2000-03-09[n年前へ]
■飲み屋の音と1/fノイズ
くつろぎの音響解析編
私は典型的なプロレタリアート(死語)である。そのせいか、高級(行ったことがないからわからないのだが)そうなバーは苦手である。しかし、安〜い居酒屋は大好きだ。むしろ、「愛している」と言っても良いくらいである。新宿西口の思い出横町なんかその最たるものだ。
ところで、飲み屋の喧噪の音を聞いていると、何故か心安らぐような気さえしてしまう。「飲み屋の喧噪の音」というのはノイズとしか言いようのない音であるが、そのノイズが何故か心安らぐのである。しかし、高級そうなバーでは心安らぐどころではないのである。
一体、この違いはどこにあるのだろうか?いや、もちろん私がビンボーであるせいと言ってしまえば、話は簡単である。しかし、それはあまりにも哀しすぎる(私にとって)。きっと、何か他の理由があるに違いない、と思うのである。そこで、「科学の力」で何か他の理由を探してみることにした。私がバーが苦手で、居酒屋が大好きな理由を探してみることにしたのである。
居酒屋の環境ノイズを聞いていると、私は何故か心が安らぐわけであるが、「心安らぐノイズ」と言えば、「/fノイズ」というものがある。1/fノイズは心地良さ・気持ちよさを感じる、とよく言われる。今回はこれに着目してみたい。私が居酒屋の音を聴くと心が安らぎ、バーの音を聴くと何故か緊張する理由が「お金」ではなくて、環境音の特性にあると考えてみるのである。私のプライドのためにもそうであって欲しいわけだ。
そこで、今回は典型的な飲み屋の環境音を音響解析をしてみたいと思う。そして、それが果たして1/fノイズになっているかどうか調べてみたいと思うのである。特に、同じ飲み屋でも居酒屋とバーの間に違いがあるかどうか調べてみるのである。
それでは、飲み屋の代表的なものとして
- 居酒屋
- バー
- キャバレー
- 効果音大全集 45 屋内ノイズII キングレコード
- WaveSpectra for Windows95/98/NT4( http://member.nifty.ne.jp/efu/ )
これを見てみると、居酒屋とキャバレーはほぼ同じであり、300Hzより高い音に関しては周波数=fが高くなるに従い環境音のパワー密度が低下していることがわかる。しかもその低下の仕方は滑らかである。ここで、表示軸は共に対数軸であるので、居酒屋とキャバレーの環境音は1/fノイズに近いといっても良いだろう。
私が居酒屋の環境音を聞くと落ち着くのはこれが理由だったのである。安いから落ち着くのではなくて、環境音が1/fノイズであるから落ち着くのである。私がビンボーなせいではなくて、ちゃんとした科学的な理由があったのである。
それに対して、一番下のバーの環境音では少し様子が異なる。パワースペクトラムは滑らかでもないし、傾きも異なる。すでに、環境音は1/fノイズではなくなっている。これである。このせいで、私はバーでは落ち着かなかったのだ。そう、私がバーで落ち着かないのは私がビンボーなせいではなくて、バーの環境音が1/fノイズでないせいだったのである。
この三つの環境音の間の違いが判り易いように、この三つを重ねて表示してみる。表示色は
- 緑:居酒屋
- 青:キャバレー
- 紫:バー
緑の居酒屋と青のキャバレーがほぼ同じパワースペクトラムであるのがわかると思う。それに対して、バーでは様子が異なり、明らかに環境音が1/fノイズではなくなっている。ずいぶんと不自然なパワースペクトラムであることが判ると思う。
この不自然さが故に私はバーの環境音を聴いていると、落ち着かないのである。そういうわけで、今回の結論は、
- 私は居酒屋の音を聞いていると心が安らぐが、バーの音を聴いていると緊張する
- その理由は私がビンボーなせいではなく、居酒屋とバーの環境音の違いによるものである
- その違いは居酒屋の環境音が1/fノイズであるのに対して、バーの環境音は1/fノイズではない
あれっ、そう言えば、キャバレーの環境音も1/fノイズってことは、私はキャバレーの環境音を聞いても心が安らぐのだろうか?うーん、行ったことがないからわからないや。
2000-05-17[n年前へ]
■恋の形を見た人は
恋の相対性理論
さて、前回
では、三人の登場人物A子 : 「瞬間」的に燃え上がるタイプの女の人達の間で繰りひろげられる色々な「出来事・きっかけ」と、それにより発生する「恋する心」を「恋のインパルス応答」を用いて計算してみた。その結果、C男とB子がカップルになれば「ほのぼの」とした幸せな生活をしそうだ、というところまで考察した。
B子 : 「ゆっくり」燃えるタイプの女の人
C男 : いつも、とっても良い男
今回は、その三人に加えて
- D男 : ほとんどの場合、悪い男
さて、今回登場する「D男 = ほとんどの場合、悪い男」はかなり酷い男である。D男がA子とB子に対して何をしたか時系列を追ってみてみることにしよう。
- お金をせびり、
- 浮気をするし、
- それを追求すると殴る蹴るの暴行を働き、
- せっせと貯めたヘソクリを奪いパチンコに行ってしまう、
それに対して、前回のC男は次のグラフのように悪いことは何一つしない良い男だ。
悪いことは何一つしない。良いことばかりをしてくれるのである。何とも良い人である。普通に考えれば、女の人の「ハート」はC男ががっちり掴み、D男は警察官にでもがっちり掴まれているのが当然であろう。掴まれたが最後、シャバには二度と出てきてこないで欲しい位である。しかし、そう単純な話ではないのだ。
人の感覚には「順応」というものがある。簡単に言えば「慣れ」である。ひどいことしかしない男と普段接していると、それが当たり前に思えてしまうのである。相対化してしまうのだ。普段のD男に対する印象が「当たり前」に思えてしまうのである。
さて、その「恋する心」の「順応」を計算するにはどうしたら良いだろうか?そう、普段の印象を基準にすれば良いのだ。普段の印象、すなわち「印象の平均値」を「恋する心」から引けば良いのである。例えば、A子のC男に対する「恋する心」を計算してみることにする。次のグラフで黒字が「色々な出来事」と「恋のインパルス応答」の畳み込みであり、本来のあるべき「恋する心」である。そして、緑字が環境順応後、すなわち、本来のあるべき「恋する心」から「印象の平均値」を引いた「恋する心」である。
この図で、環境順応後の「恋する心」が本来の「恋する心」よりいい印象であることがわかると思う。何故かというと、環境に順応するということは普段の印象が当たり前の状態と思ってしまうことである。普段「悪い」男を相手にする場合は、「悪い」のが当たり前だと思ってしまうのである。数学的には、「悪い」のを引くのであるから、「マイナスを引くとプラスになる」のと同じである。それを式で表してみると、
環境順応後の「恋する心」 = 本来の「恋する心」 - 普段の態度
なのであるから、普段の行動が極めて悪いD男の場合は
環境順応後の「恋する心」 = 本来の「恋する心」 - ( 悪い印象)ここで「悪い印象」が「良い印象」の反対であることから、( 悪い印象 ) =( -良い印象 )とおくと、
環境順応後の「恋する心」 = 本来の「恋する心」 - ( -良い印象)であるから、
環境順応後の「恋する心」 = 本来の「恋する心」 + ( 良い印象)となる。なんと、「悪い印象」が「良い印象」にすり替わるのである。恐るべし、「環境順応」である。スイカに塩をかけると、ショッパイどころか逆に甘く感じられるのと同じく、ひどいD男がちょっとでも良いことをすると、「ものすごく良いこと」に感じられてしまうのである。前回、
「恋の印象の平均化効果」というものを武器に、「辛(つらい)」が「幸(幸せ)」にすりかわる様子を見てみることにしたい。「辛(つらい)」が「幸(幸せ)」は紙一重なのだ。「辛(つらい)」は「幸(幸せ)」で、「幸(幸せ)」は「辛(つらい)」なのである。と書いたが、これがそうだ。普段の「辛(つらい)」を引くと、マイナスをマイナスすることでプラスに変わり、「辛(つらい)」が「幸(幸せ)」にすりかわるのである。
そして、普段悪いことをしないC男の場合はこれとまったく逆に、普段の良い印象を引いてしまうが故に、環境順応後の「恋する心」には「悪い印象」が加わってしまうのである。「普段良い男」が少しでも悪いことをすると、散々に悪く言われてしまうのと同じである。
さて、こういった環境順応した状態での、A子のC男に対する「恋する心」とD男に対する「恋する心」を眺めてみることにしよう。次のグラフは黒字がA子のC男に対する「恋する心」を示し、緑字がA子のD男に対する「恋する心」を示している。
なんと、A子は普段悪いD男の方に強い「恋する心」を感じてしまうのである。「おいおい、それでいいのか?」、と言いたくなるような状況である。「オマエはマゾか!?」と、つい言ってしまいそうである。
まぁ、じっくり物を考えないA子はおておいて、それではB子はどうだろうか?きっと、C男と上手くいくだろうB子はどうだろうか?もちろん、「人の良い」C男を選んでくれるだろう。というわけで、次のグラフが、A子とB子のD男に対する「恋する心」を比較したものである。緑字がA子のD男に対する「恋する心」を示し、黒字がB子のそれを示している。
何ということだろう。こともあろうに、B子もD男に恋をしてしまうのだ。哀しいかな、C男は失恋してしまうのである。しかも、こtもあろうにD男にである。なんということだ!もちろん、D男がB子にひどいことをした時、すなわち「B子のD男に対する恋する心」が低下した時にA子とD男が別れるという可能性もある。しかし、残念ながらB子は「ゆっくり」タイプなのである。A子と違って、「すごく恋が冷める瞬間」がないのである。A子の場合はとっさのいきおいでD男と別れるという可能性もあるが、B子の場合はむしろD男にひっかかりやすいと言えるかもしれない。
このようにして、「普段は悪い男がたまに優しいことをすると、女の人はふと恋に落ちてしまう」という恐怖のストーリーがいたるところで発生するのである。
私の楽しみ「ちゃろん日記」の2000/03/09の「わしはダメだった」に、「印象の平均化定理」に関するしみじみとした一節があるので、そのまま引用してみたい。
「下僕(仮名)は、不幸な女がどぅやってできるか知っとるか?」「一般相対性理論」によれば、完全なる時空間の基準がない。それと全く同じように、絶対的な幸せの基準など存在しない。本人がそれでいいと言うなら、それでいいのかもしれない。強引を承知で言うならば、それが「恋の相対性理論」である。恋の座標軸は本人が決めるしかないのである。「・・・う?ん」「不幸な女は、フダンはとんでもない男がたま?にほんのすこしだけ見せる優しさが忘れられないコトにより生産される」「・・・・・・」「母ちゃんがそぅだった、こりからもそりは生産されるだろうしそんな女が絶えるコトはないだろう、でもそりでいいのカモ知れんの、本人がそりで幸せだったのなら」
さて、これまで、「できるかな?では何度も「恋のかたち」を何とか目に見える形にしようとしてきた。きっと、それはこれからも変わらないだろう。とりあえず今回の話は、私の好きな本橋馨子の「兼次おじ様シリーズ」の中のセリフを引用して、締めくくることにしたい。
「なぁ兼次、愛はどんな形をしているか知っているか?」
「見た事ないからわかりません。」
「そうだ、誰も見た者はないのに、誰もが当然のように形づけて受け入れている...」
「もし愛に優劣を決めるものがあればなんだろう?... たとえ、どんな形だろうと選ぶのはおまえ自身だよ。」
2000-08-07[n年前へ]
■高いか、安いか、この価格
愛はお金で買えるのでしょうか?
私がよく使う日本国内向け情報検索サイトはinfoseekである。何かを探すときには、居酒屋の生ビールではないが、何はともあれinfoseekである。何故かは上手く説明できないが、他の検索サイトに比べて私にとって感覚的に「合う」のである。
ところで、こういった検索サイトはバナー広告などの広告収入で運営されている。しかし、私は「そんなバナー広告って、高いお金を出すほど効果があるのかなぁ?」とかねがね疑問に思っている。といっても、広告シロートの感覚なのできっとそれは間違っているのだろう。
そんな広告シロートの私でも、「あぁ、これは便利だなぁ。これはきっと効果があるよなぁ。」と思うバナー広告がある。それは、「検索のキーワードに応じて表示されるバナー広告」である。
例えばinfoseekで「センサ」というキーワードで検索をかけるとこんな結果表示の画面になる。
色々な「センサ」に関する情報を知りたいと思って、「センサ」に関するサイトをinfoseekで調べると、
センシング・計測技術の総合サイト = キーエンスというバナーがデッカク表示されるのである。なんとも、これは便利である。普通のバナー広告は邪魔なだぁと思うことも多いが、こんなバナー広告は全然邪魔だとは思わない。むしろ、便利だなぁと私は素直に思うのである。
私の気持ちに関わらず勝手に無条件で表示されるバナー広告は、私にとって単なるノイズにすぎない。「このバナー広告がなければ、もっと素早く情報が表示されるのになぁ」などと思い出すと、腹が立ってくるほどである。しかし、私の探している情報に関するバナー広告を表示してくれるとなると、それが180度変わるのである。それは単なるノイズではなくて価値あるシグナルに変わってしまうのだ。邪魔な存在から、とってもありがたい存在に変わるのである。
これは他の色々なキーワードでもそうで、例えばプリンターやコピー機の「トナー」に関する情報を探してみると、こんなバナー広告が表示される。「トナー」を探している人には
ウチでは安いトナーを売ってますよ!という広告を教えてくれるのである。なんともありがたいことである。これは決して邪魔ではない。むしろ、適切なアドバイスである(いや、もちろんここのトナーが本当に安いのかどうかは私は知らない)。
この「センサ」、「トナー」といった例はinfoseekの場合だが、これは別にinfoseekに限るものではない。他の検索サイトでもこんなバナー広告は同様に表示される。例えば、
- excite ( http://www.excite.co.jp/)
- LYCOS ( http://www.lycos.co.jp/ )
- infoseek ( http://www.infoseek.co.jp/)
- goo ( http://www.goo.ne.jp )
どこの検索サイトでも「デジカメに関する情報を探している人」には「デジカメの広告」を表示してくれるのである。いやはや便利な時代になったものである(ちょっと年寄り風)。
ところで、こんな検索をかけている内に、こうした広告を出すのに「いくら位お金がかかるのか」と疑問に思い
を見てみると、これが実は結構安い。- Search Word/サーチワード 検索する言葉に合わせて出現する、待ち伏せ広告 (サイズ:60×468)
- 4週間2,500PV以上のワード 4週間で¥12×PV
- 上記外のワード 4週間で¥30,000 (固定)
- Top Page Banner/トップページバナー
私にとっては「邪魔な存在なだけのバナー広告」が一週間で¥2,000,000であるのに、「ありがたい存在のバナー広告」が4週間で¥30,000なのである。もう、こんなに安くて良いのかしら、という位である。こんなに安いと個人で広告を出してみても良いと思うくらいである。私も小遣いがもう少しあれば、試しに広告を出してみるところだ。「できる?」で検索をかけると、自動的に「HIRAX.NET」のバナー広告を表示したい程である。それは四週間で3万円なら安いモノだ。
それどころか、このバナー広告を使ったシュールなプロポーズなんてのもオツなものだと思う。例えば、こんな感じだ。
ホラ、キミinfoseekでキミの「運命の人」を検索してごらん。なんて具合である。しかし、そんなことはもう実はされているかもしれない。
アラ、アナタのバナー広告が出てるわ! 何てこと!
ところで、このinfoseekの広告についての情報を読んでいると、infoseekにアクセスするユーザーに関する
なんて面白い情報がある。 これを見ると、infoseekにアクセスするユーザーは男性がほぼ70%で、女性がほぼ32%であるから、これを標準の割合と考えて、チャンネル別男女構成比で「男の方が割合が高いジャンルと、女の方が割合が高いジャンル」を示すと次の図のようになる。
「カルチャー&ホビー」が男女半々のジャンルで、それを境にして「男の興味ある世界」と「女の興味ある世界」が分かれているのが判ると思う。「学び」に関しては女性の方が興味を持っていることが判るし、「インターネット」に関しては男性の方が興味を持っていることも判る。比較的、男性が「コンピュータ・ビジネス・経営・政治・法律・社会・マネー...」なんて無機的なものに興味を持っているのに対して、女性は「グルメ&クッキング・ショッピング・キャリア・トラベル・くらしの情報...」なんて血の通ったものに興味を持っている。うーん、面白い。男性の比率が一番多い(いや、女性の比率が少ないと言うべきか)のは「クルマ」で、女性は「ヘルス&ビューティー」だというのも何かとても面白く、笑ってしまう。
これを見ると、「住まい」なんかもうほとんど女性の支配する世界であることなども判るだろう。なるほど、「男の隠れ家」なんて雑誌が売れるわけだ。ここまで「住まい」が女性の世界であれば、それも当然だろう。
さて、話を検索キーワードに関するバナー広告に話を戻そう。試しにinfoseekで「結婚」で検索をかけるとこんな結婚情報サイトの広告が表示される。ありがたくて、涙が出そうになるくらいである。
そこで、調子にのって私はexciteで「愛」で検索をかけてみた。
もちろん、これは単なる偶然だろう。「愛」を探しているのに、消費者金融のバナー広告が表示されるわけはない。「愛」を探しているのに、「お金」の広告が出るわけがない。「愛がお金で買える」わけがない。単なる偶然とはわかっているけど、何ともイヤな偶然である。もちろん、単なる偶然の筈だ。
神様、愛はお金で買えるのでしょうか?
2000-09-16[n年前へ]
■モザイク消し器の真実
買うも買わないもアナタの自由
で「モザイク消し器」について考えてみた。といっても、考えてみただけで使ってみたわけではない。当たり前である。そんな「モザイク消し器」が私の家にあるわけはないからだ。歩く「悟り」、歩く「生き仏」と呼ばれる私の家にそんなものがあって良いはずがない。その証拠に私はそんな風に呼ばれたことがない(土屋賢治風ロジック)。モザイクの向こう - 隠しているから良いのです- (2000.07.18)
さて、そんな風に言いたい所なのだが、実はそれがあるのだ。何と、「モザイク消し器」が私の家には鎮座しているのである。といって、それは私のものではなくて、某編集者の方がとあることのために送ってくれたものなのである。
残念ながら、このくりくり小僧はあまりにも使い物にならなかったので、部屋の片隅にそのまま放置されていた。いや、こう書くと誤解されそうである。別に変なことに使ったわけではなくて、技術的に使い物にならなかったのである。一応、そこの所はハッキリしておきたい。大体、コレを一体どうやって変なことに使うのだ(以下略)。
今回、このくりくり小僧を送り返すことになったので、せっかくだからこのモザイク消し器がどんな風に技術的に使い物にならなかったかをこのタイミングで書いてみることにしたいと思う。
まずは、このくりくり小僧の操作方法を説明しておこう。ビデオ信号は通常のNTSC信号で入出力するようになっている。エロビデオをこの「くりくり小僧」に入力し、処理した画像をテレビへ送るのである。あるいは、処理した画像を新たにビデオにダビングするのかもしれない。
この「くりくり小僧」は、対応するモザイク処理(広義の)の種類は
- モザイク(狭義の)
- 反転
「くりくり小僧」の写真を見ると判ると思うが、画像復元処理をかける領域の
- 大きさ
- 位置
写真中にあるその他のボリューム
- 輝度
- 明るさ
- エンハンサー
それでは、まずは適当にモザイク画像を作ってみる。そして、その画像を「くりくり小僧」を使ってキレイに戻せるかを調べてみることにしよう。そこで、最初に示すのが
- 女性のオリジナル画像
- オリジナル画像の一部に反転処理をかけたもの(後述するが、実は失敗している)
上の右の反転画像の中央部に対して、「くりくり小僧」で復元処理をかけてみたのが下の画像である。さて、画像は元通りになっているだろうか?
この画像を見る階調は確かに反転しているのであるが、色が明らかにおかしい。オリジナル画像では赤かったハズの唇が青いのである。それどころか、顔全体が青いのである。真っ青だ。明るさは正しそうなのであるが、色合いは絶対に何かが狂っている。
そこで、「基準画像」に対して、「くりくり小僧」で反転復元処理をかけてみることで、どのような処理をかけているかを調べてみた。それが下の画像である。左が「基準画像」で、右が「基準画像」に「くりくり小僧」で反転復元処理をかけてみた画像である。なお、画像の右端および下端部分に関しては「くりくり小僧」で反転復元処理をかけていない。
さて、画像の向かって左にあるグレイスケールの階調部分を見れば一目瞭然だと思うが、この「くりくり小僧」で反転復元処理をかけた画像は確かに明るさが反転している。それはその他の白黒画像の部分を見ても明らかである。
そして、カラーチャート部分を見てみると、色合いは実は全く変化していないことが判る。右上から左下まで「紫・青...橙・赤」と繋がっているカラーチャートは左と右でそれほど違っていない。ほとんど同じである。
それは考えてみれば、当たり前なのである。「くりくり小僧」の入出力はNTSC(NationalTelevision System Commitee)方式を使っている。このNTSC信号はカラー画像を
- 輝度情報
- 赤 - 輝度情報
- 青 - 輝度情報
- 赤 - 輝度情報
- 青 - 輝度情報
ところが、先ほど私が女性のオリジナル画像に対して反転処理をかけてみたものは、RGB画像のRGBそれぞれのチャンネルに対して反転処理をかけていたのである。これでは、明るさが反転するだけでなくて、色合いまで反転してしまう。私は、何と「くりくり小僧」の入出力はNTSC方式を使っていて、RGB画像でないことを失念していたのである。その結果、女性の顔色が反転したまま真っ青になってしまったわけだ。
そこで、その「輝度チャンネルのみの反転」ということを考慮してテストしてみたものが次の画像である。今度は反転画像の中央部に「くりくり小僧」で復元処理をかけた部分の色合いが正しい色合いであることがわかるだろう。
なるほど、「反転画像」に関しては「くりくり小僧」は確かにちゃんと画像を復元できることが判った。しかし、しかしである。反転モザイク処理をかけたビデオなんてそうそうあるわけがない。いや、そんなに自信を持っていうと何やら変な疑いをかけられそうであるが、多分そうだろう。ほとんどは、次に示すモザイク(狭義の)処理だと思う。それをキレイに復元できなければ、「モザイク消し器」と名乗る資格はない。そうは思わないだろうか?百歩譲っても、「反転消し器」と言うべきではないだろうか?そこで、狭義のモザイク画像に対してこの「くりくり小僧」が威力を発揮することができるかどうかを、次に調べてみた。
まずは、作ったモザイク画像を先に示そう。下の左が先程と同じオリジナル画像で、右がモザイク(狭義の)画像である。よく(?)見かける画像だと思う。
それでは、「くりくり画像」はこのモザイク向こうをキレイに映し出すことができるだろうか?この機械は悩めるエロ子羊達を救うことができるのだろうか?それを確かめてみたのが次の画像である。先のモザイク画像の中央部に「くりくり小僧」で復元処理をかけてみたものである。
「何だこりゃぁあぁ」、と私は思わず叫びそうになった。いや、別にこの機械のためにお金を払ったわけじゃないから良いのだけれど、一体なんなのだこれは。このモザイク消し機能はハッキリ言って大嘘である。桃太郎侍だったら「おまえなんか「モザイク消し器」じゃねぇぇ」と切り捨てるところだ。
これなら、前回
で試したような単なるボカシ処理の方がずっと上である。ちなみに、この下の画像が単なるボカシ処理で「モザイク」を消してみたものである。上の「くりくり小僧」の復元画像よりもずっとマシであることが判るだろう。モザイクの向こう - 隠しているから良いのです- (2000.07.18)
ちなみに、先程の「反転処理」の場合と同じように、「基準チャート」に対して「くりくり小僧」でモザイク復元処理をかけてみたものを示してみよう。下に示すその画像を見れば、「くりくり小僧」のモザイク復元処理が
- 輝度チャンネルの反転処理
- 横方向のエッジ強調処理
しかし、この「モザイク復元処理」をかけてみても、私には全然モザイクの向こうは見えないのである。もう、何が何だか判らないのである。もう、何が何だか判らないが故に、もしかしたら人の持つ無限の想像力をフルに発揮できるのではないか、と思うほどである。私は残念ながらエロの想像力が足りないのかもしれないが、想像力の発達したエロの天上人達であれば話は別だろう。
さて、今回の話は「モザイク消し器のMTF(仮称)」というタイトルで書き始めたのであるが、「モザイク消し器」の実力がこんなものだったのでお蔵入りしていたのである。まぁ、解析の出来としてはイマイチであるが、もしかしたら「モザイク消し器」を買おうかどうかと迷っている子羊達の参考になるかもしれないので、一応公開してみた次第だ。
さて、私はこの機械をいじってみて思わず暴れ出しそうになったが、それはもしかしたら私だけかもしれない。人によっては、「何て素晴らしいんだ!!この機械は!!」と感激する可能性だってゼロではない。イマジネーションが豊かなあなたであれば、さぞかし素晴らしい桃源郷がモザイクの向こうに見えるのかもしれない。
だから、「買うか、買わないか」はアナタの自由だ。だから、このイマジネーション養成ギブスに大枚を払うの悪くないかもしれない。この機械でイマジネーションを鍛えた暁には、モザイクの向こうにアナタには何かが見えるかもしれない。確かに、それも悪くないかもしれないだろう。そこに何が見えるかは、結局あなた次第だと思うのである。
2000-10-06[n年前へ]
■恋の分水嶺
ベクトルの彼方で待ってて
深夜に目が覚めてしまい、「探求心開発のすすめ - 「おかしい」と感じ、楽しく追求する事例集- 」北大路 剛 著 燃焼社セレクト教養双書ISBN4-88978-054-8を読んでいた。すると、「はじめに」面白い一節があった。
山の頂上が見えている間は、まだ、その麓にも達していない。山に登りはじめたら、山頂など全く見えはしない。次に踏み出す足をどの岩角に置くだけを考えて、少しでも高いところへ歩を運べば、やがて最も高い山頂に到達するはずである。「なるほどなぁ。そういうものかもしれないなぁ。だけど、仕事じゃぁそうはいかないような気もするがなぁ。頂上を極めるに至らなくても…とはなかなか言えないからなぁ。あと、次に踏み出す足の位置だけを考えていて、別の峰に登っちゃったらどうするんだろうなぁ。」などと思いながら惚けていた。すると、変なことを考え始めたので、それをここに書いてみることにした。
たとえ、頂上を極めるに至らなくても、その苦労に報いるだけのものは必ず得られるのだから。
次の図は「とある山」を示したものである。ちょうど富士山のような、広い裾を持つ孤立峰状の山である。
この「とある山」における「少しでも高い方向」を示してみたものが次の図である。
図中の各場所における矢印が「少しでも高い方向」を示したものだから、「少しでも高いところへ歩を運べば、やがて最も高い山頂に到達する」ことがよく判る。
とはいえ、その「少しでも高いところへ歩を運べば、やがて最も高い山頂に到達する」のは孤立峰だからで、次の図に示すような山脈ではそうはいかない。
この図に示した山脈では、中央の山が他の山より高いのだが次の「少しでも高い方向」を示した図を見れば判るように、「少しでも高いところへ歩を運べば、やがて最も高い山頂に到達する」わけではない。下の図では青い線で示したような分水嶺が存在して、それぞれの領域の中で「少しでも高いところへ歩を運べば」、その近くの高い部分には到達するが、「やがて最も高い山頂に到達する」わけではない。当たり前である。
青い線が分水嶺 人々はそれぞれ塗り分けた領域で一番高い山に到達することになる |
例えば、この図の向かって左上側から山に登り始めた人は、必ず青色の領域に入る。だから、青色の丸で示した頂上(実は一番高いわけではない)に登ってしまう。同じように、登り始めたのが右上なら、緑の頂上に登ってしまう。もし、赤色の丸で示した一番高い頂上に登ろうと思ったら、向かって下側から登らなくては頂上にはたどり着けない。
富士山のような形の山はそうそう見かけないのに対して、そうでない形の山はとても多く見かけるのだから、「少しでも高いところへ歩を運べば、やがて最も高い山頂に到達する」というのは実は一般的にはそうそうありえない話のように思われる。
さて、これはこれまでも考え続けてきた「恋」の問題についても同じだろう。次の図に示すように「マドンナ」が一人しかいない状態では、その「マドンナ」の周りの「恋ポテンシャル」だけが高くなっている。
そのため、こんな「恋ポテンシャル」下での「恋のベクトル」を描いてみると、こんな感じになる。「男はみんな彼女の虜、彼女にみんな引き寄せられる」のである。「恋における孤立峰」での「恋のベクトル」の先には必ず「彼女(別につき合うという意味での彼女ではない)」がいるのである。
それに対して、先程と同じようにこんな「恋の山脈」を考えたらどうなるだろうか?A子、B子、C子という三つの山からなる「恋の山脈」である。
この場合の「恋の山脈」での「恋のベクトル」は先程と同じくこの図になる。つまり、あなたにとって客観的には一番魅力的なのはA子にも関わらず、恋の力に導かれるまま動いていったとしても、必ずしもA子に辿り着くわけではないのである。 さきほどの山と同じく、この場合にも「恋の分水嶺」があって、アプローチをし始める場所によって、B子の方に行ってしまったり、あるいは、C子の方に行ってしまったりするのである。ベクトルの彼方で誰が待っているかは、アプローチ次第だったりするのだ。
というわけで、「実際の山脈」でも「恋の山脈」でも、「少しでも高いところへ歩を運べば、やがて最も高い山頂に到達する」わけではないのだ。
とはいえ、見晴らしのきく頂上に登ったりすると、今度は他の(もっと高そうな)頂上が見えてくるわけで、もう一度そっちへアプローチし始めるなんてこともあるだろうから、結局は「一番高いところ」へたどり着けることもあるのかもしれない。それに、「実際の山登り」でも「恋の山登り」でも道に迷ったりして、思いも寄らぬ方向へ行ってしまうことはよく?あるわけで、そんな時に「恋の分水嶺」を越えてしまうなんてこともよくありそうな事態ではある。
もっとも、「実際の山登り」ならともかく、「恋の山脈」の方では「結婚」なんて状態もあったりするわけで、実はそうそう他の場所へ動けない場合も多いだろう。そんなことを考えるだけでも、これまた大変そうな状況も想像されるのがオソロシイところだ。
そう言えば、この「探求心開発のすすめ」の「はじめに」の中には、私がもう一つとても面白いなぁと思ったフレーズがある。それは、
古くより、「必要は発明の母」と言われていますが、これにならえば「疑問は学問の父」であると言えるのではないでしょうか。という一節である。この一節からは何やら、
- 「必要」という足が地に着いている女、と
- 「疑問」という何か浮世離れした男
いや、何を書いているのだ。そんな話を書こうとしたのではなくて、つまり「色々な疑問」は「学問の父」ってことで、例えそれが結婚システムへの疑問だとしても、それは単に一例にすぎない、ってことで…