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2001-02-02[n年前へ]

「雪だるま」がいる景色 

大きな影の下で


 私の職場は暖かな場所にあるので、一年を通してほとんど雪が降ることはない。それでも、先日の大雪では私の職場にも雪が積もった。今年はまるで毎週末に雪が降っているような感じさえする。

 雪景色ももちろんきれいなので、ずっと眺めていたいわけではあるが、道や駐車場には除雪をしなければならない。というわけで、除雪をした時に出たたくさんの雪を使って、雪だるまがたくさん作られていた。下の写真は、雪が降った三日後に撮った。夜、明かりの下の街路樹を眺めている雪だるまの後ろ姿である。
 

夜、明かりの下の街路樹を眺めている雪だるま

 とてもずんぐりむっくりな感じで、ちょっと頭でっかちで、作者のセンスを感じさせる雪だるまのベストプロポーションである。もちろん、色々な雪だるまがいて、色々なプロポーションの雪だるまがいるわけではあるが、どれもちょっと小太りの良いお父さんという感じだ。

 もちろん、そんな雪だるま達も陽に照らされて、だんだんと小さくなっていく。下の写真は雪が降ってから四日後に、日陰で佇む雪だるまの親子だ。ずいぶんと小さくなってしまっている。
 

日陰で佇む雪だるまの親子

 この雪だるまを作った人は、消火栓の施設の日陰になるような場所に雪だるまの親子を佇ませたわけである。きっと、それは偶然ではないだろう。その人は、何かを考えた上で、雪だるまの親子の居場所としてこの場所を選んだはずだ。施設管理の邪魔になる消火栓の施設の前に、あえて雪だるまの居場所を作ったことは、とてもとても趣のあることだ。

 ところで、この雪だるまを見るとずいぶんと頭が小さくなっている。胴体の大きさに較べてずいぶんと頭が小さい。雪だるまが作られた最初の頃の体のバランスとはずいぶん違うものになってしまっている。なぜ、こんな形に変化してしまったのだろうか?

 考えてみればこんな形に溶けていくのもあたりまえなのである。雪が溶けていくスピードは雪が得る熱量に比例するだろう。それは、雪の表面積に比例するのが自然である。雪が外界から、境界としての表面を介して熱を得て、そして溶けていくのである。雪だるまのような球からなる物体では球の半径の二乗に比例し、一方、球の体積は球の半径の三乗に比例するわけだ。だから、雪で作った球が溶けていく量を体積で正規化すれば、大きい球ほど遅く溶け、小さい球ほど早く溶けていくということになる。そう、雪で作った球は大きいほど溶けにくいのだ。

 ところで、雪だるまの胴体に較べて頭は比較的小さい。だから、雪だるまの頭の方が早く溶けてもっと小さくなる。それに対して、胴体の方は大きいので比較的遅く溶けていく。結局、上の写真のように大きな胴体に小さな小さな頭がついているような形に変化していくわけである。もちろん雪だるま全体としても同じ話なわけで、大きい雪だるまほど溶けにくくて、小さな雪だるまほど早く溶けてしまうことになる。
 

 そういえば、日の当たる駐車場に佇む雪だるまの親子もいた。陽の当たるアスファルトの上で、親雪だるまは子雪だるまの南側に立っていた。そして、小さな子雪だるまは大きな親雪だるまの影の中でじっと座っていた。親雪だるまは大きかった。だから、強い日差しに照らされても、きっと溶けはしないだろう。そして、小さな雪だるまは親だるまの影の中にいれば、小さくてもまだまだ大丈夫かもしれない。少なくとも、次に雪が降るまでは大丈夫かもしれない。次に雪が降れば、また雪だるまは大きく増えていくことだろう。

 今年は毎週末に雪が降っているような感じさえするくらいだから、きっと大丈夫なんだと思う。
 

2001-02-19[n年前へ]

ひとりで書いてるだけだから。 

ヘッポコ文章を直したい


   面白い情報を探しにと「お笑いパソコン日誌」を眺めていると、「ウエヤマの事件簿」の「他人の日記をオモチャにしよう!」が紹介されていた。「お笑いパソコン日誌」に〜『できるかな?』風ネタであります〜と紹介されてあった通り、実に私好みの話だった。ウエヤマ氏が「自分で書いてる日記の文章」を解析して、文字の出現頻度を調べてみたものである。

 「できるかな?」は画像や科学の関連の話が多いように見える。しかし、実はそれだけではなくて文章や日記に関する話も多い。例えば、これまでに出てきた話を振り返ってみると、

に始まり、と続く、「文学の世界を眺めてみよう」という話など、あるいは「WEBページで見かける文体の特徴を解析しよう」としたなど、あるいは「WEB日記の文化を眺めて見たい」というなどの話があった。「技術サイト」という分類をされることも多い本サイトではあるのだけど、非技術的な話に強引に技術的な話を持ち込みたくなったり、技術的な話なのに何故かとても私的で非技術的な話が入ってしまったりするのが、良くも悪くも「できるかな?」の特徴だろう。もちろん、良いことでは全然無いのだけれど、こうでも書かないと悲しい気分になってしまうので、「良くも悪くも」と書いているのである。

 そういったhirax.netの特長ならぬ特徴は私が書く文章が下手なせいなわけで、そんなヘッポコ文章から脱出するべく、私の書く文章の特徴を調べて反省してみることにした。もちろん、自分のヘッポコ文章だけを眺めてみてもしょうがない。他の素晴らしい文章を書く書き手と比較しなければならないだろう。そこで、今回はいくつかの文章を品詞解析し、その結果の特徴を調べることにする。そして、書き手による文章の特徴が眺めながら、私のヘッポコ文章の欠点を調べ、さらには誰もが思わず涙がこぼしてしまうような素晴らしい文章を書けるようになりたい、と思うのである。
 

 さて、まずは目標を決めよう。私がヘッポコ文章を脱出してどんな文章を目指すかを、何より先に決めなくてはならない。となれば、あまりにも大それた目標ではあるのだが、やはり日本の文豪、夏目漱石は外せないだろう。そして、その教え子でもある寺田寅彦もやはり外すわけにはいかない。一応私も理系のはしくれ、日本の理系文章の流れを作ったこの二人を目標にしなくてなんとしよう。ヘッポコ文章を脱出していきなり、夏目漱石と寺田寅彦というところに無理があるが、そんなことを考えていては駄目なのである。「少年よ大志を抱け」とクラーク博士も言ったのである。もう少年と言うにはどう考えても年齢的に無理があるのだが、気持ちはまだまだ少年で目標は大きく持ってみたいと思うのである。

 そして、もう一人の目標は「ちゃろん日記(仮)」をマイペースに書き続ける「ななゑ」さんである。私は彼女の書く文章を読むたびにとても素晴らしい理系的センスが感じ続けているのである。しかも、理系的でありつつも笑いと涙のペーソスたっぷりの「ちゃろん文体」という独自の確固とした文体を築いているところも尊敬していたりするのである。

 というわけで、今回の文章の比較は

  1. 夏目漱石
  2. 寺田寅彦
  3. ちゃろん日記(仮) ななゑ
  4. 「できるかな?」 jun hirabayashi
の四人の書き手の文章を適当に二つずつピックアップして、その文章を品詞解析して簡単に特徴を眺めてみることにした。各書き手に対して、それぞれピックアップした文章はである。なお、夏目漱石と寺田寅彦は「青空文庫」から入手した。そして、これらの文章を日本語形態素解析システム茶筌&perlで解析後、Excelでさらに解析・表示を行ってみることにしよう。

 ところで、形態素解析とはどのようなものだろうか。まずは、例を挙げよう。例えば、

私が好きな書き手達は、夏目漱石、寺田寅彦、ななゑさんです。
という文章を茶筌で分解すると、
  1. 私 名詞-代名詞-一般
  2. が 助詞-格助詞-一般
  3. 好き 名詞-形容動詞語幹
  4. な 助動詞
  5. 書き手 名詞-一般
  6. 達 名詞-接尾-一般
  7. は 助詞-係助詞
  8. 、 記号-読点
  9. 夏目 名詞-固有名詞-人名-姓
  10. 漱石 名詞-固有名詞-人名-名
  11. 、 記号-読点
  12. 寺田 名詞-固有名詞-人名-姓
  13. 寅彦 名詞-固有名詞-人名-名
  14. 、 記号-読点
  15. ななゑ 名詞-固有名詞-人名-名
  16. さん 名詞-接尾-人名
  17. です 助動詞
  18. 。 記号-句点
というようになる。このように各文章を品詞毎に分解して、その出現分布から特徴を調べてみるのである。なお、今回注目した品詞は
  1. 読点
  2. 形容詞
  3. フィラー
  4. 感動詞
の四つである。この四つを選んだ理由は、読点は明確な決まりがないだけに書き手の感覚が入りやすいと思われ、形容詞、フィラー・感動詞に関しては書き手の気持ちが素直に現れやすいと思われるからである。ちなみに、フィラーとはから引用すれば、「あのー」「えー」といった語句ということになる。まずは各文章が書き手によってどのくらい特徴づけられるかのイメージを掴むために、形容詞の出現頻度とフィラーの出現頻度を軸にとり、各文章を二次元の世界に配置してみた結果を図示してみよう。
 
形容詞の出現頻度とフィラーの出現頻度を軸にとって、
各文章を二次元の世界に配置した結果

 結構、同じ書き手による文章が同じような位置に配置されることがわかると思う。ちゃろん日記(仮)などは、二つの独立した文章がほとんど同じ位置に配置されている。もう、ちゃろん文体は安定しまくっていて完成されているのである。そしてまた、「文豪」夏目漱石の場合も、「我が輩は猫である」と「坊っちゃん」がかなり近い位置に配置されていることがわかる。

 なるほど、結構書き手による特徴はこんないかにも雑な解析でも評価できるものなのかもしれない(あくまで「遊び」だけどね)。そして、形容詞の出現頻度などは、「雪だるまがいる景色」と「自然と生物」以外は大体同じようなものである。寺田寅彦の「自然と生物」は妙に形容詞の出現頻度が高いところが面白いところである。私の「雪だるまがいる景色」はあまり技術的な話ではなくて、確かに形容詞が多そうな話ではあるのだが、一体「自然と生物」はどうだっただろうか?

 ちなみに、「できるかな?」からの二つの文章は共にフィラーが一個も出てこない。その他の6つの文章にはフィラーが出てくるのであるが、何故か「できるかな?」の二つの文章にはフィラーが含まれていないのである。この差がなければ、寺田寅彦の二編と「できるかな?」はかなり似た場所に位置するのであるが、このフィラーは特に違うのである。

 さて、上の図ではフィラーと形容詞の出現頻度だけを眺めてみたが、読点、感動詞の出現頻度も加えて、クラスター分析を行ってみた。つまり、「読点・形容詞・フィラー・感動詞」の出現分布が似ているものを分類してみたわけである。クラスター分析にはExcelアドイン工房「早狩」の統計解析アドインを使用させて頂いた。ちなみに、クラスターの結合はウォード法を用い、非類似度計算法には標準化ユークリッド平方距離を使用した。その結果が下の図である。
 

クラスター分析の結果

 このクラスター分析の結果を示す図は近い文章をまとめていったものを示している。つまり、文章の「近さ」あるいは「似ている度」を示しているのである。ちゃろん日記(仮)の二編は本当によく似ていて、また夏目漱石の書いた二編も互いに似ている。そして、それより「近い度」は低いが「新宿駅は電気羊の夢を見るか?」は「科学について」に近くて、「雪だるまがいる景色」は「自然と生物」に近い。おして、さらに似ているものを探せば、ちゃろんの二編と「新宿駅は電気羊の夢を見るか?」・「科学について」は似ているといえなくもない、さらに言えばその四編と夏目漱石の二編が似ている。

 ここでは、四人の書き手がいるということが私には判っているので、あえて四つのクラスターに分解してみると、

1.
    • 「雪だるま」がいる景色
    • 自然と生物
    2.
    • 新宿駅は電気羊の夢を見るか?
    • 科学について
    3.
    • ちゃろん日記1998(仮)11月上旬
    • ちゃろん日記1999(仮)6月上旬
    4.
    • 我が輩は猫である
    • 坊ちゃん
という風になる。やはり夏目漱石とちゃろん日記に関してはこんなチープなごく少数の品詞解析でも、「作者の文体が同じである」と解析されてしまうのである。なかなか、スゴイとは思わないだろうか?数多くの解析をしてみるのもなかなか面白いと思う。高校生のレポートくらいだったら、これで何とか書けそうである。

 しかし、その一方で考えてみれば寺田寅彦の名随筆と「できるかな?」のヘッポコ文章が「文体が近い」と解析されてしまっているわけなので、実はこの解析の信頼性はかなり低いと言わざるを得ないところもあるのである。いや、もしかしたら「文体は同じやけど、内容が全然違いますがな」というような冷たいアドバイスを解析結果は言わんとしているのかもしれないが、もうそれは哀しすぎる事実なので考えたくないのである。

 さて、そう言えば一番最初の図で「できるかな?」と寺田寅彦の差はフィラーの出現分布だったわけであるが、「大学の講義における文科系の日本語と理科系の日本語-- 「フィラー」に注目して --」では、「聞き手への働きかけのあるフィラーが多いということは聞き手への配慮が大きいということにつながる」と書いてあった。ということは、フィラーの出現分布は聞き手への配慮に比例するというわけで、「できるかな?」の文章にフィラーが出てこない、ということは読み手に対する配慮がない、なんてことなのかなと思ってしまったりするのである。

 そんなことを考え出すと、ホラどうせひとりで書いてるだけだから読み手のことなんか考えていないのさと、思わず涙がこぼれてしまうような哀しい気持ち、になったのである。う〜む、最初は誰もが思わず涙がこぼしてしまうような素晴らしい文章を書けるようになりたいと思ったったのに、何でこんな結論になるんだろう?

 答え: それは文才がないからです。ハイ。
 
 

2001-04-15[n年前へ]

『日傘をさす女』 

立体絵画のサプリメント

 きっと、車窓からの強い日差しで日傘を連想したのだろう、

「モネの『日傘をさす女』が私の家にも飾ってあるの。だけど、何かWEBで紹介されてたものと何か違って子供もいないし、女の人の顔も何か違うんだけど」
と不意に言われた。あぁ、そうだったと思い出しながら私は
「その絵は一枚だけじゃないんですよ」
と答えた。その絵が何枚も描かれていることを前提にして、あるいは背景にして書いたような覚えも自分ではあったりしたのだが、今読み直すと書いた本人ですらそんなことは全然読みとれない。どうも、行間に隠しスギの文章である。というわけで、少し書き足してみることにした。


 少し前に、

カンバスから飛び出す「名画の世界」-作者の視点から眺めてみれば - (2001.01.21)
の時にモネの「日傘をさす女」をhirax.net Edittionとして立体化してみた。一枚の絵画を元にして、その絵の中の物体に対して距離に応じて左右の視差を意図的につくり、その際に画像の拡大縮小を組み合わせることで、情報量が足りなくなることを防ぐというhirax.net式「平面画像立体化法」である。そして、その時に作った画像が下の二枚の画像である。
 
日傘をさす女
hirax.net Edittion (交差法)

 しかし冒頭の会話の通り、モネが描いた『日傘をさす女』はこの時に使った元絵だけではない。モネは少なくともあと二枚は描いている。
 モネが一番最初に『日傘をさす女』を描いたものが前回使った『日傘をさす女』である。この時のモデルは妻のカミール・モネと息子ジーンである。ちなみに、モネがこの絵を描いたのは1875年だ。そして、その4年後の1879年に妻カミールは32歳にして亡くなっている。

 『日傘をさす女』が再び書かれるのは、カミールが亡くなってから7年後の1886年である。最初の『日傘をさす女』が描かれてから数えると、11年後のことになる。それがアリス・オシュデの娘ジュザンヌをモデルにして1886年に描かれた二枚の『日傘をさす女』だ。それからさらに6年後の1892年にモネはアリス・オシュデと再婚する。

 そのモネが描いた合わせて三つの『日傘をさす女』を下に並べてみる。
 

三枚の『日傘をさす女』
1875
1886
1886

 1875年に描かれた最初の一枚はもちろん妻カミール・モネがモデルである。そして、1886年に描かれた二枚は後に自分の娘となるジュザンヌをモデルにして描かれてはいる。確かにジュザンヌをモデルにして描かれてはいるのだけれど、それは11年前に描かれた『日傘をさす女』と瓜二つである。
 もちろん、カミール・モネとジュザンヌ・オシュデの顔は当然違うだろう。しかし、後に描かれた二枚の違うべきジュザンヌの顔の部分ははっきりとは描かれてはいない。左向きの『日傘をさす女』ではほとんど「のっぺらぼう」と言っても良いくらいだ。だから、モネはジュザンヌをモデルにしてはいるが、亡き妻カミール・モネをその向こうに思い浮かべながら描いていたとも言われる。
 

 『日傘をさす女』を立体化した「作者の視点から眺めてみれば」の時には

 両目でじっくり眺めてしまうと、いまひとつ感じられない風の感じや空気の透明感が、片目で眺めると躍動感と共にあなたの目の前に迫ってきて、カンバスの中で佇んでいる妻カミール・モネと息子ジーンが、その中から浮かび上がってくるはずだ。その時、二人の背景の青い空もより深く見え、空気の透明感も流れる風が流れる時間と共に浮かび上がってくるのである
というように書いた。そして、そんな絵をそれでも二つの目で眺めるときのために、視点からの位置的な距離を元にして左右に視差を作ることでhirax.net式「平面画像立体化法」を行ってみた。一つの視点から見た情報を適当に加工して、「異なる場所から撮った二枚の画像」を作成してみたわけである。

 ところで、「過去を見る右目と、未来を見る左目と」の時の話のように、「異なる場所から撮った二枚の画像」だけが立体画像になるわけではない。「異なる時間から眺めた二枚の画像」だって、立派な立体画像になる。時間の流れの中で何かが変化すれば、左右の目で視差を生じて、私達の目は立体感を感じるのである。ということは、例えば下のように『日傘をさす女』を二枚並べて、右目で右の絵を左目で左の絵をそれぞれ眺めた時には、私達はやはり何らかの立体感覚を感じるのではないだろうか?
 

日傘をさす女
1886
1875

 右目という一つの目で右の『日傘をさす女』を眺めるとき、私達の右目はモネが妻カミールを目の前にして描いた風景を実感することができる。そして、左目で左の『日傘をさす女』を眺めると、ジュザンヌをモデルにして筆を走らせているモネの眺めている風景を実感することができる。そんな風に眺めると、モネが眺めている同じ場所で流れていった時を両目で見ることになるわけだ。時間が流れるその時間の立体感を私達は眺めることができるわけだ。

 もちろん、この二枚の絵は構図などはほとんど同じではあるが、それでもかなりの部分が異なる。単純に立体視しようと思ってみてもなかなか左右の目から眺める映像が一致しないことだろう。だから、実際のところこの二枚の絵を立体視できる人はなかなかいないに違いない。
 

 そんな左右の目から見える状態が明らかに異なる場合、両眼視野闘争( BinocularRivalry )と呼ばれる現象が生じる。右目あるいは左目の片方からの映像が最初は意識され、それが短時間毎に入れ替わるのである。例えば、下の画像を立体視してみればそんな左右からの映像が入れ替わる様子を見ることができると思う。
 

両眼視野闘争 ( Binocular Rivalry )
 
 あまりに離れた場所から撮った立体写真や、あまりに離れた時間から映し出される立体画像では、左右の目から眺める景色があまりに違ってしまい、そんな両眼視野闘争が生じやすい。今回並べてみた二枚の『日傘をさす女』もそうなのだろう。モデルも違うし、ポーズも違う。最初のモデルのカミールはすでに亡くなっているし、11年も立てば小さな子供のジーンはもういない。
 だから、そんなに違う二枚の絵で立体視をしようとしても私達の目と頭は戸惑うだけだ。しかし、もしかしたらその戸惑いはモネが景色を眺めるときの戸惑いそのものなのではないだろうか?

 私達が上のように並べた『日傘をさす女』を眺めるとき、私達の右目(righteye)は過去にモネが見た風景を、そして左目(left eye)はその11年後にモネが眺めている風景を見ている。そして、その風景は両眼視野闘争によりちらちらと入れ替わって見える。右目が眺めるカミールの顔と、左目が眺めるのっぺらぼうのジュザンヌの顔がちらちらと交互に入れ替わる。それはモネがモデルのジュザンヌを眺めているときに、ちらちらと亡き妻カミールの顔・姿が頭の中で重なったモネの見た映像そのものなのかもしれない。

 私達が左の『日傘をさす女』を眺める左目(left eye)は「残された眼」であり、そしてまたセザンヌが言ったとおり「モネは眼」であるならば、「残された眼(lefteye)」こそは「残されたモネ」なのかもしれない。だったら、1886に描かれた『日傘をさす女』はやっぱり左目だけで眺めるのが良いのかもしれない。

2001-08-18[n年前へ]

リアルなジャバスクリプト 

 「ダウナーなネタ」と作者は言うが、アッパー系に見えてしまうぞ、と。それはともかく、面白い。(リンク

2001-10-10[n年前へ]

今日のGoogle 「わきめも」編 

Googleで「わきめも」検索をかけると、一番最初に「ホームページ開設者の出身地」というページがヒットする。でもって、「わきめも」作者は関西人と想像されている。おぉ?「できるかな? 」の作者の出身地は不明となってるぞ、と。この差はどこに?
 あぁ、そういえばまともなProfileページって作ってないもんなぁ。



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