2010-03-02[n年前へ]
■「やりたいこと」と「やれること」について
中町綾子「ニッポンのテレビドラマ 21の名セリフ 」の安斎あゆ子脚本の「セーラー服通り」から。
「ご両親はあなたの進路について理解してくれていますか」と聞くことがある。多くの場合、「自分のやりたいことをやりなさいと言ってます」と答えす。そのうち、やれないとわかったときはどうするのだろう?そんな思いにふと駆られることがある。やれないとわかるのはいつだろうと思う。
未来(夢)ばかりを見つめると、「いま」が見えなくなる時がある。いまが見えなくて、自分のできることを見失うことがある。
もし、やりたいことが叶わなかったり、見つからなかったとしても、今の自分を否定する必要はない。才能のあるなしに関わらず、いま自分にできることを精一杯やってみる。そうすることで、何か自信のようなものができるのではないか。あの時以来、私はそんあふうに生きたいと思うようになった。
テレビドラマは現代を描き、そのテレビドラマの間に挟まる広告は、その現代からさらに未来を描く。
あの頃、あの時、…そんな時代を描きだしたテレビドラマの台詞や音楽の背景を、深く感じてみたい人(特に、R40世代)がこの本を手に取れば、掌の上にタイムマシンが登場すると思う。
このドラマのサブタイトルは、最終輪の「さよなら 欲しくない」を除いて、毎回「○○ 欲しい」となっていた。「男の子 欲しい」「お部屋 欲しい」…。彼女たちはいつも何かを欲しいと望んでいた。だけど、ただ貪欲に何かを手に入れていくわけではなかった。
2010-03-17[n年前へ]
■「生まれ変わる自分」と「付き合う相手」と「理系と文系」
「理系と文系」といった分類については、多くの人が一度は考えてみることがある話だと思っていますし、あるいは、一度は考えなければいけない時期があるのかもしれないとも、思っています。さらには、そんな二択の選択肢のどちらかを、選ばなければいけないように見えるときも、あるのかもしれません。
とはいえ、多くの人は、そういう話題・時期からは離れ・いつの間にか卒業していくものだとも、思っています。それでも、たまには、そんな話題を思い出し考えることもあります。
「理系女子向けのコミュニティ雑誌」を手に取り読んでいると、「生まれ変わるなら、理系と文系のどちらを選ぶか?」「付き合う相手は、理系と文系のどちらが良いか?」を男性・女性/理系・文系の計4種類の人たちに聞いたアンケート結果がありました。そのアンケート結果が、とても興味深いものだったので、その記事を撮影してみました。それが、下のスナップ写真です。
このアンケート結果を眺めたとき、そこから見えてくるのは、理系と文系という二者選択が仮にあったとするのなら、そしてそこに自分の好みというものがないのだったとするならば、文系を選んだ方が良さそうだということです。”いわゆる”理系と文系の男女比率がどのようなものであるかに寄りますが、そのような「答え」が自然に思われます。
この話は、忘れなければ、もう少し続けようと思います。もちろん、適当に、時間をおいつつ、になるとは思いますが…。
2010-04-01[n年前へ]
■「マティス」と「状態遷移」と「描かれなかった可能性」
マティスの「大きな横たわる裸婦(ばら色の裸婦)」の制作過程を、1935年5月3日の第1ステートから眺め、1935年10月30日の第21ステート、そして、1935年10月30日の最終ステートまで眺めていると、何度も何度も描き直されていることがわかる。その過程を写真で眺め、マティスが何を考えながら、変更・修正を加えていったかを想像することができて楽しい。
ところで、第1ステートとか、第2ステートと「ステート」といった言葉を眺めていると、「状態遷移(State Transition)」とか「State Flow」なんていうものを連想してしまう。
たとえば、「ばら色の裸婦」では、私たちが見ることができるマティスのステート(状態)はたかだか22ステートに過ぎない。
しかし、このステート以外にもたくさんのステートが存在しただろうし、あるいは、存在することはなかったけれども存在する可能性があったことだろう。
マティスが描いた作業過程を、あるいは、マティスが感じたけれど描かなかった構想を、描かれなかった可能性を、状態遷移図にしたとしたならば、それは一体どんな世界になるのだろうか。
2010-04-09[n年前へ]
■桜咲く季節の中を「限りない可能性の缶詰」たちが歩いてる
早稲田近くに、色んなビールを美味しく安く飲めて、ガラス張りの窓から外をずっと眺めることができる…という3拍子揃った安い店があった。今週、久しぶりにその店に行くと、決して安くはない店になっていた。
けれど、窓際の席から見える通りはそのままで、料理も美味しかったので、ビールをずいぶん飲んでしまった。「2010年の今だからこそのFortran講座」とか「懐かしきAVSの歴史」といったことを話しながら、ガラスの向こうにある通りを歩く早稲田の新入生たちを眺める。日暮れも過ぎ、照明に照らされた通りを、歩く「可能性の塊」たちを羨望ととも眺める。
早稲田大学 理工学部の隣、戸山公園の桜は、とても綺麗で、風が吹くと花びらが吹雪のように舞っている。新学期が始まるキャンパスというのは、いつの時も、どこの場所でも、限りない新鮮さが詰まっている。
2010-05-27[n年前へ]
■人生の岐路である選択肢を選ぶということ
「彼女たちのドラマ―シナリオライターになった女性たち 」の中で、大石静が語る言葉から。
人生の過程で、人はいろいろなことをあきらめなければいけない。人生の岐路である選択肢を選ぶということは、その他の選択肢をすべて捨てるということを意味します。小さな子供のときにはいろいろ可能性があるように、大人は言いますが、実は無数の可能性を断念して生きていくのが人生なんです。