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2000-07-04[n年前へ]

さなえちゃん 

この元記事のきっかけとなったマンガの作者からメールをもらう。6年以上前に書かれたマンガから始まったネット上の記事が巡り巡って作者の目に留まったのも何とも不思議で、面白い。(リンク

2000-07-23[n年前へ]

WEBページの文体を調べてみよう 

「ノリノリ文体」の秘密!?

今日もまたいつものように

へ面白い情報を読みに行った。何しろ、私はあまり眺めるWEBページを新規開拓したりしないので、こういうページ無しには情報の孤島に取り残されてしまうのである。

 すると、

というスレッドが紹介されていた。これはなかなか面白い試みだ。

 以前から、私も文体について調べてみたい、と思っていた。それも普通の文体ではなくて、WEBページの文体である。色々な面白いWEBページを読むたびに、「この面白さ・ノリの良さの秘密はどこにあるのだ?」と思っていたのである。そして、できることならば「そのノリノリ文体の秘密をこの目で見てみたい!」と切望さえしていたのである。もちろん、本当のところは「ノリノリ文体の秘密」が明らかになったならば、「そのノリノリ文体をパクッてやろう」という気持ちが私の中にあるのだ。文体だけ真似しても、「面白いページ」にはならないと言う気もするが、そんなことは考えてみてもしょうがないのだ。まずは、形から入ろうというわけだ。

 そこで、今回は「ノリノリ文体」を書いているWEBサイトの文章をいくつかピックアップして、その「ノリノリ文体の秘密」を調べてみることにした。今回、ピックアップした文章はまず次の三つである。

  • そりを言ってはお終いなのよ fromちゃろん日記(仮) ななゑ さん
    • ( http://www.alpha.dti2.ne.jp/~nanae/nikki1999_8m.htm )
  • 娘よ from 我が妻との闘争呉エイジ さん
    • ( http://www.117.ne.jp/~kure/waga/yome12.html )
  • 半角カナを使え! fromとろん 南野 輝 さん
    • ( http://www2.justnet.ne.jp/~chic/TRON005.HTML )
 ちゃろん日記(仮)はWEBページの文体を考えるときには絶対に外せないだろう。笑いと涙で日常を描くまるでチャップリンの喜劇のような「ちゃろん文体」である。今回は数多い話の中から「男心と女心のギャップ」を鋭く描いた「そりを言ってはお終いなのよ」に注目してみた。

 そして、次に「男心と女心のギャップ」を全く違う視点から描く、まさに涙ナミダの物語「我が妻との闘争」から涙無しには読めない「娘よ」にも注目したい。

 涙でなくて「笑い」と言えば、当然「お笑いパソコン日誌」から辿り、「半角カナを使え!」にも注目してみたい。本当はこの作者が文章を書いている印刷物も手元にあるので、その印刷物とWEBの文章とを比較してみたかったりもしたのだが、今回はパスさせて頂いた。

 そして、WEBページの文章ではないが、当然この人

  • 私の個人主義 夏目漱石
もノミネートしてみた。漱石には失礼だと思うのだが、素晴らしい文章ではあるが、WEBページというものがない時代のまだ「ノリノリ」でない例として用いてみたい。そして最後に、本hirax.netの中の文章を二つ程選び、「ノリノリ文体」になっていないWEBページの文章例として用いることにした。なお、この二つは数式などをなるべく用いていないものという観点で選んでみた。

 さて、今回は「文体の特徴の解析」の手段として、「文章構造可視化シリーズ」で作成した"wordfreq"を少し改造して使ってみることにした。以前、のバージョンから少し変えて、ファイルに落とす結果はスムージングをかけないそのままの結果にしてみただけである。とりあえず、そんな"wordfreq"を使い、WEBページの「一段落中の句点(。)と読点( 、)の数」を調べてみたのである。

 何故、「一段落中の句点( 。)と読点( 、)の数」に注目したかというと、私はどうも読点の使い方が判らないのだ。文章の各部分が他のどの部分にかかるのかをちゃんと示したいのだが、どうも私の文章は変なのだ。もういっそのこと、文章の各部分がどこにかかるかわかるように各個とか矢印とか使いたくなるくらい、読点の使い方がわからないのである。その結果、読点をどうも多く打ってしまうような気がしているのである。

 そこで、その勉強も兼ねて「一段落中の句点( 。)と読点( 、)の数」に注目しながら、WEBページの「ノリノリ文体」を調べてみたいと思うわけだ。
 

一段落中の句点( 。)と読点( 、)の数
ノミネートされた文章一段落中の句点( 。)の数一段落中の読点( 、)の数
私の個人主義
7.6
11
コンクリートの隙間に
4.4
7.6
新宿駅は電気羊の夢を見るか
3.9
2.8
半角カナを使え!
1.8
2.1
娘よ
1.4
0.5
そりを言ってはお終いなのよ
0.4
0.9

 この結果を見てみると、「ちゃろん文体」などは圧倒的に一段落中の句点(。)の数が少ない。また、同じように一段落中の読点( 、)の数も少ない。そして、「我妻文体」も同じように、一段落中の句点(。)の数が少ない。こちらの「我妻文体」は、一段落中の読点( 、)の数の少なさでは今回No.1である。

 それに対して、偉大なる漱石の「私の個人主義」では「一段落中の句点(。)と読点( 、)の数」も実に多い。そして、私の書いた文章においても、その数はやはり多い。上の表は「一段落中の句点(。)の数」が多い順に並べてみたが、私の文章は二つとも、漱石の次に「一段落中の句点(。)と読点( 、)の数」が多い。

 上の表では
私の個人主義 >> コンクリートの隙間に, 新宿駅は電気羊の夢を見るか >>半角カナを使え!, 娘よ >> そりを言ってはお終いなのよ
となっているが、これはWEBの「ノリノリ文体」とかなり良い一致をするのではないだろうか?つまり、

  • WEBの「ノリノリ文体」は一段落中の句点( 。)と読点( 、)の数が少ない程良い
という推定がここから可能だと思うのだ。

 その推定を用いて「娘よ」の文章中における一段落中の読点( 、)の数の変化を眺めてみると面白いことが判る。文章中で、段々と「一段落中の読点(、)の数」が少なくなってきているのである。これは、きっと作者 呉氏が文章を書いている内に、気分が「ノリノリ」になってきて、その心の変化が「ノリノリ文体」としての特徴- 一段落中の読点( 、)の数が少ない - を示し始めたのではないだろうか?
 

「娘よ」の文章中における一段落中の読点( 、)の数の変化

 さて、今回はWEBページの「ノリノリ文体の秘密」を簡単に調べてみた。これからも引き続き、その秘密のさらなる姿を見てみたいと思う。そして、いつかその「ノリノリ文体」を私は身につけ、ノリノリWEBページなどを書いてみたりするのである。

 とはいえ、それぞれの「文体」には作者の性格も強く現れているわけで、私の性格を直さないことにはそんな「ノリノリ」文体を身につけられないような気もするし、文体だけ真似しても「面白いページ」にはならないとか、形から入ってどうするとかいう声が聞こえそうであるが、それを言ってはダメなのだ。
 

2000-09-02[n年前へ]

もうすぐ二歳の「できるかな?」 

初心に帰ってみましょうか?


  「できるかな?」が始まったのは二年近く前の秋のことだった。

でも触れたが、当初(実は今も続いているが)は某社内の某サーバー内でこっそりと始めてみたのだった。それから二年あまりでずいぶんと色々な話が増えた。某社サーバー内でしかアップしていない
  • プリンタドライバーは仮免
  • 続 電子写真プロセスを分数階微分で解いてみよう
  • 続々 電子写真プロセスを分数階微分で解いてみよう
等の外部未公開の話も含めれば、もうすぐ200回近くになる。そして、公開場所の変化もあってずいぶんと話の傾向も変わってきた。最近では「ここのところの話題は何か変じゃないですか?hirabayashiさんどうかしたんですか?」とか、「大丈夫?hirabayashiくん?」などと言われる始末である。

 そして話が増えてきたせいか、自分自身でも「アレッ、あの話はどこにあったけ?」というように迷ってしまうことが多々ある。迷うどころか、最後まで見つからないこともしばしばあるのだ。そして、それは私でもない他の人であればましてやそうだろう。というわけで、

では簡単にそれまでの話の紹介をしたし、ではhirax.net内の全文検索機能を付けてみた。

 今回は、これまでの話題をもう一度自分で読み直して、その中から「自分のお気に入り」を調べてみたいと思う。そして、最近少し話題が変になってしまっている反省をして、もう一度初心に帰ってみようと思うのだ。

 まずは、1998年の話題からいくと

というあたりが、良い感じだ。京都の風物詩である「鴨川カップル」達が人目を気にしながら寄り添う合う姿を考えてみたものだ。後の「恋の力学」シリーズなどはここらへんから始まっていた、といっても良いだろう。そしてこの頃の[Scraps]系の話題としては、がある。少し前に、この「さなえちゃん」を描いた漫画の作者からメールを頂いたのがとても私には印象深かった。

 そして、1999年の上半期から選んでみると、まずは

というところだろう。ハードディスクの情報を可視化することで情報圧縮・エントロピーを考えてみた一話である。そして、同じような「可視化シリーズ」の一つであるはこの後「感温液晶はどこで売っていますか?」という質問メールを多々頂くことになった。そして、[Scraps]系のが私の「お気に入り」でもある。ここら辺から「できるかな?」の中に全然技術的な話題でない物が登場し初めたような気がする。

 そして、1999年の下半期はもう自分で言うのも何だが傑作揃いである。大体、書いているペースが自分でも驚くくらいのハイペースだ。月当たりの話の数を数えてみると、

  •  7月 9話
  •  8月 9話
  •  9月 8話
  • 10月 8話
  • 11月 11話
  • 12月 9話
という感じでいやもうビックリしてしまう。平均すると三日に一話である。どうも、本業が忙しいとそれに比例して制作ペースが増加するという、「恐怖の睡眠時間減少の法則」が成り立つようだ。

 この頃の「お薦めの話」はいっぱいある。例えば、

に始まった「文章可視化シリーズ」や、で始まった「ASCIIアートシリーズ」だろう。から始まる「江戸五色不動シリーズ」は江戸にロケまで行ったので、とても思い出深い話の一つである。しかも、妙な偶然のせいでまるで小説の中に迷い込んだような気持ちになったものだ。

 そして、WEBページを作る上では

などもどうしても外せない。そして、この後結構続くことになるという「恋の力学」シリーズもこの時期に始まっている。そして、この頃の一番人気が何と言ってもだろう。この「ミニスカート」系の話の流れは以降も続くことになるのが自分では意外でもあり、残念でもある。それはさておき、ナンセンス系ではなんてのも面白い話だと思う。そして、1999年の終わりはやはりこれが「お気に入り」の話である。また、[Scraps]系の話がこの時期にはやたらいっぱいあるのが面白いところだ。その内からいくつかピックアップするとこんな感じだろうか? さて、2000年上半期にもなると、すいぶんとペースも内容も落ち着いてしまう。その中でも、「恋の力学」シリーズに夏目漱石をトッピングしてみたという辺りは「文学と科学が合体」した話で、自分の中では書いてて結構面白かった話である。そして、ナンセンス系のもクダラナイところところが外せないと思う。そして、この辺りで始まり未だ継続中のは最近の変な流れを予感させるのが哀しいところである。

 さて、今回は2000年上半期までの話の中から「私の好きな話」を振り返ってみた。とはいえ、私の好きな話=他の人の好きな話ではないようだし、他の話も適当に眺めて頂いたら良いかなぁ(私が)、と思うのだった。
 

2000-10-19[n年前へ]

Evey little thing we ee is magic. 

WEBページで作るOscylinderscope

 先日、The Reuben H. FleetScience Centerという科学館に遊びに行った。そこで面白いものをみかけた。それはOscylinderScopeという名前のもので、下の写真のようなものだった。
 

Oscylinderscope
リンク先はhttp://www.normantuck.com/catalogPages/oscylinderScope.html

 Oscylinderscopeの作者のNorman TuckのWEBサイト

内にあるにも説明がされているが、OscylinderScopeはギターの弦が振動する様子を目で観察できるようにする「おもちゃ」である。白い縞模様が描かれたドラムを回転させながら、ギターの弦を振動させるとアラアラ不思議、まるでギターの弦がまるで正弦波のような形状で静止したイメージとして見えるのである。そして、足で下に着いているペダルを踏んで、弦の張力を変えたりすると、その目に見える弦の様子が即座に変わるというArtとAscienceの両親から生まれた子供みたいな展示物だ。

 電気的な変化する信号に合わせて、光の点をsweepさせることで波形を描き出すのがオシロスコープだが、このOscylinderScopeもドラムをい回転させて、ドラム上に描かれた白い線が振動するギターの弦の後ろをsweepして、ギターの弦の振動する様子を描き出すのである。

 参考までにNorman TuckがOscylinderScopeに関して取得しているUnites StatesPatent 5,975,911から判りやすそうな図を下に示しておく。揺れる棒の様子がSin波状に見えている、という説明図である。
 

United States Patent 5,975,911

 このOscylinderScopeにはとっても単純だけど素敵な科学的なアイデアと、展示物としてのセンスと、そして何故かちょっとうれしくなるようなバカバカしさが感じられて私はとっても大好きだ。そこで、一ファンとして私も「WEBページで作るOscylinderscope」というのをやってみることにした。

 といっても、やることは単純に単なる速く移動する白い線をパソコン画面に映し出すだけである。そして、その前で何かを振動させてその振動の様子を可視化するのである。

 まずは、Oscylinderscope風アニメーションGIFだ。おそらくInternetExplorerではゆっくりとしか再生されないと思うが、NetscapeCommunicatorであればプラットホームにもよるが高速に再生することができると思う。少なくとも、Linux上のNetscapeNavigatorではかなり速く再生されるハズだ。
 

Oscylinderscope風アニメーションGIF

 このアニメーションを再生できない環境の人のために、動画ファイル版にしたものもここにおいておく。

 例えばWindows上のMediaplayerであれば、このファイルを開いた上で、全画面表示にして、早送り再生にしてもらえば良いと思う。

 このアニメーションGIFや動画ファイルを再生して、部屋の電気を暗くしてみる。すると、CRTの画面というのはとても明るいので、部屋を暗くしてCRTだけをつけておくと、CRT画面に映し出されている色に部屋が染まる。部屋がそんな風にチカチカした状態で、画面の前で何かを振動させると、アラ不思議その物体の振動の様子が何やら変な風に見えてくる。例えば、真っ直ぐな細い棒を「Oscylinderscope風AVIファイルの前で棒を揺らしてみたところ」である。写真では判りにくいと思うが、真っ直ぐな棒がウニョロウニョロと曲がって見えるだろう。とにかく、真っ直ぐな棒が振動する様子を静止したイメージで目にすることができるのだ。
 

Oscylinderscope風AVIファイルの前で棒を揺らしてみたところ

 ところで、私はこんなOscylinderscopeを見ていると、ナポレオンズの「首グルグル・マジック」を連想してしまう。一カ所だけ穴の開いた筒を頭にかぶる。そして、穴の部分から顔を覗かせる。筒を回転させ始めると、なんと顔がずっと見え続ける、つまりエクソシストの少女のように首が回転しているのだ!これがマジックかぁ?と言う人も多いかもしれないが、私はこれこそ本当にmagicそのものだと思う。このマジックには、目に見えていない瞬間に起きていることは結局想像するしかない、という本当の真実と、何故かもう嬉しくなるくらいのバカバカししさが同居していて私は大好きなのだ。他の人はどう思うか知らないけれど。
 

2001-01-21[n年前へ]

カンバスから飛び出す「名画の世界」 

作者の視点から眺めてみれば

 先日、新穂高ロープウェイスキー場へ行った。雄大な景色に囲まれたとても素晴らしいスキー場だ。その景色を思わずデジカメで撮ったのが下の写真である。まずはこの「写真をじっくりと眺めて」みて欲しい。
 

新穂高ロープウェイスキー場から眺めた景色

 私が感じた「雄大な景色」は伝わっただろうか? きっと私の感じた「雄大な」感じは百分の一も感じられないに違いない。それでは、次に片目をつむって、もう片方の開いた目だけでこの写真をもう一度眺めてみてもらいたい。そうすると、今度は一体どんな風に感じられるだろうか?今度は、立体的に浮かび上がる山と谷が浮かび上がってくるハズである。

 この「片目で写真を眺める」というのは南伸坊の「モンガイカンの美術館」の中で書かれている「写真の見方」である。その一部分を引用してみると、

 ヒトの視覚の特殊性というのは、横に並んだ二つの目が、それぞれ違った映像を感じて、それが脳ミソでかきまぜられて、立体を感じるようになっていることなのだった。

 一方、カメラというのは、もともとが片目で見た映像なのである。ファインダーをのぞいていないほうの目を、カメラマンがあけたままであっても、写ってきた写真は片目の映像には違いない。これを両目で見れば、「写真は立体を平面に置き換えたものである」という正論が見えてしまうばかりである。だから、写真を、実物からうける視覚の印象と同じように見ようとするなら、片目で見なければいけないのである。

 私はこれを初めて読んだときは、目からウロコが落ちたような気持ちになった。それまでは、私は写真を「じっくりと眺め」ようとして、両目でじっくりと眺めてしまっていたのである。両目、すなわち、作者とは異なる視点からじっくりと眺めてしまっていたのである。写真に切り取られている景色は作者の視点・場所から描かれているのだから、その場所からじっくり眺めてみれば、もっとそこに切り取られている世界を感じることができたに違いないのだが、そこをちょっと勘違いしていたわけだ。

 映画のセットは撮影しているカメラの位置から見るのが正しいのであって、それ以外の位置から見ても意味がない。違う角度から見てみても、それはあまり面白くないのである。いや、もちろん映画村とかユニバーサルスタジオとかそんなのも繁盛しているくらいだから、実は裏側から見るのも面白いのだろうが、それはあくまで表から見終わった後での、「裏の眺め」なわけだ。

 そういったわけで、写真を眺めるときには「(作者と同じ)片目でじっと眺める」のが良いわけであるが、それは写真だけに限らない。平面に描かれたものであればそれは何だって同じである。普通の絵画だって、版画だって、もう何でもそうだ。例えば、このモネの「散歩、日傘をさす女」を両目と片目で眺めてみよう。これはモネが家族を光り輝く景色の中で描いた名画である。
 

The Stroll, Camille Monet and Her Son Jean
Claude Monet

 両目でじっくり眺めてしまうと、いまひとつ感じられない風の感じや空気の透明感が、片目で眺めると躍動感と共にあなたの目の前に迫ってくることと思う。片目でこの画を眺めるとき、私達の目はセザンヌが「彼(モネ)は眼である。しかし、何という眼だろう。」と評したモネの目と一体化し、モネが眺めた景色を私達も眺めることができるのだ。

 というわけで、写真に限らず平面に描かれたものであれば、私は片目で作者と同じ視点に立って眺めてみるのが面白いと思うわけだ。平面に描かれた写真や絵画には、作者の片方の目から見た視点しか描かれていないので、私達も同じように片目で見てやればあとは私達の想像力が作者のもう片方の視点を作りだし、作者の感じた世界を立体的に感じることができるのである。
 

 と、そんなことを新穂高ロープウェイスキー場のリフトの上でぼぅ〜と考えていると、少し面白いことを思いついた。平面に描かれた写真や絵画には、作者の片方の目から見た視点しか描かれていないのであれば、もう一つの視点を想像して、そのもうひとつの視点から眺めた情報を絵画に加えてしまえば良いのである。

 簡単に言えば、オリジナルの画に描かれている物体の距離に応じて、左右の視差をつくってやった二枚の画像を作れば良いのである。そして、その二枚の画像を左右の目で眺めてみれば、作者が同じく左右の目で眺めている景色、作者が描こうとしたものを眺めることができるかもしれない、と思ったのだ。もちろん、その処理にはいくつかの面倒なこともあるのだが、その処理の細かい内容・注意についてはまた次回以降に説明してみることにして、今回はまずはそういう処理をしてみた名画を見ていくことにしよう。

 というわけで、これが作者の視点情報を勝手に加えて3D化したモネの「散歩、日傘をさす女」hirax.netEdittionである。この二枚の画像を平行法、つまり右の絵を右の目で眺めて、左の絵を左の目で眺めてみたならば、キャンバスの中で佇んでいる妻カミール・モネと息子ジーンが、キャンバスの中から浮かび上がってくるはずだ。その時、二人の背景の青い空もより深く見え、空気の透明感も流れる風が流れる時間と共に浮かび上がってくるのである。
 

The Stroll, Camille Monet and Her Son Jean
Claude Monet
hirax.net Edittion

 このThe Stroll, Camille Monet and Her Son Jean hirax.net Edittionを眺めれば、あなたもモネの視点から、彼の両目に映るカミール・モネを感じることができたことと思う。平行視が苦手な人は目の力を抜いて、ゆっくり挑戦してみてもらいた。平行法のコツはぼぅ〜と遠くを眺めるように、目の力を抜くことである。

 この「散歩、日傘をさす女」は単に紙で作ったニセモノのパノラマの景色みたいに見える、という人がいるかもしれないので、次にシャガールの「窓」も同じように眺めてみよう。まずは、オリジナルの「窓」である。
 

Window 
Chagall, Marc

 そして次が、作者の視点情報を勝手に加えて3D化してみたシャガールの「窓」hirax.netEdittionである。これも同じく、平行法で描かれている。シャガールが眺めている窓の向こうの景色、世界が深い奥行きと共に目の前に出現するハズである。
 

Window 
Chagall, Marc
hirax.net Edittion

 さて、写真にせよ絵画にせよそれは作者の視点から世界を切り取ったものである。その「切り取る」という作業は、このシャガールの絵のタイトルではないが、"window"=「窓」そのものである。限られた「窓」によって画家の感じた世界の一部がカンバスの上に切り取られる。それは逆に言えば、カンバス上に画家の感じた世界へ開かれた「窓」が開いている、ということでもある。 

 もちろん、私達の視点は必ずしも作者の視点とは同じでないし、作者が世界を切り取った窓もごく限られた小さな窓だろう。だから、なかなか作者が感じた世界を共有することはできないだろう。しかし、作者の視点を想像しながら、作者の切り取ったごく限られた窓に立って外を眺めてみる時、きっとそこには描かれている世界は生き生きと見えてくるに違いないと思うのである。
 



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