1998-12-28[n年前へ]
■本歌取 1998
1999年の夏休み
まもなく、1999年だ。1999年というとノストラダムスも有名だが、結構好きな映画に「1999年の夏休み」というものがあった。これを振り出しにして、双六のように考えてみる。
「1999年の夏休み」
金子修介監督の映画だ。不思議な雰囲気の映画だ。原作は萩尾望都の「トーマの心臓」である。そのまた元を辿ると、同じく萩尾望都の「11月のギムナジウム」に辿り着く。つまり、萩尾望都「11月のギムナジウム」 -> 萩尾望都「トーマの心臓」 -> 岸田理生(脚本)「1999年の夏休み」となる。-> 金子修介(映画)「1999年の夏休み」
これは、ある本歌に対して、それを翻案したものが連なっているように見える。本歌取が連なった連歌に見える。だから、それぞれ単独で楽しんでもいいが、どのように変わっていったか、などを楽しむのもいい。
「1999年の夏休み」については
「AngelHouse」( http://www2s.biglobe.ne.jp/~sgsc793/index.htm )
「こどものもうそう」( http://www.asahi-net.or.jp/~IH9K-YNMT/ )
などが詳しい。
この中で、薫という登場人物が登場するが、エヴァンゲリオンに出てくるカヲルはこれに影響されているのではないか、という話が先のWEBに出ていた。底が浅いTVに興味はないが、最後の方で登場する人物の名前が「薫」というのは源氏物語の昔に溯る。それは、日本で初めての物語からの伝統なのである。源氏物語の本歌取といっても良いだろう。「薫」という名前を持つ人物を考える際には、源氏物語の「薫」の役割を意識するべきである。最後に物語の全てを背負い、繋げていく役割を背負うのは「薫」なのだ。この本歌取を意識する読み方は、記号論に通じる。
同じ「薫」が登場するミステリィというと、栗本薫の作品群があるが、特に栗本薫の「猫目石」を読む際には源氏物語の「薫」を意識しなければ意味がないと思う。また、ミステリィ作家で「薫」の名前を持つ人は多い。
- 北村 薫
- 栗本 薫
- 高村 薫
「1999年の夏休み」と同じ金子修介脚本監督の映画として、「毎日が夏休み」がある。こちらは、大島弓子が原作だ。この場合は
大島弓子「毎日が夏休み」 -> 金子修介(脚本)「毎日が夏休み」 -> 金子修介(映画)「1999年の夏休み」
となる。
次に、深津絵里繋がりで(ハル)に移る。
(ハル)
深津絵里はこの映画にも出ていた。 オープニングの雰囲気は「1999年の夏休み」に似ている。どちらも、映画の重要な要素である画像を(ある意味で)使わず、表現をしているというのがいい。登場人物も非常に少ない。表現は制限をかけてこそいいものができると思う。完全に自由な中にはなかなか良い物ものは生まれない。それは、選択肢が増えすぎると、人は良いものを見つけるのは困難だからかもしれない。この映画の内容はパソコン通信関係だ。
深津絵里の眉毛はまだ太くて良い。
HOME-TOWN EXPRESS
JR東海のCMというとクリスマスエクスプレスの印象は強いが、第二回目の牧瀬理穂の回しか覚えていない人も多い。しかし、第一回目の深津絵里が演じたHOME-TOWNEXPRESSのクリスマスバージョンが一番良かった。HOME-TOWN EXPRESSはその他にも良いものがたくさんあった。クリスマスエクスプレスになって第二回目の牧瀬理穂の回は、「最後にプレゼントを持って柱の後ろで恋人を待ち、その向うに恋人がいる」ところなど、第一回目の回に対する返歌にも見える。JR東海とくると、萩尾望都関連で「半神」の夢の遊眠社のステージをCMに使っていたものもあった。これなども連歌であり、本歌取の繋がったものである。
ブラッドベリ「霧笛」 -> 萩尾望都「霧笛」 + 萩尾望都「半神」 -> 野田秀樹「半神」 -> JR東海「もっと私 CM」
となる。
HOME-TOWN EXPRESS 1988 帰ってくるはずの恋人がホームに降りてこない。と、思うと柱の向うからプレゼントを持った恋人が現れる。 | 「そんな音をつくってやろう...」 |
最近、NODA MAPの「半神」に深津絵里が出る、と聞いた。これで、深津絵里を狂言回しとして、物語は一周したことになる。
そういえば、深津絵里は「虚無への供物」のTVドラマにも出ていた。あのTVを見た人に、原作の「虚無への供物」の面白さがわかるだろうか...
虚無への供物といえば、連歌はこうなる。
中井英夫「虚無への供物」 -> 竹本健二「匣の中の失楽」
というわけで、「匣の中の失楽」を読む前には「虚無への供物」を読まなければならない。「虚無への供物」の中の「どちらが現実で、どちらが架空の世界なのか、誰がわかる?」という訴えを、そのまま展開したのが「匣の中の失楽」である。「匣の中の失楽」に連なるミステリィ物もあるようだが、問題外としておく。
ここ2,3年は、まるで「虚無への供物」の舞台のような年であったように思う。何が現実で何が架空なのか。
1999-11-28[n年前へ]
■奇説・シェイクスピア=北斗神拳説
ケンシロウ進数とベーコンの関係
「ケンシロウ進数」というものがある。「北斗の拳」で有名な「ケンシロウ」の「あたっ、あたたたたっ」という叫びが実は「2進数」と考えることができるのではないか、と提唱しているものである。「イチ、ゼロ、ゼロ、ゼロ、ゼロッ」という長い言葉が、「あたたたたっ」ですんでいるのだ(1=あ、0=た)、という「ケンシロウ進数=情報圧縮説」である。
なるほど、暴力が支配する世界では一瞬の勝負が生死を分ける。瞬時に情報を伝えることは、必要不可欠といって良いだろう。目からウロコである。
この考えをさらに進めて、「ケンシロウ」のような武闘派の人々は実は互いに「認証」を行っている、と考える「ケンシロウ進数=認証方式」説も提唱されるに至っている。
確かに、戦いの場において認証を行うというのは実に素直な考え方である。敵か味方かを瞬時に見極めなければならない戦場において、認証は命の支えと言っても良いだろう。力が支配する世界では、「敵か味方か」という命題は非常に重要となるのだ。
ところが、未だ「ケンシロウ進数」により一体何が表現されているのか、に関しては誰も言及していない。 「ケンシロウ」は果たして数字を早く表現するためだけに、「ケンシロウ進数」を生み出したのであろうか? 戦場で、数字を何故早く伝える必要があるのだ? 別に暗算選手権をしているわけではないのだ。TVチャンピオンとは違うのである。
あるいは、「あたた」が認証だとしても、その認証においてどのような内容が込められているのだろうか? 無意味な言葉では認証は実現できない。 必ず、何らかの意味が込められているはずである。
一体、「ケンシロウ進数」には、何が表現されているのだろうか? まったくわからない。これでは、「ケンシロウ進数」とは暗号のようである。何なのだ? 北斗神拳とは一体何を伝えようとしているのだ?
そう、「ケンシロウ進数」は暗号なのである。実は、そこに謎を解く鍵がある。「ケンシロウ進数」が暗号である、という仮定に基づくと、面白い想像ができるのである。まずは、「ケンシロウ進数」が二進数に基づくという事実から、二進数に基づいた暗号系を探してみるのだ。そこに、北斗神拳の謎は隠されているハズである。
暗号の歴史を振り返ると、その条件に大いに当てはまるものがある。それは、フランシス・ベーコン(FrancisBacon 1561-1626 英国の哲学・法学・文学者)が「学問の進歩」において提唱した2記号(バイリテラル)暗号である。
ベーコンは著作「学問の進歩」の中では、「二値のデータが五個あれば、暗号を作成できる」と喝破している。現代風に言い換えれば、「5bitあれば、32個までの文字列を表現できる。すなわち、30文字弱の英文字は表現できる」と言っているのである。ベーコンが持つ先見性には素晴らしいものがある。
そして、これをさらに言い換えれば、
- あ
- た
それを念頭においてみると、
「知は力」というベーコンの言葉は、北斗神拳のケンシロウの哲学と非常に近い何かを感じるのではないだろうか?そうなのだ、ケンシロウが継ぐ北斗神拳はフランシス・ベーコンが築き上げたものなのだ。
「自然は服従されることによってでなくては支配されない」
そうであるならば、北斗神拳は二値記号暗号を用いて何を表現しようとしているのだ? ケンシロウに何を伝えさせようとしているのだ?フランシス・ベーコンは何を暗号化しようとしたのだ?
その解明のためには二値記号暗号を考えたフランシス・ベーコンについて調べるのが妥当であろう。
ならば、北斗神拳が伝えようとしていることは、フランシス・ベーコンを調べることにより解明できるのではないだろうか?
エリザベス・ギャラップの「フランシス・ベーコンの二値記号暗号」では、シェークスピアの「第一・二折本」の二種のイタリック体を二値記号と解釈することで、「ウィリアム・シェークスピア=フランシス・ベーコン説」を提唱している。これだけでなく、イグナチウス・ドネリーの「偉大なる暗号・いわゆるシェイクスピア劇に秘めたフランシス・ベーコンの暗号」など、古来から「ウィリアム・シェークスピア=フランシス・ベーコン説」というのは広く伝えられている。
(第一・二折本表紙) |
私はこれらの説を統合し、「シェークスピア=北斗神拳説」を提唱したいのだ。現代まで演劇のバイブルでもあるシェークスピア作品はフランシス・ベーコンが書いたものであり、ベーコンは実は北斗神拳の祖でもある、という考えである。北斗神拳が伝える「あたたた」が伝えようとしているもの、それは未公表のシェークスピア作品に違いない。
振り返ると、本hirax.netにもシェークスピアは登場している。例えば、Scraps
合掌 - キレイはキタナイ、キタナイはキレイ- (1999.08.01)の「キレイはキタナイ、キタナイはキレイ」である。これはシェークスピアの「マクベス」の冒頭の三人の魔女の台詞である。「良いは悪い。悪いは良い。」「正しいことは、間違っている。間違っていることは、正しい。」という奴だ。
私は気づかないうちに、
フランシス・ベーコン -> ウィリアム・シェークスピア -> 北斗神拳 -> ケンシロウ
という流れを受け継いでいたのかもしれないのだ。一子相伝の北斗神拳はフランシス・ベーコンに始まり、ケンシロウなどを通して、私にまで至っていたのかもしれない。
私はその事実解明をさらに進める予定である。まずは、そのために、「マンガ喫茶」に明日一日こもる予定である。「北斗の拳」全27巻を読み通すのだ。そして、文体解析、文脈解析、ありとあらゆる手段を用いて「シェークスピア=北斗神拳説」の証拠をデッチアゲル、いや、もとい探し出すつもりだ。あの数多い言葉、「あたたた」「ひでぶ」「あべし」などの言葉の中に潜む、シェークスピアの意図を見つけだしたいと思う。実は、私はすでに「あべし=abc」という鍵も握っているのである。必ずや...
2000-06-24[n年前へ]
■「色っぽい声」の秘密
キャバクラ嬢は英語が上手い!?
以前、
で私は鈴が鳴るような綺麗な声がとても好きなのである。いつか、そういう声の秘密について調べてみたい、と思う。と書いた。今回は「男を惑わす魔性の声」について考えてみたい。
「男を惑わす魔性の声」といっても色々ある。私の場合、「鈴が鳴るような声」も好きだし、森本レオの声も大好きである。両極端であるが、本当なのだからしょうがない。それは他の人も同じで、その人ごとに好きな声と言うのは違うはずだ。などと言い出すと、どんな声が「魔性の声」なのかわからなくなる。そこで、「魔性の声」を出すプロに注目してみよう。「男を惑わすプロ」の出す声に注目してみるわけだ。
「男を惑わすプロ」と言えば、例えばキャバクラそれともキャバレー?(どちらも、残念ながら行ったことないけど)で男性を手玉にとるキャバクラ嬢ははずせないだろう。彼女らの声はまさに「魔性の声」としか、言いようがない(行ったことないから、想像で書いてるけど)。例えば、
「あァ〜ン、もう社長さんたらァ。」の「ァ〜」の部分なんて、どうだ。これぞ、まさに「男を惑わす魔性の声」だという気がしないだろうか。この声に惑わされて、路頭に迷った彷徨える(エロ)子羊達の数は数え切れないはずである(多分)。今回はこの「色っぽい声」の秘密に迫ってみようと思う。
↑ココ
さて、、まずはデータ収集が必要である。何より一番良いのは本物のデータを手に入れることである。すなわち、夜のキャバクラへ出撃するのが一番良いわけだ。私も「データの精度」にこだわる意味でも、ぜひそうしてみたい。使命感すらあると言ってもいいくらいである。しかし、残念ながら諸事情がそれを許さないのである。
そこで、infoseekで「色っぽい声」で検索をかけて見つかった高等遊民氏のVOICE.WAVを使ってみることにした。聞いてみればわかると思うが、この色っぽい声は先の「ァ〜」と同じような種類の声なのである。
今回はこの声に注目してみることにしよう。次に示すのが、高等遊民氏の「色っぽい声」中で解析を行った部分である。
その部分を拡大してみると次のような音声波形である。この音声波形に「色っぽい声」の秘密が隠されているのである。
さて、この音声波形に不思議なところはあるだろうか?「色っぽい声」の秘密の鍵となるところはないだろうか?そう考えながら、この音声波形を眺めていると不思議なことに気づいた。
果たして、これは「あ」と言って良いのだろうか?これが「あ」であるという思い込みを私はしていたのではないだろうか?今回、一番最初に
例えば、次に私の声で「あ、え、お」を示してみよう。上の魔性の声「あァ〜」は下の波形で言えば、むしろ「お」とか「え」に近いのがわかるはずだ。
え お |
もちろん、別人の声であるから音声波形が異なるのは当たり前だろう。そこで、フォルマントを調べてみることにした。それが下のグラフである。赤丸部分が「あァ〜ン」の秘密を解くポジションである。「あァ〜ン」のフォルマントと日本語の母音がどういう位置にあるかを表示したものである。
何と、そもそも日本語にはこの「色っぽい声 = 魔性の声」「あァ〜ン」を示すべき音がないのである。日本語にとってこの「色っぽい声= 魔性の声」は未知の音なのである。
考えてみれば、それはそうかもしれない。人間誰しもよくわからないものには「恐れ」と同時に「好奇心」を刺激される。例えば、異性というよくわからないものに惹かれる気持ちだってその一例だろう。だから、少なくとも日本人にとっての未知の音であるものが「色っぽい声= 魔性の声」に感じられるようになったのは、ある意味当然と言えるのではないだろうか?
「男を惑わすプロ」であるキャバクラ嬢が日本語の音の領域図を知った上で、この「色っぽい声= 魔性の声」「あァ〜ン」を発しているとは私も考えないが、少なくとも日本語の音の分布からすれば、「まさに男を惑わすツボを抑えている」ことがわかる。恐るべし、キャバクラ嬢である。
日本語の母音だけではなんなので、英語の母音の領域も参考までにこれに重ねてみよう。それが下の図である。
なんと、英語ではこの領域は「未体験ゾーン」ではないのである。「色っぽい声= 魔性の声」「あァ〜ン」の音は発音記号で言うとVの上下がひっくり返ったやつの領域に重なってしまうのだ。英語圏の人にとってはこの「あァ〜ン」は未体験の音ではないのである。私は英語の発音は涙が出るほど、上手くできないのであるが、もしかしたら「魔性の女性」達にとってはいともたやすくその発音ができるのかもしれない。
ところで、先程の「知らない音 = 魔性の声」理論からすれば、英語圏の人にとってはこの「あァ〜ン」はそれほど「色っぽい声」ではないということになりそうだが、残念なことに私は生粋の日本人なのでそれを確かめることはできない。それに調べたら、きっとこの「知らない音 = 魔性の声」理論は崩壊してしまうだろう。
さて、最後に色っぽそうな音を数学的に合成してみた。
あなたの感性が豊かであるか、想像力が豊かであれば、このいかにも人工的な音の中のにも「色っぽい声= 魔性の声」「あァ〜ン」のエッセンスが感じられ、心惹かれるはずである。今回は簡単にやっただけなので、この音の内容については詳しく説明はしない。次回(いつものごとく何時になるかは全然わからないが)、
- Mathematicaで「あァ〜ン」- 色っぽい声を合成しよう - (仮題)
2001-02-19[n年前へ]
■ひとりで書いてるだけだから。
ヘッポコ文章を直したい
面白い情報を探しにと「お笑いパソコン日誌」を眺めていると、「ウエヤマの事件簿」の「他人の日記をオモチャにしよう!」が紹介されていた。「お笑いパソコン日誌」に〜『できるかな?』風ネタであります〜と紹介されてあった通り、実に私好みの話だった。ウエヤマ氏が「自分で書いてる日記の文章」を解析して、文字の出現頻度を調べてみたものである。
「できるかな?」は画像や科学の関連の話が多いように見える。しかし、実はそれだけではなくて文章や日記に関する話も多い。例えば、これまでに出てきた話を振り返ってみると、
に始まり、- 失楽園殺人事件の犯人を探せ- 文章構造可視化ソフトのバグを取れ - (1999.07.22)
- 「こころ」の中の「どうして?」-漱石の中の謎とその終焉 - (1999.09.10)
- 「星の王子さま」の秘密 - 水が意味するもの- (1999.11.15)
- 恋の力学 三角関係編 - 恋の三体問題- (1999.12.27)
- 恋の力学 恋の相関分析編- 「明暗」の登場人物達の行方 - (2000.04.01)
- 恋の力学 恋のグラフ配置編- 「明暗」の収束を見てみよう - (2000.04.02)
- WEBの世界の「力の法則」-「ReadMe!JAPAN」と「日記猿人」に見るWEBアクセス数分布 - (1999.12.04)
- WEBサイトの絆 - WEBの世界を可視化しよう- (2000.01.13)
そういったhirax.netの特長ならぬ特徴は私が書く文章が下手なせいなわけで、そんなヘッポコ文章から脱出するべく、私の書く文章の特徴を調べて反省してみることにした。もちろん、自分のヘッポコ文章だけを眺めてみてもしょうがない。他の素晴らしい文章を書く書き手と比較しなければならないだろう。そこで、今回はいくつかの文章を品詞解析し、その結果の特徴を調べることにする。そして、書き手による文章の特徴が眺めながら、私のヘッポコ文章の欠点を調べ、さらには誰もが思わず涙がこぼしてしまうような素晴らしい文章を書けるようになりたい、と思うのである。
さて、まずは目標を決めよう。私がヘッポコ文章を脱出してどんな文章を目指すかを、何より先に決めなくてはならない。となれば、あまりにも大それた目標ではあるのだが、やはり日本の文豪、夏目漱石は外せないだろう。そして、その教え子でもある寺田寅彦もやはり外すわけにはいかない。一応私も理系のはしくれ、日本の理系文章の流れを作ったこの二人を目標にしなくてなんとしよう。ヘッポコ文章を脱出していきなり、夏目漱石と寺田寅彦というところに無理があるが、そんなことを考えていては駄目なのである。「少年よ大志を抱け」とクラーク博士も言ったのである。もう少年と言うにはどう考えても年齢的に無理があるのだが、気持ちはまだまだ少年で目標は大きく持ってみたいと思うのである。
そして、もう一人の目標は「ちゃろん日記(仮)」をマイペースに書き続ける「ななゑ」さんである。私は彼女の書く文章を読むたびにとても素晴らしい理系的センスが感じ続けているのである。しかも、理系的でありつつも笑いと涙のペーソスたっぷりの「ちゃろん文体」という独自の確固とした文体を築いているところも尊敬していたりするのである。
というわけで、今回の文章の比較は
- 夏目漱石
- 寺田寅彦
- ちゃろん日記(仮) ななゑ
- 「できるかな?」 jun hirabayashi
- 夏目漱石
- 我が輩は猫である
- 坊ちゃん
- 寺田寅彦
- 科学について
- 自然と生物
- ちゃろん日記(仮)
- 1998(仮)11月上旬
- 1999(仮)6月上旬
- 「できるかな?」
ところで、形態素解析とはどのようなものだろうか。まずは、例を挙げよう。例えば、
私が好きな書き手達は、夏目漱石、寺田寅彦、ななゑさんです。という文章を茶筌で分解すると、
- 私 名詞-代名詞-一般
- が 助詞-格助詞-一般
- 好き 名詞-形容動詞語幹
- な 助動詞
- 書き手 名詞-一般
- 達 名詞-接尾-一般
- は 助詞-係助詞
- 、 記号-読点
- 夏目 名詞-固有名詞-人名-姓
- 漱石 名詞-固有名詞-人名-名
- 、 記号-読点
- 寺田 名詞-固有名詞-人名-姓
- 寅彦 名詞-固有名詞-人名-名
- 、 記号-読点
- ななゑ 名詞-固有名詞-人名-名
- さん 名詞-接尾-人名
- です 助動詞
- 。 記号-句点
- 読点
- 形容詞
- フィラー
- 感動詞
結構、同じ書き手による文章が同じような位置に配置されることがわかると思う。ちゃろん日記(仮)などは、二つの独立した文章がほとんど同じ位置に配置されている。もう、ちゃろん文体は安定しまくっていて完成されているのである。そしてまた、「文豪」夏目漱石の場合も、「我が輩は猫である」と「坊っちゃん」がかなり近い位置に配置されていることがわかる。
なるほど、結構書き手による特徴はこんないかにも雑な解析でも評価できるものなのかもしれない(あくまで「遊び」だけどね)。そして、形容詞の出現頻度などは、「雪だるまがいる景色」と「自然と生物」以外は大体同じようなものである。寺田寅彦の「自然と生物」は妙に形容詞の出現頻度が高いところが面白いところである。私の「雪だるまがいる景色」はあまり技術的な話ではなくて、確かに形容詞が多そうな話ではあるのだが、一体「自然と生物」はどうだっただろうか?
ちなみに、「できるかな?」からの二つの文章は共にフィラーが一個も出てこない。その他の6つの文章にはフィラーが出てくるのであるが、何故か「できるかな?」の二つの文章にはフィラーが含まれていないのである。この差がなければ、寺田寅彦の二編と「できるかな?」はかなり似た場所に位置するのであるが、このフィラーは特に違うのである。
さて、上の図ではフィラーと形容詞の出現頻度だけを眺めてみたが、読点、感動詞の出現頻度も加えて、クラスター分析を行ってみた。つまり、「読点・形容詞・フィラー・感動詞」の出現分布が似ているものを分類してみたわけである。クラスター分析にはExcelアドイン工房「早狩」の統計解析アドインを使用させて頂いた。ちなみに、クラスターの結合はウォード法を用い、非類似度計算法には標準化ユークリッド平方距離を使用した。その結果が下の図である。
このクラスター分析の結果を示す図は近い文章をまとめていったものを示している。つまり、文章の「近さ」あるいは「似ている度」を示しているのである。ちゃろん日記(仮)の二編は本当によく似ていて、また夏目漱石の書いた二編も互いに似ている。そして、それより「近い度」は低いが「新宿駅は電気羊の夢を見るか?」は「科学について」に近くて、「雪だるまがいる景色」は「自然と生物」に近い。おして、さらに似ているものを探せば、ちゃろんの二編と「新宿駅は電気羊の夢を見るか?」・「科学について」は似ているといえなくもない、さらに言えばその四編と夏目漱石の二編が似ている。
ここでは、四人の書き手がいるということが私には判っているので、あえて四つのクラスターに分解してみると、
1.
- 「雪だるま」がいる景色
- 自然と生物
- 新宿駅は電気羊の夢を見るか?
- 科学について
- ちゃろん日記1998(仮)11月上旬
- ちゃろん日記1999(仮)6月上旬
- 我が輩は猫である
- 坊ちゃん
しかし、その一方で考えてみれば寺田寅彦の名随筆と「できるかな?」のヘッポコ文章が「文体が近い」と解析されてしまっているわけなので、実はこの解析の信頼性はかなり低いと言わざるを得ないところもあるのである。いや、もしかしたら「文体は同じやけど、内容が全然違いますがな」というような冷たいアドバイスを解析結果は言わんとしているのかもしれないが、もうそれは哀しすぎる事実なので考えたくないのである。
さて、そう言えば一番最初の図で「できるかな?」と寺田寅彦の差はフィラーの出現分布だったわけであるが、「大学の講義における文科系の日本語と理科系の日本語-- 「フィラー」に注目して --」では、「聞き手への働きかけのあるフィラーが多いということは聞き手への配慮が大きいということにつながる」と書いてあった。ということは、フィラーの出現分布は聞き手への配慮に比例するというわけで、「できるかな?」の文章にフィラーが出てこない、ということは読み手に対する配慮がない、なんてことなのかなと思ってしまったりするのである。
そんなことを考え出すと、ホラどうせひとりで書いてるだけだから読み手のことなんか考えていないのさと、思わず涙がこぼれてしまうような哀しい気持ち、になったのである。う〜む、最初は誰もが思わず涙がこぼしてしまうような素晴らしい文章を書けるようになりたいと思ったったのに、何でこんな結論になるんだろう?
答え: それは文才がないからです。ハイ。
2001-04-07[n年前へ]
■電子メールは手紙か会話か
「>などの記号を付けて自分の分を引用されるのが、つっかえされたようで不愉快という意見が多い」 ふ〜ん、私の感覚とはずいぶん違うな、と。私の場合だと、自分の言葉あるいは相手の言葉のどこを聞いているのかが判ってとても良いのだけれど。逆に、相手の自分に対する反応が判らないと、とてもやりづらいじゃないの。何に付けても、ねぇ。
ってことは、私の思う電子メールは会話に近いのかな?私の書くメールは、全然会話調ではないと思うのだけれど。 from 朝日新聞 お作法不作法 田代温