1999-08-12[n年前へ]
■不思議な品揃え
パンティーププラザの未来
下の写真はバンコクのパンティーププラザの内部である。丸井のビルの内部をラジオ会館の店子で置換しまくったようなビルである。いや、ラジオデパートのスケールを長さで10倍、面積で100倍にしたといった方がいいだろうか。
こういった電脳ビルに関しては詳しいサイトがたくさんあるのでここでは言及しない。
私が興味を惹かれたのは、その品揃えの不思議さである。パンティーププラザ内には数多くの店がある。どの店も展示しているソフトウェアは技術者向けのソフトのコーナーがかなり広いのである。それが結構面白いのだ。展示しているソフトウェア自体はどこの店も対して変わらない。例えば、
- AVS/Express Developer
- MATLAB5.3
- Mathematica4.0
- 様々なCAD/EM Simulator
もちろん、他の国では海賊版のソフトウェアに対する規制が厳しいため、売り場が縮小するとともに、売れ線のソフトのみが残ったというようなこともあるのだろう。(あるいは、売れ線のソフトの面積を広くするのが面倒で、全てのソフトをただ並べているのだろうか?)
香港などでは、数年前はFDベースという形で技術的なソフトウェアの在庫が結構あった。しかし、今では技術的なソフトウェアはほんの片隅に残るだけである。現在は、ほとんどがゲームかオフィス・グラフィックス用のソフトウェアである。FDベースだった理由はCDをプレスで作成してしまうと、少数しか売れない技術ソフトウェアは利益が出ないからである。
ただし、最近の技術ソフトウェアはFDベースでなくてCD-Rベースのものが多い。FDよりもCD-Rの方が安いし、本物がCDベースだとCD-Rでないと駄目だろう。しかし、CD-Rベースのソフトウェアを400円程で売っていると、利益が出るのか心配になってしまう位だ。
いずれにせよ、パンティーププラザにこんなに技術ソフトがおいてある理由はよくわからないし、その倫理性についても難しい問題だと思う。ただ、私が興味があるのはこいうソフトウェアを買うのはどんな客であるのか、だ。 別に、客の倫理性に興味があるわけではない。素晴らしい道具を簡単に入手できる世界の未来に興味があるのだ。それに一時期タイの人達と一緒に働いていた時期があるので、なおさら気にかかってしまうのかもしれない。ハンバーガーと同じ値段で、こういった素晴らしいソフトウェアが入手できるパンティーププラザの未来はどうなるのだろうか?(ソフトウェアを製作している立場の人からすれば、たまったものではないのだろうが。)
と、ここまでで終わるつもりだったが、何故か手元にこんな画像が有る。
1枚のCDにBeatlesの全曲(当然歌詞も)が入っているのである。こんなCDがあったらいいなぁ、と思っていたのだが、あるもんなんだなぁ。ここらへんの曲はもう年月を経て、権利も消失してる(はず)だからいいんだよなぁ。だから、買ってもいいんだよなぁ(別に買ったといってるわけではないけど...)。あれ、"Iwill"が聞こえてきたけど、これはきっと夢なんだ...
2003-05-09[n年前へ]
■学校その他の教育機関における複製
著作権法の第三十五条を見て下さい、とのアドバイスが。
学校その他の教育機関(営利を目的として設置されているものを除く。)において教育を担任する者は、その授業の過程における使用に供することを目的とする場合には、必要と認められる限度において、公表された著作物を複製することができる。ただし、当該著作物の種類及び用途並びにその複製の部数及び態様に照らし著作権者の利益を不当に害することとなる場合は、この限りでない。なるほど。そうすると、私が授業で使った(インターネット上で集めた画像を使った)資料は事業で使う分にはオッケーだったのだけれど、それを公開しちゃぁダメダメよ、ということで良いのかな?いや、ワタシじゃ「教育を担任する者」じゃなかったか…。
何はともあれ、アドバイスありがとうございます。なかなかに自然な法律ですね。
2006-01-20[n年前へ]
■他者の金儲けの途中でお金をとる「鵜飼い」業種
ニコンのフィルムカメラ事業からの(事実上の撤退や、コニカミノルタのカメラ事業撤退のニュースが続いた。残るのは日本では一社か二社といったところで、残りは他社のOEMになるのかもしれない。
「コニカミノルタはカメラと写真が看板事業」というイメージを1日でも早く脱して」とコニカミノルタホールディングスの社長が言っている通り、さまざまなところで書かれている人の感想を見る限り、「会社の主要事業に対する印象がずれ続けている」ことが面白い。コニカミノルタは勢いのあるOA機器メーカー以外の何者でもないが、「カメラ事業」を本業だと考えていた人はやはり多いようだ。こういった「事業に対するイメージのズレ」は、なんだか「ライブドアの本業に対する意識のズレ = IT企業がマネーファンドや広告代理店みたいなことをしてどうする!なんていう意見」などとも似ている。
「他事業の会社が(その会社の)利益を得るために必要とされる製品・サービス」を提供している会社、もっとわかりやすく言い換えれば、「他者の金儲けの途中からお金をもらう事業」以外ではなかなか大きな利益が出ない、と思う。つまり、利益を出している大きな会社の主業種というのは、結局のところ「他社が業務を遂行するために必要なOA機器」「広告料で利益を得るITネットサービス各社やいわゆる広告代理店」「他人の金のやりとりでお金を稼ぐ証券会社」であることが多い。他者の金儲けの途中でお金をとる業種、それは一言で言えば、「鵜飼い」業種である。「お腹を空かせた鵜が川中で飲み込んだ魚を、吐き出させ取り上げる」という鵜飼い漁法のような業種である。大利益を出している会社の主要事業は鵜飼い業種であることが多いように思う。
2007-07-07[n年前へ]
■市場経済と万有引力と「神の見えざる手」
『国富論』を書き、"経済学の父"と称されるアダム・スミスはアイザック・ニュートン(1642-1727)に強い影響を受けたという。
18世紀に経済学の基礎を作ったアダム・スミスが、非常に強い影響を受けたのは、ニュートン的な“科学”です。 栗田啓子 万有引力と神の見えざる手アダム・スミス(1723-1790)が生きていた時代、多くの人たちが、世界・社会を動かす基本的な法則性や自然科学の法則性に、神の意思が表れていると考えていた。万物に、普遍的な(けれど見えない)“万有引力”が働いているとニュートンが考えたのと同じように、アダム・スミスが経済発展の歴史や市場均衡の陰に「神の見えざる手」が動いていると考えた…というのは不思議に、そしてとても面白い。
経済学と古典物理学という、まるで分野が離れて見えるようなことなのに、実は同じ時代の中で影響を受けあいながら共に育ってきた…ということを意識するならば、その2つが不思議なくらいピタリと綺麗に重なり合う。それは意外でもあるけれど、同時に、それも当然なことであるようにも感じる。
アダム・スミスが考えた「経済人=ホモ・エコノミクス」という存在がどうしても納得できませんでした。自分の利益にのみ従って、完全に合理的な行動をする人間。自分の進むべき方向を確実に知ることができて、必ずその方向へ動く。そんな顔も表情もない人間なんて現実にいるわけがないし、そんな非現実的なモデルに何の意味があるのだろうか?と思うこともあったのです。 (けれど、ニュートン力学で物体を示す質点だって)大きさもなければ、色もついていない、そんな存在です。ニュートン力学は、物体をそんな奇妙な存在として扱うにもかかわらず、数多くの用途で必要十分な精度の計算・予測をすることができます。 柴田 研 ニュートンと経済人世の中に、「100% 新しい考え・アイデア」なんてほとんどない。いや、多分、そんなものはない。そんなものがある、という人がいたとしたら、単に歴史を振り返ったことがない人だろう。
逆に言えば、どんなこと・どんなものであったとしても、必ず古い家系図のように、考えやアイデアの歴史を辿ることができるに違いない。どんなことでも、少しづつ考えが変化し、ほんの少しづつ新しいものが生まれ、少しづつ前へ進んでいく。意識的に、あるいは無意識的に、異なるように見える色んなものが少しづつ影響を受けあってきた。そんなさまを知ることは、とても楽しい。
2008-06-30[n年前へ]
■「競馬」と「資本主義」
「何か」を表すためにスポーツを「たとえ」に使うことは多い。現在の「資本主義」をスポーツで例えるならば、それは「競馬」だと思う。「経済」に関する知識が(悲しいくらい)乏しい私の頭の中では、「競馬」は「現代の資本主義」とよく似ているように思う。
競馬を成り立たせているのは、意見の違いだ。
マーク・トウェーン
AERA Mook Special 「21世紀を読む」の中で、岩井克人が「イデオロギーとしての資本主義は、”見えざる手により調整される自己完結したシステム”だが、現実の資本主義は”(場所・価格・情報といった)違いを利用して利潤を生むシステム”だ」というようなことを書いていた。これは、マーク・トウェーンが”競馬”について語った「競馬を成り立たせているのは意見の違いだ」という言葉とよく似ている。”違い・差”があって初めて、現在(現実)の資本主義を回すエネルギーは生まれるのだ、という風にこの言葉は響く。「理想とズレ(差)がある現実を、理想に合わせていく調整の仕組み」ではなく、「ありとあらゆる意味の”差”を持ち続ける現実から生まれる利益」で世界が動いている、というように「競馬を成り立たせているのは、意見の違いだ」という言葉、そして岩井克人の言葉、は響く。
やりたいことと売れるというのは違うね。売れるってことはハリウッド映画みたいな、頭悪~い奴もわからなきゃいけないってことだぜ。
(西原理恵子との対談で)みうらじゅん ユリイカ 2006.07
たとえば、「PCを自由自在に使うことができる人」がいたとする。その人が「技術的な面で心地よく理解しあえる人」を周囲に求めようとしたならば、つまり周囲と自分との間の技術的な”違い・差”="境界"を小さくしたいと願うなら、ほとんど多くの場合”利益”を生むことはできないのではないだろうか。「あなたにできること」は「相手もできたりする」のだから、境界がないのだから、そうそう利益が生まれるわけもない。
けれど、「PCを自由自在に使うことができる人」が、「PCという言葉もよく知らないし、そんな代物を使うこともできない人」たちの中にいるなら、そこから「利益」を生むことは比較的容易にできるように思う。それを言い換えるなら、「技術的な満足」と「大きな利益」はなかなか両立しえない、ということになる。
どんな選択を選ぶかどうか、つまり「どんな馬券を買うかどうか」「あるいはそんな馬券なんか買わない」といった賭けが積み重なったものが、現在まで続く世界を生み出し・動かしているのかもしれない。選択肢という名の馬券はたくさんあって、どんな方向にに手を伸ばし、どこかに向かって進んでいく、動かず佇み続ける、違いのある場所に行く、あるいは、理解しあえる場所にいく、そんな数々の選択が積み重なってこの世界を作り出しているのかもしれない、と思う。