hirax.net::Keywords::「迷信」のブログ



2000-06-16[n年前へ]

ヘルメットの色空間分布 

学生運動の色空間とグラフ配置

 さて、私は「迷信の押し付け」は大嫌いである。もちろん、その人の中で信じている分には結構で、それも文化の一つだとは思う。しかし、それを私にまで押し付けられるととたんにムッとしてしまう。そんな私ではあるが、「占い」はそう嫌いでもなかったりするのが面白いところだ。いや、むろん「占い」を信じているわけでは毛頭無くて、「遊び」として好きなのである。

 何しろ、占いというのは「根拠無し」に「決めつける」ことが出来る素晴らしいものである。何の前振りもなしに

「君はお菓子の食べすぎでデブになる。」
と言うと、普通であれば張り倒されることだろう。しかし、それを
君の前世は象だった。だから、君は太る運命だ。」
と言えば、どうなるだろうか。悪いのは「前世」や「運命」であって、「口の悪い私」ではないのである。それどころか、
えぇ〜なになにその占い〜。教えて、教えて〜」
という好意的な反応すら予想される(あくまで予想だけ)のである。これを便利と言わずして、何と言おう。

 しかも、占いの特徴の一つは後付けの結論・理由付けが可能、というところにある。その結果、「占い」というものは現実にとても近くなり、さらに「本当らしさ」がアップする。そういうわけで、私は大好きなのである。

 例えば、私の職場の私の机の端には、名前、生年月日、アンケート式etc.といったありとあらゆるタイプの占いを職場の人がやった結果がファイルされている。そして、恐ろしいことにそれらの紙には、それを読んだ人の書き込みがあるのである。例えば、私の性格占いの結果をプリントアウトした紙を見てみると、「もう少しイイ子になる必要があります。」という文章の下に赤線が引っ張ってある。この赤線を書き込んだのは誰だか知らないが、実に失礼な輩である。また、「思ったことをすぐ口に出す傾向があります。」という部分は二重線が引っ張られており、これなども世の中には訳のわからないことをする人間がいる良い一例である。そのくせ、「とても心優しいひとです。」という部分は赤線で消されたりしているのが、私としては理解に苦しむ部分でもある。きっと、この書き込みをした輩は「心優しい」という意味を知らないのであろう。

 そういうわけで、こういった人々による書き込み・添削のされた占いの結果、すなわち、後付けの結論・理由付けのされた占いの結果と言うのは実に恐るべき迫真性を持つのである。そして、同時に笑うことができる(本人は別にして)、という素晴らしいものなのである。

 ところで、私は「色」が大好きである。もう、何回も「色」に関する話題をしているのだから、そんなことは言うまでもないかもしれない。そこで、「色」と「占い」との関連で言うと、一時期「色占い」というものが流行っていた。「XX色で連想する人は誰?」という質問をして、この色で連想された人はあなたにとって恋人、とか、この色は友達、とか占うのである。

 私もこの「色占い」が流行ったときにやった記憶があるのだが、これが全く役に立たなかった。役に立たなかった理由の一つに

  1. 私の周りの人は服なんて着替えない。
  2. だから、いつも同じ服を着ている。
  3. その服のイメージ = その人のイメージになる。
という哀しい現実があったことが挙げられる。そして、もう一つの何より大きな理由として、その当時は「色」からもっと強力なものが連想されたのである。「この色」=あの人、「こっちの色」=この人、という連想がイヤでもされる状況があったのである。わかる人にはわかるであろう。しかし、わからない人も多いかもしれないので、簡単な説明をしておく。

 そのために、当時の学生の典型的?な姿を下に示してみる。いや、正確に言えば典型的ではなくて、単に目立っていた学生と言うほうが正しいかもしれないが、その姿を示してみたい。
 

これが典型的?なヘルメット姿

 この絵を見るとわかるように、頭の部分を覆うヘルメットというのは何より目立つのである。この人達が身に付けている服装というものは、そんなにカラフルなものではない。いや、ハッキリ言えば、特徴のない色ばかりである。そりゃそうだ、個性的で目立つ色の服なんか着ていたら、個人的に目をつけられてしまう。
 しかし、それに対してヘルメットの部分は実にカラフルである。セクトごとに個性ある色分けがされている。人目見ればわかるような色使いがされている。それは、チームスポーツのユニフォームと同じである。敵か味方か一目で見分けがつかないと、困ってしまうわけである。

 そして、そのヘルメットの色の印象が強いがために、

その人達の印象 = その色
というような状況すら生まれるのである。だから、先の「色占い」のような質問はそのような場においては、何の意味も持たないのである。それは単なるセクト分け問題と化してしまうのである。とたんに、生臭い問題になってしまうのだ。

 ところで、さまざまな場所に位置する各セクトが、どのような「色」の住み分けをしているかは、非常に気になるところである。「色」に常日頃こだわってきた「できるかな?」であるから、各セクトのヘルメットの色空間における空間分布を見てみることにしたい、と思う。

 そこで、マルチメディア共産趣味者連合 中央委員会の

を参考に、各セクトの色空間における住み分けをマッピングしてみた。ここではヘルメットの地の色の上に文字色で各セクト(セクトでないものもあるけど)を書き込んである。「ヘルメット」で見るセクトに加えて私の知ってるものを二つほど加えてみた。
 
ヘルメットの色空間分布

 こうしてみると、ヘルメットによる色表現を考えてみると結構広い「色空間分布」になっているようである。カラー画像をヘルメット画像に色分解する、ヘルメットディザなんていうのも実現できるかもしれない。

 しかし、これだけではつまらないので、

を参考にして、いつものように各セクトをグラフ配置アプレットの中に入れてみた。ここで、各セクト間の力は「お互いの間の階層数」を用いている。各セクトの互いの配置がどうなるか適当にいじってみてもらいたい。
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 そして、グラフ配置の結果の一例を色空間に重ねてみたものを次に示す。
 

グラフ配置の結果の一例を色空間に重ねてみたもの

 この画像と先程の「ヘルメットの色空間分布」を比較してもらうと、結構似ているのが面白いところだと思う。もちろん、似たような配置になったものを使用したわけではあるが、それにしても面白いと思うのだが、どうだろうか?

 私が大学に入学した当時は、セクト間の陣地争いが盛んだった。といっても、私のいた学校がガラパゴス諸島のように(その手の部分では)化石的な学校だったからで、決して古い昔の話ではない。授業をやっている横の廊下で、内ゲバで殺される人がいたり、朝のキャンパスで血みどろの戦いが行われていたりした。実際のところ、それは私にとって結構衝撃的な出来事だった。少なくとも、そのせいで、あの手の陣地争いを大嫌いになったことは確かだ。とりあえず、現実空間ではともかくこの色空間においては、そんな陣地争いがないのが良いところだ。

 さて、今回はタイトルをゲバ字(トロ字)っぽくしてみた。ゲバ字(トロ字)というのは、チラシや立て看などでよく使われた(る?)文字のことである。だから、別に「こういう形」というものがあるわけではない。とりあえず、それっぽくしてみたわけであるが、どうも本WEBにはこういうフォントは似合わないようである。うーむ、失敗である。

2000-09-13[n年前へ]

化け物の進化 

 化け物がないと思うのはかえってほんとうの迷信である。宇宙は永久に怪異に満ちている。あらゆる科学の書物は百鬼夜行絵巻物である。それをひもといてその怪異に戦慄する心持ちがなくなれば、もう科学は死んでしまうのである。

寺田寅彦

2000-12-24[n年前へ]

A型vB型・大戦争 

血液型分布を眺めてみよう

 今年も私の職場には新入社員が入ってきた。その新入社員の中の一人は「血液型+ 動物占い」の信者だった。何しろ、ことあるごとに「血液型 + 動物占いの結果が同じ人はとってもよく似ているんですよ!もうビックリするくらい当てはまるんですよ!もちろん、たま〜に例外の人もありますけど。」といつも私たちに言うのである。もちろん、私も含めてその周囲の人は「その自信と根拠は一体どこからくるんだぁ!」とツッコミを入れるわけであるが、少なくとも本人は気持ち良いくらい自信満々なのである。とはいえ、私も占いというものは「根拠無しにテキト〜に何かを決めつけることができるという素晴らしいもの」だとも思うので、まぁそれはそれで楽しいわけだ。

 そんな血液型大好きな新入社員なら可愛いものであるが、それがもう少しエラ〜イ人になるとちょっとばかり大変である。私のとなりの部署の部長なども実はそんな血液型信仰者なのであるが、その部の配属には血液型が参考にされるというオソロしくも確かな真実がある(ホントにホント)。そこの某部長曰く「B型は実験が杜撰だから嫌い。」という実に誠実な理由に基づき、その部はA型人間大集合なのである。というよりも、その部からB型は外されているのだ。恐るべき純血追求型人事手法である。ヒットラーもビックリである。

 そんなA型人間大集合の部がある一方で、私が所属している部屋(課)は何故かB型が多い。10人強の中で半数程がB型なのである。どこで読んだのか忘れたが、日本人の血液型はA型35%,B型 25%,AB型 10%,O型 30%位であるらしいから、私の課のB型比率はかなり高い。しかし、もちろんそれは単なる偶然だろう。隣の部がB型を排除しているから私の部屋がB型で溢れているのじゃないか、という恐ろしい想像ができないこともないが、そういうわけでもないだろうと私は信じたい。

 しかし、「信じたい」という気持ちだけで物事を決めつけるのは危険この上ない。それは「セーラー服の女子高生はみんな可愛くて純真だと信じたい」という危険さと同じくらいデンジャラスである。何事も、先入観で判断してはイケナイのである。確認することが重要なのだ。そこで、今回は「10人強の中で半数程がB型なんていうのはよくある偶然」だということを血液型分布・配置シミュレーション(超手抜き)でも行って確認してみたいと思うのである。そして、私が所属している部屋(課)にB型が多いのがただの偶然であること、つまりある特定の血液型の人間が集まることが不自然ではないことを確認してみたいのである。
 

 さて、今回の血液型分布・配置シミュレーションのやり方は次の通りだ。

  1. まずは256人の人間を用意する。
  2. その256人に対して、A型 35%,B型 25%,AB型 10%,O型 30%位になるようにAB型の抗原(AA,AO,BB,BO,AB,OO型)を配置する。
  3. その後、遺伝子を移動して血液型を再配置する。
  4. 近所の人間と子供を作る(遠距離恋愛は考えない)。
  5. 血液型分布・配置を調べる。


 この説明の中で、一言で「遺伝子を移動して、近所の人間と子供を作る」と書いたが、もちろんその現象の中には

  • 人が引っ越したり・移動したりしていったり、
  • 愛が芽生えて子供がデキたり、愛が芽生えないけどデキちゃったりして子供が出来たり、
という人生の喜怒哀楽が詰まっているのである。ドラマが詰まっているのだ。しかも、それだけではない。この血液型分布・配置シミュレーション(超手抜き)の超手抜きたる所以は総人数を一定にするために、子供が一人出現すると親が一人消えてしまうのである。常に村人達は256人なのだ。スティーブン・キングも真っ青のオソロシイほどの手抜きである。

 まぁ、しかしカマキリのようにエッチのあとにメスがオスを食べちゃう動物もいたりするのだし(実際のところは知らないけど)、この恐怖の「子供が一人出現すると親が一人消えてしまう」システムもそんなに不自然ではないのである、ということにしておこう。というわけで、いつもながらの強引な展開だ。

 そんなわけで、行ってみた血液型分布・配置シミュレーションの結果が下の動画である。一マス一マスが一人の人間である。時間毎にどんどん血液型分布・配置が変化していく様子が判ると思う。ちなみに、
赤 = A型、緑 = B型、水色 = AB型、紫 = O型である。
 

血液型分布・配置シミュレーションの結果の一例

ファイルサイズがデカイのは直すつもり…
A型
B型
AB型
O型

 この結果はカラフルにただチカチカするだけの計算結果ではないのである。このチカチカこそが人生の喜怒哀楽なのだ。そこを是非とも心して眺めてもらいたい、と切望する次第である。
 

 じゃぁ、時間を追ってA型、緑 = B型、青色 = O型、紫 = AB型(色が一部さっきと逆転していることに注意)がどう変化していったかというと下の図のような感じだ。それほど一定ではないことがわかるだろう。それぞれの血液型の比率が逆転したりする下克上な瞬間だってままあるのである。
 

血液型分布の変化

A型、緑 = B型、青色 = O型、紫 = AB型

 もちろん、これは256人という少ない人数だからこんなに大きく比率が変動するわけである。しかし、今回は「つまりある特定の血液型の人間が集まる」かどうかを調べたいのである。つまり、ある少人数の人間達を考えたときに特定の血液型の比率が多くなることがあるかを調べたいのだから、考える人数は少人数で構わないわけだ。

 256人という比較的多い人数を考えた場合ですら、人生のドラマが続く中でそれぞれの血液型比率は結構変化して、それぞれの血液型の比率が逆転したりすることもあるわけだが、じゃぁもっと狭い領域に注目したらどうなるだろうか?例えば、下の瞬間の血液型分布・配置を眺めてみよう。
 

ある瞬間の血液型分布・配置

A型
B型
AB型
O型

 おやおや、結構

  • A型 = 赤が連続していたり
  • B型 = 緑が集まっていたり
  • O型 = 紫が多いくせに固まっていたり
  • AB型 = 水色が少ないながらも集まっていたり
するではないか。何故か同じ血液型が大集合している人達がイッパイいるではないか。そう、実は血液型の分布というのは「偏って集まっているようにみえる」のが自然なのである。以前、でも考えたが、ムラなく血液型分布が配置されているほうが実は不自然なのである。こういう分布は比較的少ない人数をとりだすと、どうしたってムラがあるのが自然なのだ。そして、そのムラは結構大きなものなのである。これが意外なほどムラはあるものなのだ。

 試しに、先程のシミュレーションである16人(つまり私の部屋(課)の人数位だ)を抽出して調べたときに、A型が一番多かった場合と、一番少なかった場合で、A型の割合だどんなだったかを調べてみたのが次に示すグラフである。ここで、

  • 赤 = その瞬間にA型が一番多かったグループにおけるA型の比率
  • 青 = その瞬間にA型が一番少なかったグループにおけるA型の比率
である。つまり、16人を抽出して調べたときに、A型の比率がどの程度偏っているのかを見てみるのだ。
 
16人を抽出して調べたときに、A型の比率がどの程度偏っているか?

赤 = A型が一番多かったグループにおけるA型の比率
青 = A型が一番少なかったグループにおけるA型の比率

 なるほど、A型が一番多かったグループではA型の比率が60%を越える時もある。逆にA型が少ないグループでは16人のなかにA型がいない、という状況すらあるのだ。

 ということは、私の部屋のB型がほぼ半数という状態だって別に不自然ではなく、それはごく自然なわけだ。もちろん、A型とB型の比率が違うことを考慮しても、全然不自然ではないだろう。ということは、血液型信仰者の某部長による隣の部のB型キライの恐るべき純血追求型人事手法の余波をうけて、私たちの部屋がB型だらけということはなくて、それは単なる偶然だろう、ということがわかるわけだ。

 ところで、ここまで書いて「血液型信仰者の某部長」が「ヘンな人」というイメージを持たれてしまうと非常に困る。何故なら、もっと変でなおかつエライ人がイッパイいるのである。(ここでいう「エライ」は関東弁&関西弁のニュアンスだ。つまり、「偉いけど大変な」というニュアンスだ。)血液型信仰者なんてカワイイもんじゃないの、と思えるくらいのスゴサである。だって、ダウジングが超大好きで、奇跡の水が超〜大好きな人だっているのだ。もしかしたら、ダウンジングなんて言葉を知らない人がいるかもしれない。しかし、知らなくて当たり前である。ダウンジングとは下の絵のような棒を持って水脈などの場所捜しをする迷信の中の迷信である。キング・オブ・迷信と言っても良いくらいのアイテムである。
 

参考資料: これがダウンジングだぁ… 笑える。

 しかも、なんとダウジング&奇跡の水大好き人間が実は某新規材料開発部署の責任者だったりするので、そこらへんは考えると実はかなりコワイものがあるのだが、それはそれ、結構笑える事実(ホントにホント)ので良しということにしておきたい。
 

2003-03-23[n年前へ]

「湯冷め」を防ぐ「上がり湯」のヒミツ!? 

手の冷たい女は心が温かい?

 大学に入学してすぐの頃、京都のホテルで清掃・ベッドメイクのアルバイトをしていた。しかし、京都のホテルとは言っても、それは決して京都ホテルでもなければ、都ホテルでもなかった。まず、ホテルの駐車場の入り口には何故かビニールの「暖簾」がかかっており、京都にある割にはまるで白雪姫が眠っていそうなメルヘンチックな作りの建物で、そしてその値段設定も休憩一時間2980円~というまるでユニクロのようなディスカウント価格設定で、一泊二万五千円~というような京都の由緒あるホテルなどとはまるで別世界の「ホテル」だったのである。もう少し正確に言うならば、ワタシがバイトをしていたのは単に京都インター・チェインジ近くにあるホテルだったのである。つまり、結局のところワタシは京都I.C.のラブホテルで清掃のバイトをしていたのだった。

 そのバイトは「昼の一時から夜の一時まで」という十二時間労働で時給千円=トータル一万二千円ナリで、労働時間は決して短くはないけれど、単純作業で1日で一万円を超える収入は学生にはとても魅力的だった。だから、喜んで下宿から自転車で一時間程かけて京都I.C.のラブホテルまで行って、情けなくも自転車でホテル入り口のビニールの「暖簾」をくぐり、ホテルの中で十二時間ほど汗を流した後に(もちろん仕事に、だ)、帰りもまた自転車で一時間かかって下宿まで帰っていたのである。そして、ホテルへの客の入りが悪かったりした時には、そのホテルの空き部屋でシャワーを浴びて帰ったりもした。とはいっても、京都の夜は本当に底冷えするので、下宿に向かって自転車を一時間も漕いでいる間に湯冷めしてしまって、骨の芯まで(自転車でラブホテル街を出るときには何故か心までも)冷えてしまったりするのである。

 そんな湯冷めしそうな寒い日には、一緒に働いていた同僚のおばちゃん達から必ずと言って良いほど

「湯冷めしないように上がり湯をちゃんとしていきなさい」
と言われていたのである。上がり湯というものを知らない無知な私に、おばちゃん達は
「シャワーを浴びてお湯で体が温まったら、その後ちゃんと水を浴びなさい」
「体が冷えないように、最後に水を浴びなさい」
と言い続けたのである。しかし、中途半端に理屈っぽいワタシは「体を温めるのに、何で冷水を浴びなあかんねん(ホントは関西弁じゃないけど)」「冷水なんか浴びたら、ますます体が冷えるっつーねん」 と(心の中でコッソリ思いながら)、上がり湯を浴びずに「上がり湯するとホンマ体が冷えませんなぁ」とウソをつきながら、そのまま下宿まで自転車をこぎ続け、そして帰宅する頃にはいつもワタシは骨と心の芯まで湯冷めしていたのであった。そして、自転車を漕ぎながら、ガチガチ震えつつ時折は「もしかしたらおばちゃん達の言っていることはホントなのかもしれん…?」と考え込んでみたりしたのである。
 

 しかし、そんな「冷水なんか浴びたら、ますます体が冷えるっつーねん」 と毒づいていた頃のワタシは、無知だったので「もしかしたらおばちゃん達の言っていることはホントなのかもしれん…?」と考え込んでみたりしてもそれを確認することができなかった。しかし、その後、ワタシは大学で熱伝導方程式などを学び、卒業のために家政学の単位を稼がなければならなかったので、今ではおばちゃん達の「上がり湯をすれば湯冷めしない」説の真偽を科学的に計算できるようになったのである。そこで、今回は試しに、下のように指先を単純化して、「お風呂に入った後、冷えていく様子」を計算してみることにした。
 

 下の図は指先の断面で(そうは見えないかもしれないが)、(白 = 空気、黄色= 脂肪、橙 = 筋肉、灰色 = 骨)というようにモデル化されており、筋肉と脂肪の中は不図示の血管が通っている。そして、骨・筋肉・血管・脂肪の密度はそれぞれ1300,1150,1055,920 [kg/a]、比熱はそれぞれ2.1, 3.8, 3.8, 2.5[J/kg K]、熱伝導率はそれぞれ8.2, 1.6, 1.7,0.7 [W/m K]という物性値を持っている。そして、体内の熱移動は熱拡散と、血液の移動による直接熱移動によって行われるものとしてみて、指先の熱移動のシミュレーションをしてみることにしよう。。
 

(誰がなんと言おうと)モデル化された指先
白 = 空気
黄色 = 脂肪
橙 = 筋肉
灰色 = 骨

 さて、とりあえず風呂にゆっくり入って、体をホカホカ温めて(上の図の)指の骨の芯まで38℃位に温めたとしよう。そして、アマノジャクなワタシが「上がり湯」を浴びずに、その真っ赤にアッチッチになったホカホカ体のまま自転車に乗って、指先が周囲の京都の10℃の冷たい空気で冷えていくシミュレーションをしてみる。

 すると、例えば指の皮膚表面と骨の中心の温度の時間的な変化のシミュレーション結果は下のようなグラフになる。皮膚の表面の温度は冷たい風に冷やされて徐々に温度が下がり、計算終了時には指の皮膚表面の温度は35℃程度になっている。そして、それにつれて指の骨の中心の温度も下がっていく。最初は温度が38℃だった骨の芯も、計算終了時には36℃程度にまで下がってしまっている。そう、かつてのワタシのように京都の寒さに「湯冷め」してしまい、確かに体の芯まで冷えてしまっているのである。
 

皮膚表面と骨の中心の温度の時間的な変化
(上がり湯をしなかった場合)

 じゃぁ、素直におばちゃん達の言うことを聞いて上がり湯をしたらどうなるだろうか?まず、冷たい水(上がり湯)を浴びたならば体がビックリして血管が収縮してしまう。だから、血液の移動による直接熱移動の分を例えばゼロにしてしまうことにしよう。すると、「上がり湯」を浴びた場合の皮膚表面と骨の中心の温度の時間的な変化は下のグラフのようになる。
 

皮膚表面と骨の中心の温度の時間的な変化
(上がり湯をした場合)

 指先の血管が収縮して、指先の血行が悪くなっている分、どんどん指先の皮膚表面の温度は下がってしまっている。計算終了時には何と30℃程度まで下がってしまっている。上がり湯を浴びなかった場合より、よっぽど指先の温度は冷たいのである。これでは、かなり冷たそうで辛そうである。やっぱり、おばちゃん達の言っていることは間違っていて、かつてのワタシが「冷水なんか浴びたら、ますます体が冷えるっつーねん」 と考えたのが正しかったのだろうか?いや、決してそういうわけではないのである。何しろ、この上の図をよく見てみれば、指の骨の芯はまだまだホカホカの38℃であることが判る。何と、体の芯はまだ冷えていないのだ。
 

 そこで、もっと詳しく計算終了時の「指先の断面の温度分布」を眺めてみることにしよう。それが下の図である。
 
 

指先の断面の温度分布 (中心が骨、左右端が皮膚表面)
(アマノジャクに上がり湯を浴びなかった場合)
(素直に上がり湯を浴びた場合)

 アマノジャクに上がり湯を浴びなかった場合は、指先が一様に冷えてしまっているのに対し、素直に上がり湯を浴びた場合には皮膚表面の温度は下がってしまっているが、冷えているのは指の表面近くの脂肪の部分だけで、筋肉も含めた指の芯は以前ホカホカ・アッチッチのままなのである。脂肪は筋肉に対して熱を伝えにくいので、表面の脂肪部分が冷たくても、その内部はずっとアッチッチのままなのである。

 つまり、上がり湯を浴びた場合と浴びない場合では、

  • 上がり湯を浴びないと、(比較すれば)指先は暖かいけど指の芯は冷たい
  • 上がり湯を浴びると、(比較すれば)指先は冷たいけど指の芯は暖かい
という指先の温度と指の芯の温度の間で逆転現象が起きており、一見冷たそうに思える「上がり湯」を浴びることで、何と「湯上がりのポカポカ気分」がずっと長続きすることが判るのである。「冷水なんか浴びたら、ますます体が冷えるっつーねん」 と毒づいていたワタシはたんに無知なヤツだったのである。京都のおばちゃん達が繰り返しワタシに言って聞かせた(ワタシは言うことを結局聞かなかったわけであるが)、「湯冷め」を防ぐ「上がり湯」のヒミツはとても科学的にも当たり前のことだったのである。昔から伝わる知恵は(別におばちゃん達が古いというわけではない)、やはり正しいことが多いのである。昔から伝わる知恵や諺をバカにしてはイケナイのである。その「湯冷めを防ぐ上がり湯のヒミツ」を学んだのが、実はラブホテルのバイト帰りであったにしても、そんな知恵や諺をバカにしてはイケナイのである。
 

 ところで、昔から伝わる知恵や諺をバカにしてはイケナイと言えば、ワタシはふと思うのである。「手の冷たい女は心が温かい」という迷信と思われがちな諺だって、実はとても物理的に正しいことを言っているのでは無いだろうか?素直にこの「手の冷たい女は心が温かい」という文言を読んでみれば、これは「手(体の表面)の冷たい女は心(体の芯)が温かい」という人体内部の熱伝導現象を的確に表現した実験結果であったように読めるに違いないのである。血行不良で冷え性(といっても実は表面だけが冷えている)な女性、しかも男性と比較した場合には脂肪が多い(つまり断熱材を体に巻いているのと同じ)女性は、

  • 手の表面は冷たいけれども、実は体の芯(=心)は暖かいのだ
という実に科学的な現象を的確に表した言葉なのである(ウソ)。というわけで、真偽はともかく「手の冷たい女は心が温かい」という諺は科学的に100%正しいのだ、というトンデモ説を今回ワタシは提案してみたいのである。

 このトンデモ説を踏まえ、これから女性の手を握りながら「キミの手は冷たいね」「ということは心が温かいんだね」とロマンチックに話をするような時には、ぜひぜひココロの中で「(といっても、単にそれは熱移動の物理的な話なんだけどね)」と考えてみて頂きたい(あくまでココロの中で)、と思うのである。もちろん、そのココロの中の独り言が女性に読みとられた結果、アナタがその女性の冷たい手で叩かれたとしても、ワタシは一切関知しないつもりなのである。

2005-10-20[n年前へ]

「クールビズ・ウォームビズはピラミッド建設に似ている」 

 クールビズやウォームビズについて、少し考えたことがある。その時に思ったことが、「クールビズ・ウォームビズはピラミッド建設に似ている」ということだ。クールビズやウォームビズが、その目的とする地球温暖化防止の役に立つかは疑問だと私は思っている。「論理は間違っていないけれど、実効性に乏しい」というのではなく、その論理自体に懐疑的なのである。

 しかし、その論理が「正しい」か否かとは無関係に、クールビズやウォームビズは何よりビジネスとして成り立っているようである、つまり巡り巡って人の生活維持に役にたっているようだ。それは、よく言われるピラミッド建設の「エジプト国民救済のための公共事業」という効用に似ているように思う。ピラミッド建設の目的がなんであれ、あるいはその目的達成のための論理が正しいのか迷信なのかとは関係なく、ビジネスとしての効用があるということと、クールビズやウォームビズの効用が似ている、という感じだ。



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