2008-02-07[n年前へ]
■美しい「太陽電池」で色づいたPCバッグ
美しい「太陽電池」で色づいたバッグが、JUICE BAGSだ。ペットボトルを原料にして、(車についているのと同じシガーソケットから)6Wの電力を供給することができるソーラーパネル(太陽電池)で飾り付けら、太陽が出ていれば3時間ほどで、携帯用の電子機器を充電することができる。ビニールの部分などの耐久性は気にかかるけれど、実物を見た感じはとても綺麗だ。
「太陽が空に浮かぶ時間には、太陽電池で発電をしながら道を歩き、日暮れた頃からiPodに入れた音楽を聴く」なんていう「ザ!鉄腕!DASH!!」"ソーラーカー 一筆書きで日本一周"的生活も楽しいかも。
2008-03-20[n年前へ]
■「町の甍の乱反射」と「乱反射する友人」
日が傾いた時刻に、波立った水面を眺めると、水の上に輝く道が見える。川面・海面・湖面に太陽が足元から陽の方向へ、一直線につながって見える。そんなことを『「海面に写る太陽」の不思議』で書いた。その後、住宅街を見下ろしても、やはり、そういう「道」が見えた、という話を読んだ。
丘に上がってみると、眼下の住宅街の屋根の群れが細長く光っていた。海で日没を見る時のように太陽から道が伸びて見えている。
「甍の波と」
日が傾き始めた頃、高台に上って町を眺めてみた。すると、住宅街の屋根で日の光が乱反射し輝いている。その輝きは、住宅街の向こうにある河口の上、そしてさらに、海の先まで続いている。屋根の傾きに傾向はありつつも、やはりさまざまな方向を向いていて、いろいろな方向を向いた屋根が太陽の光を色んな方向に光を跳ね返している。あぁ、確かに、海も河口も町の景色も、みんな同じように乱反射した光を返している。
そういえば、『黄金の日日』や『落日燃ゆ』などを書いた城山三郎は「乱反射」というものが好きだった。城山三郎のいくつかの随筆を読むと、自分が思うことをそのまま写し返す鏡のようなものでなく、乱反射するものの方を好ましいものだと何度も書いている。
考え方も色々なことを言ってくれて、乱反射する友人とでもいいますかね。住宅街の屋根や水や風が作る乱反射面を見ていると、ふとそんな言葉を思い出す。そして、屋根の向きは、やはり南北向きが多いのだろうか、とか些細なけれど生活に密着しているはずのことに想像を巡らせてみたくなる。
城山三郎
これまで特に意識することもなく眺めていた町の景色、光る屋根の瓦にも、きらめく水の小波にも、光学や統計学といったものが、その姿を見え隠れさせながら、幕の内弁当のように箱にギッシリ詰められている。
2008-04-07[n年前へ]
■「銀スクラッチ」と「夜空の星月」
「銀スクラッチ」と印刷の「見当違い」ではないけれど、どんな「銀スクラッチ」であったとしても、その下に描かれているものは、透けて見えてくるように思う。表面を眺め見た時に、何の違いも見えないように見えることがあったとしても、裏から光を当てたり見方を少し変えたりしてみれば、下に描かれているものは自然と見えてきてしまうことが多い。そういうことは多い。
手元にあったチラシの「銀スクラッチ」に白色LEDを背面から当ててみれば、どんな色のスクラッチ部分であっても、ハッキリと自然に透けて見えてくる。一見、色味がかった銀スクラッチの下にあるものは全然見えないように思えたとしても、やはりそれは透けて見えてくる。結局のところ、そういうものなのかもしれない、と思う。
(若狭塗箸で)研いで出てくるもんは、
この塗り重ねたもんだけや。
反射光と透過光は違う。だから、反射光では何の違いも見えないものがあったとしても、それが透過光で「違わず」見えるとは限らない。また、それと逆に、透過光では違いが見えなかったとしても、反射光では全く違うさまに見えることもある。
つまるところ、反射光と透過光は違うのである。他の光を返すものが反射光で、他の光を消さないものが透過光である。それは、似てもいるし違うようでもある。
反射光をたとえて言うならば、それは夜空の月や星に似ている。宇宙空間のどこかには太陽がいて、夜空の月や惑星はその太陽の光を反射しながら動いている。同じ夜空のどこかに、より強く光を反射するものがあれば、ほんの少しの光しか返さない小さな惑星を見ることはできない。そういうことは世界に多い、ような気がする。
人間も箸と同じや。
日常生活の中で、「明るい光」は必ず広がっていく。けれど、「暗さ」が広がることはない。「銀スクラッチ」を見るとそんなことを思い出す。そして、雨雲の向こうにあるはずの、夜空に浮かぶ星や月の姿をふと見たくなる。
一生懸命、生きてさえおったら、
悩んだことも、落ち込んだことも、
きれいな模様になって出てくる。
2008-04-13[n年前へ]
■「幅広バルコニー(ベランダ)」と「冬の部屋」のヒミツ
街を歩いていると、「3.5m×3.5mの幅広ベランダ(バルコニー)!」というマンション広告を見かけた。広いバルコニーは気持良さそうだなぁ、そこでビールでも飲めばとても気持ち良いだろうなぁと思いつつ、その立て看板を眺めていると、ふと「このマンションは冬に湿気(しっけ)てしまわないだろうか…?」ということが急に気になりだした。
「日差しの科学」を読むとわかるように、夏と冬では日差しの角度が大きく異なる。暑い盛りの夏至ともなれば、太陽が一番高く上る南中の時刻には、(真上の)天頂方向から見て約11度の頭上から日光が強く差し込んでくる。その一方、寒い冬至の時期であれば、(天頂から)58度もの低い角度から、日光は斜めに差し込む。
だから、
夏至の時、窓の直上に約60cm程度のひさしをつければ、夏の日差しを部屋の中に入らなくすることがわかりますといいうように、上階にベランダ・バルコニーなどがあれば、それが庇(ひさし)となって、夏は日差しが部屋の中を暑く照らすこともなく、かといって、冬には斜めから差し込む陽の光が寒い部屋の中を暖めてくれる。
「日差しの科学」
それなら、上階に幅広3.5mのバルコニーがあるマンションなら、どうなるだろう。もちろん、夏の暑い日差しが部屋の中に入らないことは全く同じに違いない。しかし、冬の正午の日差しを計算してみると、部屋の中を太陽がほとんど照らさなくなってしまうことがわかる。たとえば、ひとつの階あたりの高さが2.5mほどである場合には、南中の時刻の太陽は部屋の中に50センチメートルほどしか、入ってこない。これでは、「寒く湿気た部屋」は暖まりそうにない…。
というわけで、「このマンションは冬に湿気(しっけ)てしまわないだろうか…?」と、自分の家でもないのにそんなことが気になってしまい、マンションの完成予想図を見ながら「日照シミュレーション」を頭の中で試み続けたのである。はたから眺めたとしたら、さぞかし、そのマンションに惹かれているように見えたことだろう。しかし、実はそんなこんなの「(余計な御世話の)日照シミュレーション」をしていたのだった。
2008-10-11[n年前へ]
■自分で作る「問題」と「答え」
以前、月刊化学5月号の【化学の本だな】でこんな内容のことを答えました。これ以外の場でも、同じようなことを数度聞かれますが、いつも同じようなことと答えたように思います。
Q: 調べていて,意外な結論が導きだされたりすることはあるのですか?
A: いいえ、結論(オチ)まで考えてから実際の計算や 実験に取りかかるので,意外な答えに至ることはありません。ただ、一回だけ、「意外な答え」に気づき驚いたことがあります。それは、「サンタが街にやってくる」という話です.数字上の答えは当初の設定そのものでしたが,そこから導きだされた本当の「サンタの正体」は,とても意外なほどに素敵なものでした。
サンタというものの正体、あるいは、サンタに変身する人を突き動かすものの正体、そんなものに気づかされたように思ったときには、自分が考えもしなかった「答え」を見つけたような気がしました。
いつか、科学童話本を書いてみたい、と思っています。 私と二度めに出会う「水」 / サンタが街にやってくる / あなたと見たい、流星群 / 遠い空のはて? / 七夕の夜に願うこと / 「雪だるま」がいる景色 / あの頃流れた電波の行方 / 街の灯 (City Light) / 14ミリグラムの「いろんな気持ち」 / 「夕焼けこやけ」の茜蜻蛉(あかとんぼ) / 「海面に写る太陽」の不思議 .... そんな小文や日記の中で少し真面目に書いたことを集めて、科学童話本をつくることができたらいいなぁ、と思うのです。