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2007-09-09[n年前へ]

「ヒューリスティクス」と「焼き肉」と「ビール」 

 NTTがテレホンカードを導入した頃、20年くらい前、KORGのM1を抱えながら、武蔵野線に乗って初めて柏に行った。夏休みを迎える頃、「運河」近くで2,3日過ごしたような気がする。朝から晩まで技術工作をして、夜は運河へ蛍を見に行って、確か2,3日の時間を過ごしたような気がする。

 70年前の「いかにして問題をとくか」を読んで、ようやく「ヒューリスティクス(発見的論法)」の意味がわかった気になりました。
 その時のいつかの早朝に、ゴミ捨て場でFtbというカメラを拾った。1年もしない内に、そのカメラは永眠したけれど、そのカメラには色んな影響を受けた。少なくとも、その後の20年くらいは、そのカメラに影響を受け続けた。
 人はやがて いつかみんな 死んでしまうのですから
 それから何年も経ってから、繰り返し柏近くへ行くようになった。その近くで、1月半ほど過ごしていたこともある。午前の5分間の休憩と、45分間の昼休みと、午後の7分間の休みを経て、いつも夜には中華料理屋でビールを飲んだ。
 今年の初め、東京大学大学院 新領域創成科学研究科で話をしてきました。その夜は、基盤情報学専攻の某研究室の人たちと焼き肉屋で美味しいビールを飲んでいたわけです
 とても美味しかった焼き肉は、ふと思い返してみれば「牛鈴」だった気もする。 いや、違ったかもしれないけれど、茨城の県道沿いにある、焼き肉屋までテクテク歩いて行った気がする。…つまり、それをひとことで言うならば、つまりは「最高に美味しい焼き肉」だ。
  ヒューリスティクス(発見的論法) AならばBであるとき、Bだった→Aは正しいらしい

"How to Solve It" George Polya@1945
 確実なことも、100%正しいことも、きっと世の中には存在しない。そんな世界で、ポリア教授が書くヒューリスティクス(発見的論法)は、とても新鮮に響く。
 なにか心配事があってもだいじょうぶですよ
 それから、繰り返し柏に行くようになった。行く目的や、行く立場は変わっていったけれど、何度も何度も柏へ、あるいは、柏近くへ行くために柏を通り過ぎた。
「女性を感じさせないから(感じる前に終わるし)、体内を(女の子になるX精子が生き残りやすい)酸性のまま」にしておけるし、「ゴールから遙か遠くから、精子耐久レースを始めることができるから、酸性に弱い(男の子になる)Y精子を最後まで行かせない」ことができる…というような告白が「遺伝的アルゴリズム、遺伝的プログラミング、人工生命」というキーワードとともに語られたのです。
 「こんなものがあったらいいな」と思うことがある。けれど、そんな時「そんなものがあったらいいな」と思ってくれる人がいないことは多い。「そんなもの」が「どんなもの」なのかわかってくれる人はいないのが普通の当たり前だ。
だって、人には 限界があるのですから人にはできないことも あるのですからだから 一生懸命がんばったらあとは神様に おまかせすればいいのです
 そんな時、「そんなもの」が「どんなもの」なのかを実際に作り出すことになる。そのための長い時間が、一番楽しい時間だと私は思う。作り出した瞬間はほんの一瞬で、その峠を過ぎる一瞬が訪れたと同時に、その瞬間は過去の事象に変わる。だから、「そんなもの」が「どんなもの」なのかを作り出すための長い時間が、一番楽しい時間だと私は思う。
 だって、人はやがて いつかみんな 死んでしまうのですから

2007-09-13[n年前へ]

「理系」と「化けもの」 

「それのどこが未踏なんですか?」という뿉꓊떿쳤ꓤ죣좽꒬꓇ꓞ꒹ꆣ
 人の記憶は、自分の都合の良いように変わる。
宇宙は永久に怪異に満ちている。
 しかも、私は記憶力が悪い。だから、次に書く言葉も多分間違っている。そして、自分の都合の良いように、きっと書き換わっている。だから、きっと間違っていることが、次に続く。
あらゆる科学の書物は百鬼夜行絵巻物である。
 寺田寅彦の葬式で、誰かが「君はとても孤独な人だった」というようなことを言った。
化け物の出入りする世界は科学の世界である。
 今では、寺田寅彦が書いた随筆をたくさん簡単に読むことができる。青空文庫でも、それ以外の場所でも、たくさん読むことができる。
 化け物がないと思うのはかえってほんとうの迷信である。
 けれど、寺田寅彦を書いた随筆を辿ることは、この瞬間の青空文庫からは、まだできない。
 それをひもといてその怪異に戦慄する心持ちがなくなれば、もう科学は死んでしまうのである。
 そんな随筆を辿ると、寺田寅彦が書く科学の書物や芸術の書物の中に寺田寅彦が見ていた景色、人によってはそれを化け物と呼ぶだろう景色が浮かび上がってくる。そんなものを化け物と呼ぶ人もいるだろうし、人によってはそれを人生と呼ぶこともあるだろう。あるいは、人によっては、それが"世界"だと言うかもしれない。
 あらゆる科学の書物は同時にまた芸術の世界でもある。
 「根っからの理系人間を自認する人には使えない言葉」でも「定量的に評価不能じゃないですか」と突っ込まれる表現でも、きっと社会や人生は根っからの理系世界でも定量的に評価可能な世界でもない世界にはそんな見方・現し方ことふさわしい。だから、
 ぼくが恰好悪いと感じるだけで作る理由としては充分じゃないですか。
だから、他の何の誰かの名前を借りた理由も頼るわけでなく「ぼくが恰好悪いと感じるだけで、作る理由としては充分じゃないですか」という言葉はシンプル、かつ、綺麗に響く。たぶん、これ以上綺麗なものはない。それを、他の何の誰かの名前を借りて表現しようとした途端、綺麗でなくなるように思う。

ぼくが恰好悪いと感じるだけで、作る理由としては充分じゃないですか。
 他の何の名前も借りず、他の何のルールも借りず、自分自身の言葉で書く「ぼくが恰好悪いと感じる」ということ、その正しさは、本当にシンプルで綺麗に響く。それを、社会が追いかけるかどうかは別にしても、その言葉は、本当にシンプルに綺麗に響く。

 人の記憶は、自分の都合の良いように変わる。そして、その人の中の真実でしかない「人の記憶・人の過去や経験」は自分の都合の良いように変わり、そして新たな未来が形作られて行く。
 人の記憶は、自分の都合の良いように変わる。
 人の未来は、人が作る。

2007-10-01[n年前へ]

「40年前のF-1監督」と「希望がある人、希望がない人」 

 何かを根気強く続けるということは、言い換えれば挫折や失敗に負けないということでもある。
 F-1レースの結果を見ながら、手元にある切り抜きをいくつか整理した。イギリスのレース・エンジン・チューナ"ジョン・ニコルソン"のダイナモ室入り口に貼られているという言葉が、電波新聞社「トイテクノロジー」の114〜115ページに書いてある。
 Bhp(軸馬力)
  60%=perspiration (汗・努力)
  10%=inspiration (ひらめき)
  10%=constipation (壁に突き当たり・行き詰まり)
  20%=manipulation(ごまかしながら・上手く操る)
 "昭和40年代"の元ホンダF-1監督中村良夫が「レーシングエンジンの過去・現在・未来」(グランプリ出版)という本の中で紹介している言葉だという。
 それが、つまりは希望ということになるのではないだろうか。

佐藤 香 「希望がある人、希望がない人」

2007-10-04[n年前へ]

「過去」と「未来」 

 「過去」と「未来」自分が新しいと思う未来の世界と「理想化」された記憶の中の過去はニアリー・イコールだ、と思うことがあります。
 もし、あなたがそこで一番賢い人だとしたら、あなたは間違った場所にいる。
 これからの自分の前に拡がる未来の世界も、今までの自分の前に横たわっている過去の世界も、どちらも「自分の前」にある世界です。
 そんな風に、未来が過去と同じなら、私たちは過去と未来の「無限ループ」のメビウスの輪の表面にいるのかもしれません。
 やったこと全てが上手くいくなら、十分に挑戦してないってことさ。
 何度でも 何度でも 何度でも 立ち上がり呼ぶよ

2007-11-23[n年前へ]

時代を眺めながら色の未来を考える 

 東京理科大学の宮原教授の講演の面白かった2つめのこと、実際には講演の主たる内容は、「光」と「色」を「産業や芸術や科学といった時代」の変化を辿りながら考える、というものだった。期せずして趣向が重なった「絵画の歴史を辿りながら、光と色を考える」というポスターセッションの研究報告と共に眺めることができたので、心から楽しめた。

 この十数年、画像形成技術は進化し続けています。
しかし、歴史の中で十数年はほんの一瞬です。

 講演終了後に話し合った「ニュートンとホイヘンスの論争をどう思うか」「宗教革命や産業革命そして東インド会社という時代からの必然」「シュンペータとイノベーション」といった話が、また面白かった。そういった内容については、画像関連の場所で、近いうちに、まとめて提供する機会を作りたいと思う。

 千年近い歴史を、3分ほどで辿りました。
こういった話題を材料に、たくさんの方々と
お話できることを願っています。



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