2001-10-16[n年前へ]
■「分光的に近い色」
「分光的に近い色」でない場合の問題点は、そこにあたる光の波長分布が違うと色が合わなくなってしまうことが一つあります。昼間の光で色が合っているように見えても、夕日があたった途端に塗りなおした個所が丸判りなわけです。
でもって、もうひとつの問題点は「自分の目」は人によって個性があってそれぞれ違うわけです。だから、たかだか三次元に情報が減らされた「自分の目」で合わせたつもりになっている時には、「他の人にはきっと違う色に見えているんだ」と意識することを忘れないようにしたいな、と思うわけです。 「分光的に近い色」の場合には、自分の目を直接的には介さないかもしれませんが、そのかわりに「一見、機械的には見えるけれども」他の光りがあたっている場合や、他の人の目で眺めた場合のことも意識できるのが良いところかもしれないですね。
とはいえ、私も自分の目で作ってく作業は大好きですよ。えぇ、もちろん。ただ、「自分の目はみんな違う」っていうのがちょっと頭のすみにあるってだけで。
2001-11-24[n年前へ]
■hirax.netの美術館
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2002-06-16[n年前へ]
■私が好きな記事を書くひと
某社の資料を追いかけまくり、「あぁ、この人やこの人はこういう発想や動きをするんだぁ」と判るようになった気がする今日この頃、今日はこんな一連の記事の個性について。
平沼赳夫 発言 「日本国債の格付けはボツワナ国債よりも下になった。ボツワナ国民の半分くらいはエイズ患者。そんな国より格付けが下とはけしからん」
内容についてはさておき、「自分はもっと価値がある、と言うために、他を貶める」というのは情けなくて想像力が欠如しているなぁ、と「自戒を込めて」思ったのでした。(小学生の作文風)
で、「平沼赳夫オフィシャルホームページ」の「私の政治信条 一、人間性を重んじ、調和のある人間社会の実現をはかる」は大嘘だと思う。 (リンク)(リンク)(リンク)(リンク)
2002-08-17[n年前へ]
2003-01-23[n年前へ]
■両手は聴衆の視線の地平線
ご存じの方はご存じのアレとは少し違うかもしれないが、今日もいつものようにグリグリ〜としたプレゼンをしてみた。朝通勤途中の車の中でポリスのシンクロニシティコンサートのLIVE CDをガンガンにかけていたので気分はスティングで、相手が誰でもとりあえず関係ないのである。いつものように、頭の中で「ステージの上では私は女優(あっ、男優か)よ」と誰かが囁くのである。というより、性格的にそうでも思わないと大勢の人に喋るなんてやってられないのである。
で、まるでシンクロニシティのようにhardでloxseな日々経由で作品をよく見せるためのお手軽なテクニック集なんかを眺めてみた。これは、なかなか面白い。「個性的な人の顔写真を使うと安易に笑いが取れる」なんていう、一件クダラナそうに見えることこそ、特に参考になるような気がするのである。
そうえいば、これまでに受けたプレゼンの研修の中で一番心に残っているのがこんな言葉だ。「オマエの両手は聴衆の視線の地平線だ」「つまり、聴衆はオマエの両手より下は決して見ないものだ」「ということは、両手を肩の高さ辺りでキープしておけば、聴衆はオマエの顔から目をそらせなくなるし、聴衆の視線の位置だって自由自在にコントロールできる」「だから、腕は胸の高さより下げるな」「聴衆の視線をコントロールするる努力を惜しんではいけない、絶対に」
というわけで、私はこれ以降プレゼンの姿勢はスキーと同じだと思うことにしたのである。スキーで滑っているときに、腕が下がっているスキーヤーはスキーが下手なのと同じように、プレゼンテーションをしている時に腕を下げている発表者はプレゼンが下手なのだ。この「両手は聴衆の視線の地平線」という言葉には本当に目から鱗が落ちたのだった。