景色
今日は色んな景色がp@hirax.net宛に届いています。誰かが歩きながら眺めた景色もあれば、台風が近づく何処かの場所で眺めた「今日見た景色」もあります。そして、CRTの向こうの「今日見た景色」だってあります。
このCRTの向こうの「今日見た景色」なんかの場合には、「同じ景色」を眺めた人も多いかもしれません。いえ、多くはないかもしれないけれど少なくともほかにも何人かは「同じページ」を眺めたはずです。だけど、その景色の額縁は見る人それぞれ違うのです。そんな違う世界が人の数だけ確かに何処かにあるわけです。それは、なんだかちょっと不思議でとても面白いことだなぁ、と私は思います。同じ景色を眺めていても、それを包みこむ世界は人それぞれ違うんだなぁ、とそんなCRTの向こうの「今日見た景色」を眺めながら今更ながらに考えてみたりするのです。
もちろん、そんなことはきっとちょっと考えれば当たり前のことなのでしょうけれど、こんな風に自分と違う世界から眺めた「同じ景色」を形にして見せられると、何だかちょっと新鮮に感じるのです。こんな「あなたが眺めたCRTの向こうの今日見た景色」をぜひぜひ真似して送ってみてもらいたいなぁ、と思います。
そういえば、今日山手線に乗りながら、人の多さにちょっとビックリしつつ、こんなに人が多い街でいつか知っている人とすれ違ったりする確率はどの程度あるんだろう?などとずっと考えていたのでした。同じ景色をCRTの向こうに眺めていても、それを包み込む世界は人それぞれ違うように、同じ景色をとても近くで眺めていてもそれを包む世界はやはり人それぞれ違うのだろうか?いつか一瞬でも世界が重なり合うことはないのだろうか?と考え込んでいたりしたのでした。
2004-02-11[n年前へ]
■「メイビー、君は俺を好きになる」は「100%…Soかもね!」主義か?
どうにもイヤンな感じなストーリーではあるけれど、月曜21時のドラマ「プライド」をたまに観る。「ホッケーのシーンがどうにも無理があるなぁ」なんて思いながら観ていると、「メイビー」という言葉が連発されている。木村拓哉演じる主人公が「メイビー、君は俺を好きになる」なんていうセリフを連発している。
maybe=確率半々ってところだろうから、これは「君は俺を好きになるかも、ならないかも、どっちに転ぶかはよく判らないけど」というようなニュアンスなのだろうか。うーん、結構謙虚な台詞を吐く優柔不断な主人公なんだろうか?
といっても、テレビを観ていて受ける感じでは「君は俺を好きになる、あぁ間違いなくね」くらいのニュアンスに聞こえてしまう。謙虚どころか断言調の台詞をやたらに語る命令口調主義の主人公に見える。
これはやはりアレだろうか、今は懐かしシブガキ隊の「100%…Soかもね!」に始まる「かもね」=「確率100%」思想なんだろうか。「かもね。かもね。そうかもね」と言ってるにも関わらず、「100パーセントそう(かもね)」と断言してしまう、「かもね」=「100%そうだ」の希望的観測主義なんだろうか?。
…どっちなんだろう?「プライド」の「メイビー」って、どの程度の確率の「メイビー」なんだろう。あぁ、知りたい。知ってどうになることでもないけれど、何故か知りたい今日この頃。
2004-04-22[n年前へ]
■偽善者度診断
偽善者度診断をやってみる。半分をほんの少し越えるくらいの偽善者と診断になる。それはほとんど、私の行動の半分が「善」で半分が「偽善」ということだろうか。なんだか、とてもそんな自分がイヤになる。
【あなたは 51 % 〜です】あなたは少しいい人のふりをしています。あなたは若干疑い深い性質なので、見えない他人の心の中が気になって仕方がないのです。人に裏切られた苦い経験があなたをそんな風にさせたのかもしれません。他人の前で偽りの自分を演じて、時々自己嫌悪に陥ることがあります。もう少し自分の欠点を他人の前にさらけ出すことができれば、とても生きやすくなるはずです。どうぞがんばって下さい。
ところで、もしもいつも真実を言う人がいたならば、とても信頼できる人だろう。あるいは、いつも真実を言わない人がいたならば、それまた信頼できる人に違いない。半分真実を言い半分嘘を言う、それが一番困ってしまう。そんな相手をどう信じたらよいのだろうか。その判断は、いつも二択のサイコロになってしまい、信頼性がまるでおけなかったりするかもしれない。
「真実」も「嘘」も、あるいは、「善」も「偽善」も等確率であれば、それはシャノンが定義するエントロピーが最大であるということになるだろうか。どんな状況で「真実」もしくは「善」を吐き、どんなものに対して「嘘」もしくは「偽善」を吐くのか、そんな情報は確かに「その人」を表す情報量に違いない。もしかしたら、それこそが「その人となり」なのかもしれない。そして、人間はエントロピーを減少させる存在だとも言われるが、実はやはりエントロピーを最大にしようとしてしまっているの可能性もある。さらに、それこそが人間なのかもしれない。
であるとするならば、いつも「真実」「善」もしくはいつも「嘘」「偽善」の人間がいたならば、その人に対する情報量はいつもゼロになってしまうのかもしれない。そう考えてみるならば、「偽善者度診断」はあなたの人間情報量診断としても使うことができる。人間は決して「善人」ではないのだから、人間としての情報量が多いということは、決して良いことではないのだけれど。
弱い者達が夕暮れ さらに弱い者を叩くここは天国じゃないんだ かと言って地獄でもないいい奴ばかりじゃないけど 悪い奴ばかりでもないfrom KLaxon - O.P. on HATENA