2000-04-09[n年前へ]
■心に浮かぶハートマーク
色覚の時空間特性で遊んでみよう
4月である。「四月物語」の4月である。
で書いたように、私は4月だけは英語の勉強をしたくなるのである(何故なら、全然できないから)。そこで、ここのところ英語の先生のところに足繁く出向いている。その時に、信号機の例題を出されて「青信号」と言おうとして私は"ablue light"と言ってしまった。すると、「青信号は"green"だ -> The run signalis green.」と言われてしまった。しまった、確かにその通りだ。いや、英語でそう表現することに納得という話ではない。英語ではこうだと言われたら、私はそのまま頷くのみである。"Yes,sir"状態である。納得したのは、信号機の「現実の」色の話だ。そう言えば、日本でも信号機は「緑色」だった。試しに、信号機の一例を次に示してみる。実は人にそう優しくないユーザーインターフェースの一例 |
本当は「緑色」なのに、「何故、青信号と言われていたのだっけ?」と考えながら、帰り道に交差点、「緑」信号をじっと見ていた。すると、「緑」信号は消えて、黄信号になった。しかし、私の目にはその瞬間「赤」信号が見えたのである。
私は夢を見ていたわけでも、予知能力があるわけでもむろんなくて、それは単なる錯覚である。「緑」信号が消えた瞬間に「赤」信号が見える、という錯覚である。
私が見た「赤」信号機の錯覚を実感してもらうために、こんなアニメーションGIFを作ってみた。ソフトをレジストしてないが故の、SGという文字は気にしないでもらいたい。下の画像中央にある黒い点を見つめていて欲しい。すると、緑のハートマークが消えた瞬間から、赤いハートマークがおぼろげに見えるはずである。
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これは、色覚の時間特性による錯覚の一つである。実際に、赤いハートマークがあるわけではない。私の心の中にだけ、浮かぶハートマークである。
その原因となる色覚の時間特性を示すグラフを以下に挙げる。これは色覚の時間特性を示すグラフの例である。色覚のインパルス応答のようなものである。ある色を見た後には、その色の反対色を感じるということを示している。
このような錯覚というのはとて興味深いものである。視覚という「デバイスの特性」が「目に見えて実感できる」ことが特に面白い。以前、
- 分数階微分に基づく画像特性を考えてみたい-同じ年齢でも大違い-(1999.02.28)
- コピー機と微分演算子-電子写真プロセスを分数階微分で解いてみよう-(1999.06.10)
- ゼロックス写真とセンチメンタルな写真- コピー機による画像表現について考える - (99.06.06)
さて、先の錯覚は色覚の時間特性によるものだった。それと全く同じような錯覚が、色覚の空間特性から得ることができる。そのような錯覚の一つにこのようなものである。それを下に示してみる。
この有名な画像パターンを見れば、「白い線の交差部が赤く見える」はずだ。
これは、色覚の空間特性によるものである。これを示すグラフの例を以下に示す。この場合もやはり色覚の時間特性のように、ある刺激があるとその周囲に反対の色の影響が表れる。例えば、周りに白が多いと、その部分は黒っぽく見える。赤色の周りは緑がかって見えるのである。逆に緑色のものの周りは赤く見えるのだ。
そして、それをさらに進めると、周囲に赤色が少ない場所は、周りに比べて赤く見えるのである。上の画像で言えば、白の交差部は、赤の刺激が少ないので、赤の刺激を逆に感じるのである(ちょっと説明をはしょりすぎかな)。
今回は、このような色覚の空間特性をシミュレートしてみたい。道具は単純にPhotoshopだ。もう手作業でやってみるのだ。ネコの色覚で遊んだ
の時と同じである。これがオリジナル画像。黒背景に白い線で格子模様が描かれている。 | |
白い(つまり光刺激が多い領域)からの影響を考える。先に示したグラフのように、光刺激がある箇所と少し離れたところではそれと逆の刺激を受けたような効果がある。 そこで、まずは白い部分からの影響をガウス形状のボカシにより、真似してみる。ある画素から少し離れた所に影響が及ぶのをシミュレートするのである。 | |
白い部分からの影響(実際には、比較問題となるので黒い部分からの影響と言っても良いだろうか?)は「白と逆の方向、すなわち黒い方向」に働く。 そこで、上の画像を階調反転させる。すなわち、ある画素から少し離れた所に元の明るさと逆の影響が及ぶことをシミュレートするのである。そしてさらに、階調のカーブを鋭くしてやる。 | |
上で計算したものとオリジナルの画像を加算してやる。これが、人間が感じる画像をシミュレートしたものである。 白い格子の交差点部が黒く見えているのがわかると思う。といっても、もともとその部分は黒く見えていたとは思うが。 下に、シミュレート画像とオリジナル画像を並べてみる。 | |
このようにして、オリジナル画像を見たときに感じる錯覚をシミュレートできたことになる(もどきだけど)。
さて、上では簡単のためにグレイスケールで遊んでみたが、最初に示した赤白の場合のようなカラーの例を示してみる。次に示す四角形の中央部は、右と左ではいずれも右の方が赤っぽく見えるはずである。緑に囲まれた領域は、本来の色に対して、緑と逆の赤色に見えるのである。上に示した白黒格子と全く同じ理屈である。
さて、この右下の画像中の赤は通常の「赤」よりもさらに鮮やかな「赤」を実現していることになる。左下のものと同じ赤100%の色であるが、左よりももっと鮮やかに見えている筈だ。右下と比べると、左下の赤は落ち着いた赤色に見えてしまうのではないだろうか?
この右下の赤、すなわち緑に囲まれた赤は、物理的にCRTあるいは液晶(今あなたがこのWEBページを見ているデバイス)などの表現可能領域を越えた、さらに鮮やかな赤色に見えているわけだ。ヒトの視覚のデバイス特性が故に鮮やかに見えることになる。
さて、鮮やかな「赤」と言えば、「ポケモンチェック」によれば、日本民間放送連盟のガイドラインには
- 映像や光の点滅は、原則として1秒間に3回を超える使用を避けるとともに、次の点に留意する。
- 「鮮やかな赤色」の点滅は慎重に扱う。
- 前項1の条件を満たした上で1秒間に3回を超える点滅が必要なときには、5回を限度とし、かつ、画面の輝度変化を20パーセント以下に押さえる。加えて、2秒を超える使用は行わない。
- コントラストの強い画面の反転や、画面の輝度変化が20パーセントを超える急激な場面転換は、原則として1秒間に3回を超えて使用しない。
- 規則的なパターン模様(縞模様、渦巻き模様、同心円模様など)が、画面の大部分を占めることも避ける。
しかし、その「赤」と「緑」パターンが細かくなると、何故だか不快なのだ。色覚の時空間特性を考えると、「赤」と「緑」の細かいパターンというのは、もしかしたら読む際に刺激が強すぎるのではないか、と想像してみたりする。根拠はたいしてないのだけれど。
2000-04-21[n年前へ]
■オレにはヤツらが見える
スギの花粉は「見える?見えない?」
少し前まで、スギ花粉が飛びまくっていた。スギ花粉症の人にとっては、とても苦しい季節だろう。私の家族も結構スギ花粉症にかかっている。ということは、私もいつか苦しむことになるのだろう。いや、むしろブタ草を主因とする小児喘息で酸素吸入を繰り返した私であるから、まだかかっていないのが不思議なくらいである。
さて、私の勤務先でもスギ花粉で憂鬱になっている人は多い。ヒドイ(もちろん症状が)人などは、この季節になると、
「今日はスギ花粉がいっぱい飛んでいる。」と囁き始めるのである。毎日、である。そういう時に
「オレにはヤツらが見える。」
「ヤツらがオレに襲いかかってくるんだ。」
「誰かがオレの頭に電波を飛ばしてくる、という話に似ていますね。」などとチャチャを入れると大変である。
「スギ花粉症にかかっていないやつに何がわかる!」と言われてしまうのである。いや、確かに私には見えないのだ。ピンクの象が飛んでいるのが見えないように、スギの花粉も私には見えないのである。
「オマエら、スギ花粉症にかかっていないものに、所詮ヤツらは見えないんだ!」
「ほら、あそこにスギ花粉が見えるだろう」と指さす辺りを眺めても、私には何も見えない。ただ、ボンヤリした霞が見えるだけである。仕方がないので、そんな時には、なおさら
「普通の人には見えないところなんか、ホント電波と同じですね。」と言ってみたくなる。いや、私の性格からするともしかしたら言っているかもしれない。うん、言っているだろう。それどころか、
「その花粉を飛ばしてくるのは、宇宙人かナニかですか?」と、火に油を注ぐようなことを言っているに違いない。しかし、その性格は親譲りだ(坊ちゃんじゃないけれど)。
それはさておき、
「オマエら、スギ花粉症にかかっていないものに、所詮ヤツらは見えないんだ!」と言われているだけではくやしいので、私もスギ花粉を見てみたいと思う。当然である。あらゆるものを「目に見えるかたち」にするのが私の好みである。というわけで、可視化シリーズの始まりである。いや、可視化という言葉はどうも小難しく感じるので、名前を改めて「見える?見えない?」シリーズの続きである。これまで、漱石の小説、星の王子さまの内側、透け透け水着、ミニスカートの内側…などさまざまなものを「目に見えるかたち」にしてきたが、その続きというわけだ。
今回登場する、秘密道具はコイツである。
この道具は、チンダル現象を利用して微粒子を可視化してくれるのだ。というと、小難しく聞こえるかもしれないが、とても簡単な原理である。光を微粒子に当ててその反射光を目で見るだけである。もちろん、微かな反射光を捉えるわけであるから、
- 微粒子からの反射光以外は目に見えないようにする
- ボケを小さくするために、絞りはできるかぎり小さくする
さて、それではコイツでスギ花粉(らしきもの)を見てみよう。暗闇に浮かぶ「スギ花粉(らしきもの)」が見えるのだ。
こういった感じでスギ花粉(らしきもの)を可視化することができる。といっても、この微粒子がスギ花粉である保証は「全く」ないのであるが、あえて「スギ花粉(らしきもの)」としておくことにする。ちなみに、この画像もスギ花粉の最盛期に撮影したものである。とりあえず、こうすればスギ花粉症のあなたの敵、すなわちヤツらを目にすることができるのだ。敵であるターゲットの姿を知らずして戦うことはできないだろうから、スギ花粉症のあなたにはこの実験をすることを強く勧めたい。この画像はデジカメで撮影したのだが、実際に人間の目で見ると、ものすごい数の微粒子が飛び回っているのがわかる。今回見えた画像がスギ花粉かどうかはさておき、こういった微粒子は部屋の中ではほとんど見られない。しかし、戸外ではかなりの数の微粒子を目にすることができる。
もう一枚、参考までに示しておく。微粒子が動き回る様子が実感できるはずだ。こういう微粒子があなたの鼻や喉の粘膜に襲いかかってきているのだ。
これらの飛び回る「スギ花粉(らしきもの)」を撮影したmpeg動画(115kB)をここにおいておく。スギ花粉症の人はぜひ敵であるヤツらを自分の目で確認して頂きたい。
さて、「可視化」シリーズ、改め、「見える?見えない?」シリーズはこれからも続く。ありとあらゆるものの「見える?見えない?」境界線を追求したい。どんなにクダラナイものであっても、あらゆるものを「目に見える」ようにしていきたいと思うのである。
2000-04-22[n年前へ]
■怪しいレーダー・マン
コウモリの発する音を聴け
最近、帰りが遅い日が続いていた。しかし、今日は7時過ぎには家へ帰ってきた。4月も中程になると、この時間でも薄暗いほどに、日が長くなってきた。さて、駐車場で車を止めて空を眺めていると、蝶々のようなものがさかんに近所を飛び回っている。あれ、もう蝶々が飛び回る季節だったかな、それにこんな時間に蝶々って飛び回るのかな、それともこいつらは蛾かな、などとボンヤリ考えながら眺めていた。すると、それは蝶々でも蛾でもなく、コウモリだと教えられた。
それを聞いた瞬間、当然私は家の中に駆け込み、そして秘密道具を手にして戻ってきた。もちろん、その秘密道具とはこれである。
の時に手に入れた超音波の音波を可聴域に変換する「バットディテクター」である。こいつを使えば、コウモリが発する超音波を自分の耳で聞くことができる。イヤホンを耳に差し、コウモリに超音波マイクを向けると、聞こえる聞こえる。コウモリの発する超音波が聞こえる。「コッコッコッコッ…」というような音が聞こえるのである。
「コッコッコッコッ…」という音がどんどん大きくなってくるとき、すなわちコウモリが近づいてくる時は恐怖すら感じる。外が暗くてよく見えないために、なおさら怖いのである。目の前にいきなりコウモリが突然現れたらどうしようかと思うと、トイレへ走り込みたくなる。
さて、録音してみたコウモリの声をここにおいておく。とりあえずは、WAVファイルとMP3ファイルである。
この声を可視化してみたものが次の画面である。音声波形とスペクトログラムである。パルス上の「コッコッコッコッ…」という音が連続的に繰り返されているのがわかる。さて、コウモリの発する音を録音している内に真っ暗になってしまった。しかし、一応コウモリの写真も撮影しておきたい。
普通であれば、真っ暗な中で被写体(コウモリ)がどこにいるかわからないのであるから、撮影は結構難しいだろう。しかし、私には「バットディテクター」がある。耳にイヤホンを差し、超音波マイクを空に向ければ、例え真っ暗でもコウモリがどこを飛んでいるかはわかるのだ。超音波によるレーダーが私の味方なのである。カッコイイ言い方をすれば、私は超能力を持つレーダー・マンなのである(あまり格好良くない気もするが…)。
そういうわけで、「バットディテクター」を頼りに「真っ暗な中を飛び回るコウモリ」をデジカメで撮影してみた。残念ながらピントがなかなか合わないのが難点であるが、とりあえず撮影してみた。それが、次の写真である。
この写真を撮るために、私は真っ暗な中でデジカメのシャッターを押しまくった。当然、真っ暗闇の中でフラッシュだけが光り続けたわけである。考えてみれば、怪しさバツグンである。耳にイヤホンをつけて、変な器具(実は「バットディテクター」)を空に向けて、延々とフラッシュを光らせまくるヤツ、それが私である。これを見た誰かが警察に通報するのではないかと、と真剣に心配になった程である。いや、もちろんパトカーがもし来たとしても、その音も素早くキャッチできるハズである。しかし、自宅の前では逃げようがない。
作業が終了した今は、ただ、近所で悪い評判がたたないことをただ祈るのみである。
2000-09-09[n年前へ]
■帰ってきた「電子ブロック」
動け僕らのスーパーマシン
某サイトの中枢である某秘密研究室の撮影写真が下の写真である。日夜、色んな道具で遊んだり、無意味な?実験・解析・考察している某サイトの中枢がこの部屋である。といっても、実際にはこの部屋にはそんなに入っていないらしい(だからそれほどちらかっていない)のであるが、それはこの際関係ない。とりあえず、この写真を見ると、部屋の片隅にとある科学おもちゃが積み重なっていることがわかるだろう。もちろん、判る人ならすぐ判るはずの「学研の電子ブロック」が積み重なっているのである。
前回、電子ブロックで遊んだ
の時には、Ex-60とEx-100しか持っていなかったのだが、文字通り「人間的に大きなオーパ氏」にEx-150を頂くことができたおかげで、今では三機種が私の部屋に鎮座しているのである。 知らない人のために電子ブロックの説明をしておくと、電子ブロックというのは学研が出していた科学おもちゃで、電子回路を簡単に作って遊べるものである。今で言うところのブレッドボード上で電子回路を組み立てるようなもので、電子部品が入ったブロックを差し込んでいくことで、電子回路を組み立てて遊ぶことができるのである。子供の頃の「電子ブロック」は私にとってまさにスーパーマシンだった。そして、デザインはスケルトンが基本という古さを感じさせないものだった。下の写真を見れば、電子ブロックの感じが大体つかめることと思う。
電子ブロックについて詳しく知りたい方には、
- 電子ブロック ( http://www.denshiblock.co.jp/)
そこで、作成されていたのが「バーチャル電子ブロック」である。先のWEB上から説明文を引用すると、
「バーチャル電子ブロック」は教育玩具として人気を博した「電子ブロック」の復刻版という位置づけで、パソコン上でマウスを操作してブロックを配置して電子回路を作成し、その働きをシミュレーションできるソフトウェアですというものだ。ソフトウェアの力で「電子ブロック」が蘇るのである。しかも、別売りの外部インターフェースをPCに接続すれば、往年のブロックの形状をした外部機器を制御できるというのである。
この「バーチャル電子ブロック」プロジェクトがアナウンスされてから、ずいぶんと長い時間が経った。その間、来る日も来る日も「バーチャル電子ブロック」のことを考えていたのである。未だかなぁ、早く出ないかなぁ、と毎日考えていたのだ(部分的に誇張有り)。
それが、昨日ようやく(お試し版)という形でダウンロードして、実際にいじれるようになった。そこで、
- 「バーチャル電子ブロック」発売のお知らせ( http://www.denshiblock.co.jp/vdb/index.htm )
このお試し版は付属の「スイッチング回路」で使ってる部品のみを使うことができる。トランジスタ一種、LED、抵抗三種、ブザー二種、プッシュスイッチと若干の配線である。それ以外は、使うことはできないようになっている。そこで、使える部品だけで遊んでいたのだが、じきにすぐ飽きてしまった。まぁ、動作確認のための「お試し版」だからこんなものなのなのだろうなぁ、とりあえず発売されたら直ぐに買うことにするかなぁ、と思いながらビールを飲んでウトウトと昼寝をし始めてしまった。すると、私は面白い夢を見始めた。
夢の中では、コビトさんがいっぱい登場して、何やらセッセとブロックを運んでくる。そして、カチリカチリとお試し版の回路の中にブロックをはめていくのである。あれあれ、あのブロックはさっきまでは使えなかったのになぁ、と思っているのにコビトさん達は無関係に運んでいくのである。
というわけで、コビトさん達は試しにさっきの付属の回路にボリュームと電流計を取り付けたようである。
夢の中で私がいじってみると、ボリュームをいじるとLEDの明るさもリアルタイムで変わるし、ボリュームの抵抗次第で、スイッチング回路もちゃんと動く、そしてその上電流計もちゃんと動く。いやぁ、楽しいものである。こりゃ、実際の製品が出たら即「買い」である。
また、NE555や74-164といったICも夢の中では登場していたのだが、コビトさんにはこれらのICはちょっと大きすぎて運べなかったらしい。あるいは、この狭い領域の中では大きな部品をうまく使えなかったのかもしれない。とにかく、途中でコビトさんは投げ出してしまった。
さて、この「バーチャル電子ブロック」は私のように「電子ブロックを懐かしく感じる世代」に受けることだろう。それだけでなくて、もしかしたら今の子供達(の一部)にも受けるかもしれない。その時に、「こういうおもちゃが出てくるまでの歴史」をその子供達にぜひ知って欲しいなぁ、と私は思うのである。そうしないと、現在、できているものをあるのがただ当たり前のように思ってしまうのではないか、と思う。
そして、逆に「昔のものから今あるものへの流れ」を知ることで、「今あるものから明日あるものへの流れ」を作ることができるようになるんじゃないのかなぁ、とおぼろげながら思ってみたりするのである。