hirax.net::Keywords::「江戸」のブログ



2000-06-30[n年前へ]

今日調べた言葉 

市松模様 紺と白と打ち違えに碁盤縞を並べた文様。1741年(寛保1)江戸中村座の俳優初代佐野川市松がこの文様の袴を用いたのに起こる呼び名。

2000-09-02[n年前へ]

もうすぐ二歳の「できるかな?」 

初心に帰ってみましょうか?


  「できるかな?」が始まったのは二年近く前の秋のことだった。

でも触れたが、当初(実は今も続いているが)は某社内の某サーバー内でこっそりと始めてみたのだった。それから二年あまりでずいぶんと色々な話が増えた。某社サーバー内でしかアップしていない
  • プリンタドライバーは仮免
  • 続 電子写真プロセスを分数階微分で解いてみよう
  • 続々 電子写真プロセスを分数階微分で解いてみよう
等の外部未公開の話も含めれば、もうすぐ200回近くになる。そして、公開場所の変化もあってずいぶんと話の傾向も変わってきた。最近では「ここのところの話題は何か変じゃないですか?hirabayashiさんどうかしたんですか?」とか、「大丈夫?hirabayashiくん?」などと言われる始末である。

 そして話が増えてきたせいか、自分自身でも「アレッ、あの話はどこにあったけ?」というように迷ってしまうことが多々ある。迷うどころか、最後まで見つからないこともしばしばあるのだ。そして、それは私でもない他の人であればましてやそうだろう。というわけで、

では簡単にそれまでの話の紹介をしたし、ではhirax.net内の全文検索機能を付けてみた。

 今回は、これまでの話題をもう一度自分で読み直して、その中から「自分のお気に入り」を調べてみたいと思う。そして、最近少し話題が変になってしまっている反省をして、もう一度初心に帰ってみようと思うのだ。

 まずは、1998年の話題からいくと

というあたりが、良い感じだ。京都の風物詩である「鴨川カップル」達が人目を気にしながら寄り添う合う姿を考えてみたものだ。後の「恋の力学」シリーズなどはここらへんから始まっていた、といっても良いだろう。そしてこの頃の[Scraps]系の話題としては、がある。少し前に、この「さなえちゃん」を描いた漫画の作者からメールを頂いたのがとても私には印象深かった。

 そして、1999年の上半期から選んでみると、まずは

というところだろう。ハードディスクの情報を可視化することで情報圧縮・エントロピーを考えてみた一話である。そして、同じような「可視化シリーズ」の一つであるはこの後「感温液晶はどこで売っていますか?」という質問メールを多々頂くことになった。そして、[Scraps]系のが私の「お気に入り」でもある。ここら辺から「できるかな?」の中に全然技術的な話題でない物が登場し初めたような気がする。

 そして、1999年の下半期はもう自分で言うのも何だが傑作揃いである。大体、書いているペースが自分でも驚くくらいのハイペースだ。月当たりの話の数を数えてみると、

  •  7月 9話
  •  8月 9話
  •  9月 8話
  • 10月 8話
  • 11月 11話
  • 12月 9話
という感じでいやもうビックリしてしまう。平均すると三日に一話である。どうも、本業が忙しいとそれに比例して制作ペースが増加するという、「恐怖の睡眠時間減少の法則」が成り立つようだ。

 この頃の「お薦めの話」はいっぱいある。例えば、

に始まった「文章可視化シリーズ」や、で始まった「ASCIIアートシリーズ」だろう。から始まる「江戸五色不動シリーズ」は江戸にロケまで行ったので、とても思い出深い話の一つである。しかも、妙な偶然のせいでまるで小説の中に迷い込んだような気持ちになったものだ。

 そして、WEBページを作る上では

などもどうしても外せない。そして、この後結構続くことになるという「恋の力学」シリーズもこの時期に始まっている。そして、この頃の一番人気が何と言ってもだろう。この「ミニスカート」系の話の流れは以降も続くことになるのが自分では意外でもあり、残念でもある。それはさておき、ナンセンス系ではなんてのも面白い話だと思う。そして、1999年の終わりはやはりこれが「お気に入り」の話である。また、[Scraps]系の話がこの時期にはやたらいっぱいあるのが面白いところだ。その内からいくつかピックアップするとこんな感じだろうか? さて、2000年上半期にもなると、すいぶんとペースも内容も落ち着いてしまう。その中でも、「恋の力学」シリーズに夏目漱石をトッピングしてみたという辺りは「文学と科学が合体」した話で、自分の中では書いてて結構面白かった話である。そして、ナンセンス系のもクダラナイところところが外せないと思う。そして、この辺りで始まり未だ継続中のは最近の変な流れを予感させるのが哀しいところである。

 さて、今回は2000年上半期までの話の中から「私の好きな話」を振り返ってみた。とはいえ、私の好きな話=他の人の好きな話ではないようだし、他の話も適当に眺めて頂いたら良いかなぁ(私が)、と思うのだった。
 

2001-07-25[n年前へ]

遠い空のはて? 

地平線の向こうに手を伸ばせ

 先日、富士山の五合目へ行った。と一言で言っても、富士山の五合目にも色々ある。何しろ上り口が、第一人気の「吉田口・河口湖口」、下りの「砂走り」で有名な「御殿場口」「須走口」、そして測候所の白ドームを目指し最短距離一直線の「富士宮口」と四種類もあるのだ。その色々ある五合目の中で、先日私が行ったのは富士宮口の五合目というところだ。富士山の太平洋側から富士山頂に向かう登山口の標高2400m地点ということになる。もしかしたら、表富士五合目と言う言い方のほうが有名なのかもしれない。

 その表富士五合目から下を眺めると、ずいぶんと遠くまで見えることに本当に心からビックリした。雲が下のほうに広がっていて、そしてその向こうに海や山や地平線が見える。そして、気のせいか地平線がとても丸いような気がする。その五合目までは車で簡単に来ることができたのだけれど、さすが標高2400mは伊達ではなかった…。やっぱり富士山は日本一の山かもしれない…。そして、そんな景色を眺めているうちに、私は色々考えてしまった。
 

 あぁ、下を眺めると遠くまで景色が本当にきれいだ。そういえば、眺めると言えば…

 これまで、私は急な階段の下から上を眺めたらスカートの内側の下着なんかを覗けるかどうかをジックリ考えてみたりしてきたなぁ。それに、SONYの誇る可愛いらしいAIBOの気持ちになって、やっぱり同じく低いAIBOの視点から上を見上げたらやっぱりスカートの内側が覗けるかどうかを考えてみたりしたなぁ。見上げてばっかりだなぁ、しかも、どれもスカートの内側かぁ…。
 そういえば、透け透け水着もマズかったなぁ…。あれ、本当に仕事の話から始まったんだけどなぁ…。誰も信じてくれないし…。

 あぁ、だけど、やはりそんなことを考えていてはいけなかったんだ…。そんなことをしてたから、画像処理追求サイトを目指したハズだったのに、何時の間にか有害サイト認定されてしまったりしたに違いないんだ…。ついには、「こどもに見せられないページ」保証までされたりするしなぁ…

 私は一体何処で間違えてしまったのだろう…? あぁ、それにしても地平線がきれいだ…。地平線が丸い…。 あぁ、地球はやっぱり丸いんだなぁ…。


 と、まるで「生きる」で「ブランコに乗りながら人生を振り返る」志村喬のように、我が身を振り返っている内に、ふと「そういえば、地平線って一体どのくらい向こうにあるんだっけ?」と考えはじめてしまった。そもそも、地球が丸いからどうしてもある距離以上は見通すことができなくて、それが地平線なわけだけど、それは一体どのくらい先なのだったのだろうか?

 おぼろげな記憶を辿ると、意外に地平線は自分の近くにあって、確かほんの数km先程度だった気がするのだけれど…。さて?あれ? はて… 果て…?

 というわけで、地平線までの距離を計算してみた。まずは、そのために下図のように視点の高さYと地球の半径Rをとってやる。
 

地平線までの距離を計算するために…

 「視点位置」と「地球中心」と「地平線」を結んだ三角形(グレーで塗りつぶした部分)がもう簡単なくらいに直角三角形なことに注目して解いてみると、「地平線までの距離」は「視点の高さY」の関数として

というような形になる(計算が合ってれば…)。これに、地球の半径R = 6400kmを代入してやれば、視点の高さYに応じた地平線までの距離が求められるわけだ。

 そこで、まずは視点の高さが0〜3m位までの場合をグラフにしてみたのが次の図である。歩き始めて広い世界で暴れだすだろう頃の一才児の身長を緑、そして、かつてはデカイの代名詞といえばコイツという存在だったアンドレ・ザ・ジャイアントの身長223cmを青で記入してみた。
 

視点の高さが0〜3m位までの場合の地平線までの距離( km )
みどり:歩き始める位の一才児の身長 = 70cm
青:アンドレ・ザ・ジャイアントの身長 = 223cm

 このグラフを見ると、一才児の地平線はおよそ3km先にあって、アンドレ・ザ・ジャイアントの地平線は5〜6km先にあることがわかる。もちろん、その間の身長の人達の地平線はその中間、そう4km先くらいにあるわけだ。私たちの地平線はほんの4km先、なんと走ればほんの20分位のところ、歩いても一時間かからない程度の近くに地平線はあるのだった。地平線なんていうと、遥か遠くにあるように思えるけれど、手の届くほんのすぐ先にいるのである。

 そして、歩き始めた子供の地平線と巨人アンドレ・ザ・ジャイアントの地平線がたいして変わらない、というところも面白いものだ。あれだけ背が高ければ、さぞかし広い世界を眺めているのだろう、と思ったりするがそういうわけでもないのである。

 じゃあ、もう少し高い場所に行くとどうか、ということで1000mまで視点の高さを上げてみたのが次のグラフである。東京タワーの特別展望台の250mを緑で、あくまで計画中の秋葉原タワーの特別展望台の500mを青で示してある。 ここまで上がると、250m地点で地平線は60km先になり、500m地点では80km程度先まで見通せることになる。東京駅の位置からの距離で言うと、60kmでは箱根くらい、80kmで三島くらいだろう。
 

視点の高さが0〜1000m位までの場合の地平線までの距離( km )
みどり:東京タワーの特別展望台
青:計画中の秋葉原タワーの特別展望台

 調子に乗って、さらに視点を高くしてみよう。先の表富士の五合目2400m地点では200km近く見渡せ、東京駅からの距離で言うと地平線は遠く浜名湖辺りまで離れていく。そして、さらにさらに視点を上昇させ、ジャンボジェット機の巡航高度地上10kmからであれば、なんと350kmほども見渡せるのである。350kmだと東京駅から京都くらいだろうか。東京-京都と言えば、そうちょうど東海道五十三次だ。江戸時代の人達が一月近くもかけて歩いたくらいの彼方まで地平線は後ろへ下がっていくわけだ。地平線は時が流れるにしたがって、遠くに広がっていくのだ。
 

視点の高さが0〜10km位までの場合の地平線までの距離( km )
みどり:表富士の五合目
青:ジャンボジェット機の巡航高度

 そのジャンボジェット機から見える地平線は、かつては一月近くもかけて歩いたくらいの遠く、400kmも遠くなのだから、そこまで行くと地平線が「遥か遠く」に思える。一瞬そう思える、のだけれど実はそんなことはない。ジャンボジェット機の速度からすれば、そんな遥か彼方の地平線だって、やっぱり30分ちょい位のすぐ近くだ。私たちが普通に立っているときの地平線が4〜5kmくらいのすぐ近くにあって、歩いてみればやっぱり30分ちょいで行ける、というのとほとんど同じなのだ。
 



ジャンボジェット機から眺めた地平線(水平線)



 五歳くらいの子供の地平線と、空を飛び回るジャンボジェット機の地平線を時間を距離の単位として比較してみれば実はほとんど同じ遠さだ、というのは何だかとても面白い。大地の果てと天とが接っする地平線はとっても近くにあって、そこまで行くのにかかる時間は小さな子供でも巨大なジャンボジェット機でも同じなのである。

 「地平線」なんて言うと、まるで「手が届かないもの」の代名詞みたいに使われたり、あるいは「その先には何があるのかわからないもの」の代名詞に使われたりするけれど、ちょっと行こうとして見れば、片道30分ちょっとでその「地平線」まで辿りつくことができるわけだ。案外、遠くにあると思い込んでいるものも、手を伸ばしてみれば、もしかしたら手が届くものなのかもしれない。しかも、それは地平線まで辿り着く時間が小さな子供でも巨大なジャンボジェット機でも同じだったように、誰でもできたりするものなのかもしれない。

 もちろん、かつての「地平線」だった場所まで辿り着いたとしても、新しい「地平線」は視界の向こうに下がって行くわけなのだけれど、そこまでだってやっぱり歩けばほんの30分だ。遠い空の果て、地平線の向こうは、すぐそこだ。

2001-08-23[n年前へ]

あの小判で何が買えたの? 

「夏休みの自由研究」図書館で江戸時代の物価を調べてみた


 夏休みも終り、また忙しい生活が始まった。忙しい生活をしていると、「あぁ昔のノンビリとした時代、例えば江戸時代に戻りた〜い」なんて思ってしまう。江戸時代のお気楽な町人かなんかに生まれ変わって、ぼぉ〜っとしてみたり、祭りや火事に興奮してみたり、たまには働いてみたり、そして時には近所の町娘と恋なんかして過ごしてみたりしたいなぁ、と思ってみたりするのである。それに、江戸時代と言えば大昔なのだから、きっと物価はものすごく安いに違いないのである。平均給料がいくらだか知らないが、きっと色々なモノが安く買えるに違いないのだ。

 といっても、私は歴史にはとっても疎い(いや違った、「歴史も」だ)ので、本当のところ江戸時代がそんなノンビリとした時代だったかどうかは知らない。まぁ、知らないからこそ、適当にこんな風に楽観的に思ってしまったりするのである。

 しかし、世の中には私のような「歴史知らず人間」だけでなくて、「歩く歴史」人間のような方々も多いのである。いや、こう書くといきなり誤解されてしまいそうだ。私は別に「歩く化石」人間が多いとか、「踊るシーラカンス」人間が多いとか言いたいわけではないのである。旧人類が満ち溢れていると言いたいわけではないのである。私は、単に世の中には「歴史大好き」人間が多い、ということを言いたいだけなのだ。そう、例えば歴史大好き人間、例えば時代劇大好き人間(*1)とか幕末野郎(*2)とか戦国野郎(*3)などはきっと誰の周りにもいるハズなのである。
 

(*1) 古くは「杉さまぁぁ〜」と黄色い声を上げる杉良太郎大好き・時代劇大好きおばちゃん(いや、違ったおねえさん…)、など。
(*2) 坂本竜馬に自分を例える武田鉄也、など。
(*3) 会社から外へ飛び出し、その退社時に「江戸城」という本を後輩に渡して行くようなカッコイイ人、など。
 そんな「歩く歴史」人間の方々は私を、「江戸時代はきっと色々なモノが安く買えるんだ〜。いいなぁ〜。」などと無知にも憧れたりする素直な私を、必ずやバカにするに違いない。いや、バカにされるのは構わないのであるが、そうなると、そんな自分をちょっと情けなく思ってしまう。

 そこで、今回夏休みのぼ〜っとした気分からのリハビリも兼ねて、江戸時代と現代の物価について調べてみることにした。そして、夏休み過ぎの私が夢想する「江戸時代への憧れ」がトンチンカンなものなのか、あるいはそうでないのかを調べてみたい、と思う。つまり、今回は単に「夏休みの自由研究 図書館で江戸時代の物価を調べてみた」ということなのである。そして、「江戸時代はきっと色々なモノが安く買えるんだ〜。いいなぁ〜。」の是非を確かめることにしよう。

 とはいっても、じゃぁ、すぐに江戸時代の物価と現代の物価を比べよう、といきなり始めるわけにはいかないだろう。なんと言っても、江戸時代は実に長い。何しろ、江戸時代と一言で言っても、260年もあるのだ。その長い江戸時代の間にお金の価値(物価)がものすごく変化していたとしたら、一体どれが「平均的」江戸時代なのか判らない。

 そこで、まずは図書館に行って、「江戸物価辞典」を片手に江戸時代の間に米の価格がどの程度変化していたのかをグラフにしてみた。江戸時代の間に物価がどの程度変化していたかを見てみるわけだ。もちろん、何をもって物価の上昇具合が緩やかなのかあるいは急なのか、という基準が必要なわけで、第二次大戦後の米価格の変化も同じように示してみた。
 
 

米の価格の変化
左 : 江戸時代
右 : 第二次大戦後

 上のグラフを眺めてみると、江戸時代(幕末期は除く)は緩やかな物価上昇は見られるが、それはごくごく緩やかなものであることが判る。何しろ200年も経っても、たかだか二倍程度にしか上昇していないのである。第二次大戦後の(すなわち、たった50年程度の間の)物価上昇に比べれば、もう物価上昇はほとんど無いといっても良いくらいである。少なくとも人生50年というような時間尺度で眺める限りは物価はほとんど変化していないのである。私の記憶(とても曖昧…)があるたった25年足らずの間に、駄菓子の価格がほとんど二倍(ガリガリ君を除く)になっているのとは大違いなのだ。ということは、少なくとも江戸時代の中期辺りの物価を眺めてみれば、それを「江戸時代」と言ってしまっても良さそうに思える。そこで、

の江戸時代中期の色々なモノの価格をグラフにして並べてみる。また、それらのモノが西暦2001年の現在、何円くらいであるかを私の主観によって判断し、同じようにグラフにしよう。そして、それぞれを比較して、
  • 今の方が安いモノ
  • 昔の方が安かったモノ
を判断してみることにする。

 とはいえ、もちろん江戸時代にあったが現在はもうほとんど存在しないというようなものも多い。そこで、そういうものは現在における相当品で、例えば

  • 富くじ → 宝くじ
  • 吉原高級遊女 → 銀座の高級?クラブの基本料金
  • 町駕籠 → タクシーの初乗り料金
  • 夜なきソバ → 近所のチャルメラ・ラーメン
  • 絵本 → 写真集
  • 貸し本 → レンタルビデオ
  • 夜鷹 → ○×△■
という感じで代用してみた。「銀座のクラブ」など私の未体験ゾーンも多いので、そこらへんも実に大雑把な値である。もし、詳しいかたがいらっしゃったら、ぜひ教えて頂きたい次第である。

 また、モノの価格だけでなく「収入」の基準もやはり必要なわけで、それに対しては大工日当を用いた。つまり、収入の基準との大工日当に対して、色々なモノがいくらであるかを、江戸時代と現在とで比べてみることになる。というわけで、そのグラフが以下である。
 

大工日当を中心に見た、
青線 : 江戸時代中期のモノの価格
赤線 : 西暦2001年のモノの価格(hirax.net主観による)
緑線 : 両者の比較

 このグラフを見ると、例えば大工日当を基準にすると、一両はほぼ十万円に相当することが判る。また、砂糖などは今のほうが江戸時代よりもよっぽど安い。だから、砂糖を基準にすれば、一両は千円にしかならない。逆に夜鷹を基準にしてしまうと、何と一両はおよそ百万円に相当するのである。それほどに江戸時代の夜鷹は安かったのだろう。大変な話だ…。

 砂糖も含め、眼鏡とか町駕籠(タクシー)とか飛脚(宅急便)とか提灯(懐中電灯)とかの、いわゆる科学の力を有効活用したものは当然現代の方が安い。そして、わらじとか歌舞伎とかの現代においては希少価値の高いものは江戸時代の方が安かったのも当然である。じゃぁ、吉原高級遊女(銀座の高級?クラブの基本料金)と吉原中級遊女(銀座の大衆クラブ)の価格の違いはどう説明するのかいう疑問も当然湧いてくるわけではあるが、そういう話はどうでも良いのだ。

 何はともあれ、タクシー(町駕籠)に乗って銀座のクラブ(吉原高級遊女)に遊びに行くのが大好きな人、しかも眼鏡をかけてて、甘いもの(砂糖)が大好きなんて人には江戸時代はどうも合いそうにない。そんな人たちはすごくお金持ちでないと、江戸時代はかなりツライ時代のようである。そんな人達は、江戸時代よりも2001年現在の方が幸せに違いない。そんな輩には江戸時代はマッチしないハズなのである(根拠薄弱)。

 しかし、広い風呂(銭湯)が好きで、夜のチャルメラ・ラーメン(夜鳴きソバ)にロマンを感じ、写真集(絵本)が欲しいけど高くて買えないワタシのような人間にはやはり江戸時代がジャストフィットするに違いないのだ。チープにお気楽に生活できるかもしれないのである。やはり、「江戸時代はきっと色々なモノが安く買えるんだ〜。いいなぁ〜。」は合っていたのである(ウソ)。

 よっしゃぁ、私に合う時代はやっぱり江戸時代なのだぁ、とここまでは思ったのだが、もう少し私の生活パターンを考慮して吟味し調べてみると(調べなくても判るだろうが…)、江戸時代には発泡酒はもちろんビールは日本では一般的ではなかったのである。これでは、ビール(だけどお金が無いから発泡酒に変わったが)大好き人間の私としては致命的にマズイのであった…。う〜ん、う〜ん、ちょっと残念なんだけどだなぁ…。
 
 

2001-12-31[n年前へ]

江戸東京重ね地図 

 江戸と現代の地図を重ねる。五色不動巡りが懐かしいなぁ。(リンク)(リンク



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