1999-06-30[n年前へ]
■デジカメ画像をスクリーンセーバーにしたい
記念写真を飾ろう
最近は、飲み会での撮影はデジカメを使うことも多い。しかし、デジカメで撮った画像というのはそれっきりになってしまうことも多い。特に宴会で撮った画像なんかはどう使ったらいいか困ってしまう。とはいっても、送別会で撮った写真などはなんとかして有効利用したいものである。
というわけで、デジカメ画像を使えるスクリーンセーバーを作ってみたい。そうすれば、スクラップブック代わりにも使える。しかもとびきりかっこいい奴を作りたい(私の主観を基準として)。
というわけで、写真アルバム風のスクリーンセーバーを作りたい。つまりは、「スクリーンセーバーを作ろう。- FilmStrip - (1998.11.17) 」の回で作ったスクリーンセーバーを蘇らせてみたのである。まずは、設定ダイアログを見て欲しい。
これを見れば大体わかると思うが、主な変更点はSusieプラグインに対応することにより、さまざまな画像ファイルに対応することができるようになったのと、「テーマ」を複数用意したことである。
Susie「kanaさんのWEB中のSusie関係のlinkページ」から辿って、対応するSusieプラグインを手に入れてくれば、大抵のデジカメの画像を表示することができるだろう。大抵のデジカメはJPEGファイルなので、JPEG用のプラグインがあれば使えるものも多いと思う。Susieプラグインはシステムディレクトリに入れれば使えるようになる。あるいは、Susieをインストールした所でも良い。
もし、全くSusieプラグインを入れないと、BMPファイルしか開くことができないので注意が必要である。
また、画像ファイルの入っているディレクトリは「@マークボタン」を押せば変更することができる。
それでは、テーマを紹介してみる。まずは、デフォルトの「カラーリバーサルフィルム」テーマである。リバーサルフィルムがモチーフである。これのテーマソングは(別に曲が流れるわけでも何でもないが)「僕のコダクローム」だ。
次は、「白黒フィルム(コンタクトプリント)」テーマである。白黒フィルムを現像した後に必ず行うコンタクトプリント(ベタ焼き)がモチーフだ。グレイ化処理を行いながら表示を行う。これのテーマソングは「カメラ!カメラ!カメラ!」だ。
次は、パーティーションなどにポラロイドを貼っているような「ポラロイドのピンナップ」テーマである。テーマソングは「君は天然色」だ。
そして、最後はコルクボードにセピア色になった写真を貼りつける「白黒のピンナップ」テーマだ。セピア処理をしながら表示してくれる。テーマソングは「卒業写真」だ。
テーマソングを見ると作者の年齢が想像されるが、そうそう年寄りではないつもりだ。と、一応書いておこう。
ダウンロードはこちらだ。ちなみにWindowsNTには未だ対応していない。それは対応させるとデバッグが面倒だからだ。また、
スクリーンセーバー FilmStrip99 (filmstrip99.lzh) 537kB
(デフォルトで画像ディレクトリに指定されている)C:\image\bmpに入れるためのファイルはこちら。先にこちらの画像ファイル群をC:\image\bmpというディレクトリの下に入れてから動かして欲しい。しつこいようだが、C:\image\bmpの下に画像ファイルがいっぱいという状態にするのである。
サンプル画像ファイル(Copyright Jun Hirabayashi)(お気に入りのおすすめ。) image.lzh 805kB222kB
そうでないと、一番最初の起動時にエラーが出るだろう。もし、自分で表示させたいものがあるなら設定ダイアログから変更してしまえば良い。もちろん、完成度は未だ高くないのはいつものことである。それでも悪さはしないはずだ。
「こんなテーマがあれば良いのに」という意見があればぜひぜひメールを送って頂きたい。あと、動作不良に関しては、(必ずやわらかい口調で)メールして欲しい。どんどん直していくつもりだ(つもり)。
また、リアルタイムに高機能な画像処理を行うCPU使い放題バージョンも開発中である。こちらもご意見募集中である。
2000-04-07[n年前へ]
■Canon Simplex +
オリジナルとコピーの追復曲
野田秀樹、NODA MAPの新作「カノン」が上演されている。観に行きたいのだが、距離のせいかなかなか見に行けそうにない。
観ていないので内容は知らないのだが、タイトルのカノンは「規範」を意味するギリシャ語のkanonだろう。英語で言えばcanonである。辞書でカノン(canon)を調べてみると、
- 規範、原則、標準、規準、根本原理 類似語 = "criterion"
- 基本的重要文献
- 真作品
- 教会法
- 聖書正典、正経
- 音楽形式のカノン、追復曲
- 48ポイントの活字
ちなみに、音楽形式としてのカノン=追複曲は、「主題としての一声部が応答としての他声部に模倣される形式」とある。「かえるの歌が聞こえてくるよ…」はその単純な例である。一つのメロディから導き出された旋律が重なり合っていくわけだ。あるいは、山下達郎の「クリスマスイヴ」の中間部のパッヘルベルのカノンといった方がわかりやすいだろうか。
音楽形式の「カノン」では、最初の旋律が主題であり原典である。そして、その模倣旋律が組合わさって、魅力的な音楽が作られていく。
ところで、「カノン」という言葉の意味の大きな割合を占める「聖書」という言葉を考えた時、音楽形式である「カノン」と似たようなものがある。
それは印刷技術である。と、書くと、唐突に感じるかもしれない。しかし、聖書の複製をきっかけとして広まった技術が、印刷技術である。それほど、関係がないわけではない。印刷技術は、グーテンベルク(ちなみに、今年はグーテンベルク= Gutenberg, Johann Gensfleischの生誕600年目である)の「42行聖書」から始った原典を複製する技術である。
印刷技術は、一つの原典から複数の複製物が作り出されていく。それは、一つの旋律から導き出された複数の旋律が追いかけていく、音楽のカノンそのものである。印刷技術はもうひとつの「カノン」なのである。
本来、「カノン」という言葉は「規準、原典、教典」を指すわけであるが、同時に、この「カノン」という言葉には「複製」という匂いがつきまとう。先の追復曲=カノン、そして印刷された聖書もそうだ。
グーテンベルクの「42行聖書」は200部程度印刷された。それらはいずれも色々な装飾がされ、同じ物は一つとしてない。どれも個性豊かなものである。音楽の「追復曲=カノン」でも、輪唱のようなごく単純なカノンを除けば、旋律は魅力的に変化されていく。旋律はどれも個性豊かなものである。個性がなければ、それはとてもつまらない輪唱に終わってしまう。
きっと、NODA MAPの「カノン」では野田秀樹の「言葉を繰り返し、次々と意味を転じさせて、そして、何者かを描写していく力」が発揮されるのだろう。考えてみれば、野田秀樹の「言葉を操るやり方」もカノンそのものである。模倣から始まったモノであっても、何かが新たに加えられていくならば、それは模倣でなくなって、きっといつかは原典になるのだと思う。逆に、あまりに原点としての「カノン」を守ろうとしたものは、それは単なる「コピー」に終わる。
さて、ところで「コピー」という言葉と「canon」という言葉を考えるとき、ある企業(が頭の中に浮かぶ。「Xerox」というオリジナル旋律に派生する企業である。
原典とされた「Xerox(富士ゼロックス)」はかつて、丸善石油のCM「オー・モーレツ!」を原典として、「モーレツからビューティフルへ」というCMを作り上げた。それは素晴らしい本歌取りである。60年代を代表する「オー・モーレツ!」という「キャッチ・コピー」を、「コピー」して、さらに変化させることで70年代へ繋がる「モーレツからビューティフルへ」という「キャッチ・コピー」を作り上げたのである。それはもう、一つの哲学であるといって良いと思う。
一方の企業は80年代に苺の「コピー」にミルクをかけてみせ、「本物と"コピー"の違いは見分けられない」というCMを作り上げた。原典と「コピー」に違いがあるのか?という問いかけである。それもまた一つの哲学だろう。
原典にこだわりすぎ、単なる「コピー」に終わるか、それとも、何者かを加え「本歌取り」としての「カノン」にすることができるか、それは「Vision」の有無にかかっている、のかもしれない。本当の「カノン」になるかは、「Vision」次第だ。そんなに深い意図はないし、適当に書いてみただけだけれど。
うーん、今回はやっぱり、「スクラップ」行きだな。(BGM & Title ゴルトベルグ変奏曲による14のカノンJ.S.Bach)
2002-02-03[n年前へ]
■映画のフィルムを並べたスクラップ
映画大好きの「元」少年少女達へ
先日、「お笑いパソコン日誌」で3次元画像ブラウザ「みょう絵」というものを知った。画像ファイルを日付や色の特徴などで三次元空間に並べてみる、というソフトだ。下の図がその「みょう絵」の動作画面だけれど、こんな風に三次元空間に配置された画像が散らばる中を「みゅぃーん」と動く感覚が結構気持ち良い。
で、その「みょう絵」をいじって
欲を言えば画像だけでなくて、色んな文章や音楽や気持ちとか、世の中のありとあらゆるものをこんな風にして眺めてみたいなぁ、と思った。あのころ撮影した写真や、眺めた景色や、読んだWEBサイトや…、とにかくありとあらゆるものを。と思った。すると、「お笑いパソコン日誌」のChic氏が
余談ですが、Windows XP はムービーファイルをサムネイル化してくれるんですが、あらゆるファイルをそうしてくれればいいのにと思ったり。と書いていた。それを読んで、「みょう絵」で一本の映画の中を覗いてみたいなぁ、と思ったのである。
映画が展開していくそのストーリーの時系列と、その中の色々な各舞台を三次元的に眺めてみたいと思ったのだ。そして、さらにはその映画の世界の中を三次元的に散策してみたいと思ったのである。
もちろん、それは映画の動画ファイルを静止画に展開して、それを「みょう絵」で開けばよいだけの話である。以前、動画ファイルを静止画に展開するアプリケーションを作ったこともある。
とはいえ、それを使って映画をキャプチャーしたファイルをそのまま静止画に展開するわけにはいかない。そんなことをしたら、ものスゴイ数の静止画ができてしまうからだ。1秒あたり約30枚もの静止画を含む動画をそのまま静止画に全部落としたら、一体どれだけのファイルができるだろうか?たった2分位の映画の予告編だって、展開したら何と3600枚である…。これだけの画像を読みこませたら、少なくとも私の遅いPCでは「みょう絵」がストライキを起こすことは確実だ。
そこで、映画の動画ファイルの中から、場面が変わるごとに一枚づつ静止画を抽出してみることにした。そうすれば、映画の中の色々な場面をそれぞれ一枚づつの画像として眺めることができる。そして、その画像を集めれば、その映画の色々な場面を一枚のノートにして見ることができるわけである。
というわけで、作ってみたのがこのAVI2Stillsである。いつものように、テキトーに仕立て上げただけだ。下の図がAVI2Stillsの動作画面である。ちなみに、この画面中で、TrigerLebelは場面変化を検出する感度を示すパラメータで、多分60位が適当だと思う。そして、SkipFrameは動画ファイルの中を何フレーム毎に調べていくかを示すパラメータである。展開スピードが気にならなければ1でも構わない。
このソフトができたところで、試しに - ロケット制作に憧れる少年達を描いた「遠い空の向こうに」"OctoberSky"( = 原作 "Rocket Boys"のアナグラム) - の中の各場面を抽出してみたのが下のスクラップである。予告編の中の各シーンが絵コンテのように抽出され、並べられていることが判ると思う。
こんな風に自分の好きな映画の場面を全部テキトーに抽出して、あとは「みょう絵」で眺めてみれば、その映画の世界を三次元的に散歩できるのである。というわけで、北村薫原作の映画「ターン」の予告編の世界を「みょう絵」で眺めてみたのが下の図である。
静止画では判りにくいけれど、立体的に配置された「映画空間」の中を散策してみるのは、やはりちょっと面白い。これで、欲を言えば各場面に近づくとその場面で流れていた音楽やセリフが聞こえてきたら、面白いと思う。それは、ムソルグスキーの「展覧会の絵」のようで気持ちが良いはずだ。そして、そうすれば気持ちが良いだけではなくて、今の「みょう絵」に足りない「画像だけではない何かをも眺めること」ができるわけだ。
またせっかくだから、「みょう絵」で眺めて終わりにするのも少しもったいないので、以前作った写真アルバム風のスクリーンセーバー"FilmStrip99"(手元のWindows2000では手直しが必要みたいだが…)で、白黒写真のコンタクトフィルム風のスクリーンセーバーを動かしてみた。それが下の画像である。映画のフィルムでなくて、写真のフィルム風だというところはご愛敬で許して欲しい。ちなみに、下の一連の画像は"SomeoneLike You"「恋する遺伝子」の予告編から変換したものである。
こんな風に自分の好きな映画の予告編などを使って自分用のスクリーンセーバーを作ってみるのも面白いと思う。今なら、たくさんの映画の予告編にオンラインでアクセスできるし、その予告編の動画ファイルがもしmov形式ならmov2aviを使って、それがもしrealvideo形式ならTinraを使えば、AVIファイルに変換できる。そして、今回のAVI2Stillsを使えば良いだけなのである。
ところで、こんな切り取った映画のフィルムを繋いだ一連のシーンといえば、ニューシネマパラダイスのラストシーンを思い出す。アルフレードの遺品、「主人公が覗き見ていた一連の場面」を繋いだシーンのフィルム、に主人公が涙したように、かつて少年少女だった映画大好きの人達がそれぞれ自分用のそんなスクラップフィルムを作ってみるのも面白いかも、と思う。そして、ふと思うことがあった時に眺めてみるのも、趣があるかも。
2002-02-28[n年前へ]
■二分少しの過去と未来
Below the horizons
「今日見た景色」を撮るようになって一年ほど過ぎた。「その日」眺めた目の前の景色をデジカメで切り取ってスクラップしてきた。ふと、その「今日見た景色」を眺めてみると、水平線近くの朝日や夕日を眺めた写真が多いことに気づいた。
海沿いの街に住んでいて、日の出とともにゴソゴソと動き出す生活をしているのだから、それは当たり前と言えば当たり前なのかもしれない。だけど、「水平線や地平線」越しの太陽」に惹かれるのはきっとそれだけではないと思う。だから、これまでも「二人で同じ流れ星を見るための地平線」、「地平線まで辿り着く時間」、そして「水平線の彼方」や何かを、色々と考えてみたりしたのだろう。
そういえば、少し前に太陽の見え方をちょっと計算したり、調べたりしていた。その中で、地球の大気のせいで、太陽光が水平線近くで屈折する効果、大気差、の大きさを眺めていたると、角度にして35分弱となっていた。地上から眺める時の太陽の大きさとほぼ同じだ。
ということは、地球に大気があるがために地平線の下、目で眺める太陽一個分の大きさだけ地平線の下、の太陽を私たちは眺めることができる。私たちが朝日を眺めているときは、実はまだ地平線の下にいるはず(もし大気が無ければ)の太陽を眺めていて、夕日を眺めるときはもうすでに地平線の下に沈んでしまったはずの太陽を眺めていることになる。
目で眺める太陽一個分の大きさというと、時間にすると130秒位だ。だから、私たちは地球が大気で包まれているがために、二分少し後の未来に見えるはずの朝日や、二分少し前に見えたはずの過去の夕日を眺めている。
「手の届かない世界と届く世界との境界線」の代名詞としてもよく使われる「水平線」や、「見えない世界と見わたせる世界との境界線」そのものの「地平線」も、実はその向こうの風景を「二分少しぶん」だけならかいま見ることができるなんて、とても面白い。そして、ふと気づいてみれば、いつも眺めてきた「今日見た景色」だって、時にはそんな「二分少しの過去と未来」だったりするのかもしれないな、と思う。
2006-06-29[n年前へ]
■「今という時代」の「写し鏡」
新幹線の中で、雑誌や新聞から切り取ったスクラップを整理する。次の言葉は、「フィルムカメラ v.s. デジタルカメラ」という内容で、朝日新聞に赤瀬川源平と篠山紀信がそれぞれ語ったインタビューの一部。赤瀬川源平の意見は、「デジタルカメラを使って、加工という"作為"を続けていくと、結局人間が頭で考える範囲におさまっていく。思いがけぬ写真が減り、"思いがける"写真ばかりになる」というもの。
写真は、そして写真家は、過去も未来も撮ることはできない。「今」しか撮れない。だからこそ、時代を写す「写し鏡」がカメラだと定義するなら、時代が生んだ最新のテクノロジーに偏見を持たず、それを使って時代を切り取り、そして時代と併走するのが写真家の務めでないか。 篠山紀信