1999-02-28[n年前へ]
■分数階微分の謎
線形代数、分数階微分、シュレディンガー方程式の三題話
分数階微分?
InterLabの1999No.5を読んでいると面白い記事があった。いわき明星大学理工学部の榊原教授の「Waveletと数式処理ツール」という記事である。といっても、興味を持ったのはWaveletのことではない。もちろん、Waveletに興味がないわけではない。この榊原教授が講師を務めたWavelet講習にも参加したこともある。しかし、今回興味を惹かれたのはその記事中にあった「分数階微分の解析」である。InterLabの榊原教授の記事を引用すると、-通常微分・積分は整数回実行できるが、分数階微分はこれを分数に一般化したものである。さまざまな物理や工学の現象の記述に使われるようになった-とある。一階微分とか二階微分というものはよく使うが、0.5階微分などというものは使ったことがない。どのようなモノなのかさえよくわからない。
参考:
一体、どんな物理や工学の現象の記述に使われているのか知りたくなったので、infoseekで調べてみる。すると、いわき明星大学の清水・榊原研究室の「粘弾性動モデル」が引っ掛かる。
参考:
衝撃吸収・シリコーンの弾性率などに興味を持っている人には面白いかもしれない。もう少し調べてみると「バナッハ空間バナッハスケールにおける分数階積分作用素」というようなキーワードも引っ掛かる。
そこで、まずは勝手に分数階微分について考えてみた。
分数階微分・積分の勝手な想像図
まずは、イメージを考えるためにグラフを作成してみる。x^2の関数、および、それを微分・積分した関数である。微分は3階まで、積分は2階まで行っている。
このグラフ形式の表示をちょっとだけ変えてみる。
ここまでくると、平面グラフにしてみたくなる。つまり、微分・積分の階数を離散的な整数値でなく、連続的な値としてのイメージに変えたくなる。
これで、微分・積分が整数階でない場合のイメージ(勝手な)ができた。微分・積分が離散的なものではなくスムーズにつながっているものであるというイメージである。図.2から図.3への変化をよく覚えていてほしい。
といっても、これは数学的なイメージのみで物理的なイメージはまだここでは持っていない。位置、速度、加速度などの微分・積分で選られるものに対して同じようなイメージを適用すると、位置なんだけれどちょっと加速度っぽいもの、とか、速度と加速度の「合いの子」みたいなものというような感じだろうか?
さらに、これから先は、f(x)という関数が示す無限個の値を位置ベクトルと考えて、f(x)というのは無限次元空間の一つの点だというイメージを持つことにする。線形代数を考えるならそれが一番わかりやすいだろう。任意の階で微分された関数群が集まって、さらに高次元の空間をなしているというイメージである。
分数階微分を調べる
勝手なイメージはここまでにして、手元にある数学の参考書の中から手がかりを探してみた。すると、大学院入試問題解説 - 理学・工学への数学の応用 - 梶原壌二 現代数学社ISBN4-7687-0190-6
の中に手がかりがあった。あれ、ということは以前にやったはずなのか...そう言えばおぼろげな記憶がちょっと...
その中の言葉を少し引くと、
フーリエ変換は等距離作用素である、関数空間L^2(R)における回転といえる。結局、
ここで、fは元の関数であり、Fはフーリエ変換となる。そして、古典力学におけるハミルトン関数において、運動量を微分演算子で置き換えれば、量子力学や量子化学のハミルトン演算子が得られ、シュレディンガー方程式などにつながるのである、とある。他の資料を眺めてみると、どうやら量子力学などの分野からの要請に応じてここらへんの微分演算子の分野が発展しているようだ。理論物理などをやった方ならよくご存知のことだろう。例えば、水素原子の基底状態の波動関数へ運動エネルギーの演算子を作用させるというような、基本的な所でも、このフーリエ変換を用いた微分演算が用いられてる。
さて、この式自体は非常に簡単である。それにイメージも湧きやすい。
i を掛ける演算、私のイメージでは複素数空間の中で90度回転をする(言い換えれば、位相が90度ずれる)演算、が微分・積分であるというイメージはスムーズに受け入れやすい(それが正しいかどうかは知らないが)。なぜなら、微分が空間の中での回転であるとすると、三角関数の微分・積分に関する性質(例えば、Sinを微分するとCosに、Sinを2階微分すると-Sinになる、すなわち、一回の微分につき位相が90°ずつ回転する(位相がずれる)というような性質)が納得でき、それがフーリエ変換という形で登場してくることがスムーズに受け入れられるのである。また、微分といえばとりあえず三角関数の登場というイメージもある。
もう少しわかりやすく書くと、
- 三角関数では一階微分の結果は90度位相がずれる(回転する)。
- ならば、(例えば)0.5階微分は45度位相をずらせば良い。
- 任意の関数もフーリエ変換により、三角関数に分解される。
- ならば、任意の関数に任意の実数値の微分が成立する。
任意の関数をフーリエ変換し三角関数に分解した時の位相、言い換えれば、周波数領域での位相ずらし、で分数階微分が定義されるということは、物理的実用的に大きな意味を持つ。例えば、電磁波、弾塑性運動などの物理現象の中での位相変化を分数階微分で解けることになる。例えば、複素貯蔵弾性率などについて分数階微分との関係は深そうである。あるいは、媒体中の電磁波の位相などについて適用するのも面白そうである。
分数階微分を使ってみる
よく分からないところも多いが、とりあえず、
それでは、今回の方法による一階微分の結果と、それと解析解との比較を示す。なお、本来無限領域のフーリエ変換を有限の領域で行っているため、端部近くで変なことが生じるのはしかたがないだろう。また、色々な事情により係数の違いは無視して欲しい。
ちょっとずれが生じているが、こんなものだろう。しかし、これだけでは今回のフーリエ変換を用いた微分の面白さはでてこないので、0から2の範囲で連続的に分数階微分をしてみる。
1/10 (=0.1)階微分 | 1/2 (=0.5)階微分 | 7/10 (=0.7)階微分 | 1階微分 |
13/10 (=1.3)階微分 | 15/10 (=1.5)階微分 | 17/10 (=1.7)階微分 | 2階微分 |
モーフィングのようで面白い。
さて、今回は分数階微分を勉強してみる所までで、これの応用は別に行ってみたい。もちろん、言うまでもないと思うが、間違いは多々あると思う。いや、田舎に住んでいるもので資料がないんですよ。
1999-09-01[n年前へ]
■画像に関する場の理論
ポイントは画像形成の物理性だ!?
今回は、
夏目漱石は温泉がお好き? - 文章構造を可視化するソフトをつくる- (1999.07.14)
の回と同じく、「可視化情報シンポジウム'99」から話は始まる。まずは、「可視化情報シンポジウム'99」の中の
ウェーブレット変換法と微積分方程式によるカラー画像の圧縮および再現性について
という予稿の冒頭部分を抜き出してみる。「コンピュータグラフィックスを構成する画素データをスカラーポテンシャルあるいはベクトルポテンシャルの1成分とみなし、ベクトルの概念を導入することで古典物理学の集大成である場の理論が適用可能であることを提案している」というフレーズがある。
着目点は面白いし、この文章自体もファンタジーで私のツボに近い。しかしながら、肝心の内容が私の趣向とは少し違った。何しろ「以上により本研究では、古典物理学の場の理論で用いられるラプラシアン演算を用いることで、画像のエッジ抽出が行えることがわかった。」というようなフレーズが出てくるのである。うーん。
私と同様の印象を受けた人も他にいたようで(当然いると思うが)、「エッジ強調・抽出のために画像のラプラシアンをとるのはごく普通に行われていることだと思うのですが、何か新しい事項などあるのでしょうか?」という質問をしていた人もいた。
また、話の後半では、画像圧縮のために、ラプラシアンをかけたデータに積分方程式や有限要素法などを用いて解くことにより、画像圧縮復元をしようと試みていたが、これも精度、圧縮率、計算コストを考えるといま一つであると思う(私としては)。
画像とポテンシャルを結びつけて考えることは多い。例えば、「できるかな?」の中からでも抜き出してみると、
- 分数階微分に基づく画像特性を考えてみたい- 同じ年齢でも大違い - (1999.02.28)
- ゼロックス写真とセンチメンタルな写真 - コピー機による画像表現について考える- (99.06.06)
- コピー機と微分演算子-電子写真プロセスを分数階微分で解いてみよう-(1999.06.10)
現実問題として、実世界において画像形成をを行うには物理学的な現象を介して行う以外にはありえない。「いや、そんなことはない。心理学的に、誰かがオレの脳みそに画像を飛ばしてくる。」というブラックなことを仰る方もいるだろうが、それはちょっと別にしておきたい。
「できるかな?」に登場している画像を形成装置には、
コピー機と微分演算子-電子写真プロセスを分数階微分で解いてみよう-(1999.06.10)
ゼロックス写真とセンチメンタルな写真- コピー機による画像表現について考える - (99.06.06)
で扱ったコピー機などの電子写真装置や、
宇宙人はどこにいる? - 画像復元を勉強してみたいその1-(1999.01.10)
で扱ったカメラ。望遠鏡などの光学系や、
ヒトは電磁波の振動方向を見ることができるか?- はい。ハイディンガーのブラシをご覧下さい - (1999.02.26)
で扱った液晶ディスプレイなどがある。そのいずれもが、純物理学的な現象を用いた画像形成の装置である。
例えば、プラズマディスプレイなどはプラズマアドレス部分に放電を生じさせて、電荷を液晶背面に付着させて、その電荷により発生する電界によって液晶の配向方向を変化させて、透過率を変化させることにより、画像を形成するのである。
また、逆問題のようであるが電界・電荷分布測定などを目的として液晶のボッケルス効果を用いることも多い。液晶を用いて得られる画像から、電界分布や電荷分布を計測するわけである。これなども画像と場の理論が直に結びついている一例である。
参考に、SHARPのプラズマアドレスディスプレイを示しておく。
また、電子写真装置などは感光体表面に電荷分布を形成し、その電位像をトナーという電荷粒子で可視化するのであるから、電磁場を用いて画像形成をしているわけである。だから、場の理論を持ちこむのは至極当然であり、有用性も非常に高いだろう。そういった視点で考察してみたのが、
である。 同様に、画像圧縮に関しても、画像形成の物理性に着目することで実現できる場合も多いと思うのであるが、それは次回にしておく。
1999-12-21[n年前へ]
■恋の力学
恋の無限摂動
クリスマスが近くなると、街のイルミネーションが綺麗に輝き始める。いかにも、ラブストーリーが似合う季節である。そこで、今回は、"Powerof love"、すなわち、「恋の力」について考えてみたいと思う。「恋の力」により、人がどのような力を受け、人がどう束縛されるのか、などについて考えみたいのである。また、恋に落ちたカップルがどのような行動をするのかについて解析を行ってみたい。
「できるかな?」では以前、
において、カップルが他のカップルを意識する力について考えたことがある。カップル同士の間に働く斥力を考えることにより、鴨川カップルの行動を考えてみた。それと同様に、今回はひとつのカップルのみを考え、その中に働く力を考えてみるのである。ひとつのカップルの「男」と「女」の間にどのような力が働くかを考えるのである。そういうわけで、今回の登場人物は「男」と「女」である。その二人は「恋に落ちた二人」である。二人の間には「恋の力」が働いているのだ。その二人の間に働く「恋の力」について考察することにより、恋に落ちたカップルの行動について考察を行ってみることにする。
といっても、「恋の力」を精密に測定した報告例は未だ存在しないので、ここでは適当な値を用いていくことにする。「恋は距離に負けない」とか「遠くて近きは男女の仲」などとははよく言われる。そこで、距離によらないと近似した。また、「遠くて近きは男女の仲」の意味を考えれば、恋の力は無限遠まで働く力である、と考えるのが自然である。
そこで、今回の「恋の力」は距離に関わらず一定であると仮定した。距離=rとした時に-r/Abs[r]の大きさで「相手に惹かれる」ものとした。仮に第一種「恋の力」(仮称)とでもしておく。
今回は「恋の力」は距離によらないものとした。しかし実際は、(通所の距離においては)「男」と「女」は距離が近いほど惹かれ合うし、離れてしまうと惹かれ合う力は弱くなるというのが自然であると思われる。そこで今回の第一種「恋の力」(仮称)は、あくまで大雑把な近似ということにしておく。
恋する二人の間に働く力をもう少し正確に記述しておくと、
- 「恋の力」 = - 「相手の魅力」 * 「二人の間の距離ベクトル」 / 「二人の間の距離スカラー」
- 「恋の力」=優柔不断度 * 「恋の加速度」
であることだ。心がトキメいてもなかなか行動を起こすことが出来ない人がいるだろう。そういう人は「優柔不断度」が高いというわけである。恋の行動における慣性を示すパラメータである。
また、今回は空間を1次元であると簡略化してみた。1次元の空間の中で「男」と「女」が動き回るのである。その時間的変化を調べてみるのだ。従って、シミュレーション結果は空間軸が一次元+時間軸一次元で、合わせて2次元となる。
さて、この「恋の運動方程式」を解くことにより、恋する二人の行動は予測することが可能となるわけだ。試しに、その計算サンプルを示してみる。なお、今回は時間方向で数値的に逐次解を求めている。
初期状態は
- 「男」位置=5, 速度=0,魅力=100,優柔不断度=10
- 「女」位置=0, 速度=0,魅力=100,優柔不断度=10
位置や時間の単位は任意単位である。「0」と「5」は東京と大阪であっても良いし、ロンドンとニューヨークであっても良い。あるいは、実空間でなく精神的な空間と考えてもらっても構わない。すなわち、心の動きを示しているものとするのである。
また、二人の「魅力」や「優柔不断度」は対等である場合だ。その結果を下に示す。このグラフは縦軸が空間位置であり、横軸が時間である。黒線が「男」であり、赤線が「女」である。
「男」と「女」が同じように相手の方向へ向かっているのがわかると思う。これが「恋の無限摂動」である。こういった「恋の無限摂動」の代表的なものには「君の名は」の主人公達の動きなどがある。恋に落ちた二人が、延々とすれ違いを続ける物語である。これは、この「男」と「女」の行動そのものである。
この計算結果では「男」と「女」が糸を紡いでいるようにうまく絡みあっているのがわかる。「恋の無限摂動」の幸せなパターン例である。これは、「男」と「女」が対等であったことがその一因である。
その証拠に、「男」と「女」が対等でない場合の計算結果を示してみる。次に示すのは、
- 「男」位置=5, 速度=0,魅力=10,優柔不断度=10
- 「女」位置=0, 速度=0,魅力=100,優柔不断度=10
「男」が右往左往するのに対して、「女」はほとんど動いていないのがわかると思う。おそらく、この場合には「男」と「女」の「心」もこれと同様のパターンを示しているものと思われる。すなわち、「男」の「心」は揺れ動いているのに対し、「女」の「心」はほとんど動いていないのである。
先の例と異なり、これは実に不幸な計算例である。不幸ではあるが実際によくある例であると思う。以降、これを「男はつらいよ」パターンと呼ぶことにする。「女」に「男」が振り回されているパターンだ。もし、奇跡的に結婚などしても、将来どうなるかは火を見るより明らかである。
それでは、「男」と「女」の「魅力」が同等で、かつ、とてもスゴイ場合を示してみる。すなわち、ドラマの主人公達のようにとてつもなく魅力的な二人が恋に落ちた場合である。一般人とは違う二人が恋に落ちたら、果たしてどのような行動を示すのであろうか?この場合のパラメータは以下に示す、
- 「男」位置=5, 速度=0,魅力=1000,優柔不断度=10
- 「女」位置=0, 速度=0,魅力=1000,優柔不断度=10
「魅力ある二人が恋に落ちた場合には、あまり近づかない方が良い」という教訓をここから得ることができる。
最後に、「男」と「女」の二人ともにあまり魅力がない場合である。パラメータとしては、
- 「男」位置=5, 速度=0,魅力=2,優柔不断度=10
- 「女」位置=0, 速度=0,魅力=2,優柔不断度=10
これなど「恋」と言えるのかどうかもわからない位である。ほとんど、「ただすれ違っただけの相手」である。これがさらに進むと、魅力がお互いに0同士のパターン、
- 「男」位置=5, 速度=0,魅力=0,優柔不断度=10
- 「女」位置=0, 速度=0,魅力=0,優柔不断度=10
これっぽっちも「男」と「女」は「恋」に落ちていないのである。これではカップルの「男」と「女」ではなく、単なる他人である。
さて、今回は行わなかったが、カップルに「恋のエネルギー損失」を導入することにより、「恋の無限摂動」を減衰させることができる。それにより、現実のカップルの行動にさらに近づくことができるのではないかと、私は考える。何らかの抵抗が生じることにより、「恋の無限摂動」が減衰するのだ。そして、二人は接近した状態で停止するわけだ。
さて、今回の登場人物は「男」と「女」だけであった。しかし、現実でも、ドラマの中でも、通常は多くの登場人物が登場する。登場人物が「男」と「女」だけというような理想的な条件のみではない。
人の恋路を邪魔する(主人公からすれば)ヤツも必ず登場する。また、特定の登場人物の間では斥力が働くだろう。そのような場合、一体どのような現象が生じるのだろうか。
そもそも、今回の恋する二人の行動パターンは予測可能であったが、現実そのようなことがあるだろうか?果たして、未来の行動パターンは予測可能なのだろうか?色々な登場人物が現れる場合にも、今回の結論は成立するのだろうか?
それらは次回の課題にしておく。題して、「恋の力学 三角関係編- 恋の三体問題- (仮称)」である。「恋の力」を一般化し、多体問題として解いてみたいのである。恋する人達とその周りの人達がどのような行動をするか、恋の三角関係においてどのような力が働いているのか、について解析を行ってみたい。今回は、そのための前準備というわけである。
1999-12-27[n年前へ]
■恋の力学 三角関係編
恋の三体問題
今回はもちろん、
の続きである。前回は、恋の力学を二体間の単純問題に適用したが、今回は複雑系の入門編である三体問題に適用してみたい。二体間の単純問題から三体問題になることで、現実問題に近くなる。また、物語性も大幅にアップする(当社比)。その物語性のいい例があるので、簡単に紹介しておく。小山慶太の「漱石とあたたかな科学」講談社学術文庫の第七章に面白い話がある。- 「明暗」とポアンカレの「偶然」 - である。漱石が、明暗の中でのモチーフにしている「ポアンカレの説明する偶然」について、
- ラプラス -> ポアンカレ -> 漱石
「明暗」の中での登場人物
- 津田
- お延
- 清子
前回の「二体間の単純問題」というのは、「無人島で男と女が二人きり」という舞台設定である。現実にはあり得ない。あぁ、しまった。こう書くと、まるで今回の「三体問題」は「無人島で男二人と女一人」という舞台設定に思えてしまう。これだって現実問題としてあり得ないような気がしてしまう(関係ない話ではあるが、「無人島で男二人と女一人」という舞台設定で始まるジョークは「アメリカ人なら男同士が殺し合い、イギリス人なら紹介されるまで口をきかないから何も起きず、フランス人なら片方は恋人で片方は愛人になり問題は起きず、日本人ならホンシャにどうしたらいいか訊く。」というオチだったように思う。うーん、言い返せない。)。
だが、都会という砂漠が舞台であると思えば、東京砂漠に「男二人と女一人」、あるいは「男一人と女二人」といったような舞台設定は無理がないだろう。そう舞台は東京砂漠ということにしておこう。
それでは、考察を行ってみることにする。まずは解析の条件である。「男」と「女」に関する「恋の力」は前回と同じく、
- 「恋の力」 = 「相手の魅力」 * 「二人の間の距離ベクトル」 / 「二人の間の距離スカラー」
- 「同性に対する反発心」 = 「相手の魅力」 * 「二人の間の距離ベクトル」/ 「二人の間の距離スカラー」
- 「恋の力」-「同性に対する反発心」 = 優柔不断度 * 「恋の加速度」
それでは、以下に計算結果をグラフにして示してみる。まずは、「女」「男1」「男2」全員が同じ資質を持つ場合である。この場合、「三すくみ」状態に陥る。
- 「女=赤」 位置=0, 速度=0,魅力=10,優柔不断度=10
- 「男1=黒」 位置=5, 速度=0,魅力=10,優柔不断度=10
- 「男2=青」 位置=-5, 速度=0,魅力=10,優柔不断度=10
この「女」を中心にして、「男」達が身動きが出来なくなった状態はよく見かけると思う。ねるとんなどでよく見かける風景である。ただし、この状態が発生している理由は「男1」と「男2」そして「女」の魅力が全く同じ状態であるからだ。
ほんの少しでも「男1」と「男2」に有利な点があれば、この状態は一変する。次に示すのは「男1」が「男2」よりも1%だけ魅力がある場合である。その1%は理由は何であっても良い。例えば、偶然駅で出会ったなどでも良いだろう。
- 「女=赤」 位置=0, 速度=0,魅力=10,優柔不断度=10
- 「男1=黒」 位置=5, 速度=0,魅力=10.1,優柔不断度=10
- 「男2=青」 位置=-5, 速度=0,魅力=10,優柔不断度=10
その一方、「男1」と「女」は幸せイッパイだろう。クヤシイくらいである。全く...
また、「女」に大きな魅力があった場合には、先の「三すくみ」状態ではなく、見事な「三角関係」に陥る。これは、三すくみ状態を打破するのに十分な魅力が「女」にあるからである。
- 「女=赤」 位置=0, 速度=0,魅力=20,優柔不断度=10
- 「男1=黒」 位置=5, 速度=0,魅力=10,優柔不断度=10
- 「男2=青」 位置=-5, 速度=0,魅力=10,優柔不断度=10
「女」を中心にして「男1」と「男2」が右往左往する様子が手に取るように分かる。これも世の中にはよくあるケースだろう。涙無しには見ることのできないグラフである。いや、もしかしたら、私の周りだけかもしれないが...
もちろん、この場合も「男1」と「男2」の魅力にほんの少しでも違いがあれば、状態は一変する。今度は「男2」に「男1」よりも1%魅力が多くあるものとしてみよう。
- 「女=赤」 位置=0, 速度=0,魅力=20,優柔不断度=10
- 「男1=黒」 位置=5, 速度=0,魅力=10,優柔不断度=10
- 「男2=青」 位置=-5, 速度=0,魅力=10.1,優柔不断度=10
「女」の心が「男1」と「男2」の間で揺れ動いている様子がわかると思う。「男」は「恋の力」と「同性に対する反発心の力」により、右往左往状態である。これぞ、リアルな三角関係である。この場合、果たして「男1」が勝つのか「男2」が勝つのか、よくわからない。どの時点で「勝ち」を決めるかで大違いである。また、「女」にすらその結末は予想できないのではないだろうか。「女」自身も相手を決めた本当の理由はわからないと思われる。
これは、もう複雑の極致であるが故に、何の予想もできないのである。
ここまでの話はまるで天文学者が頭を悩ます三体問題のようである(いや、もちろんあちらが本家だが)。天文学者は天体の三体問題に頭を悩まし、我々は恋の三体問題に頭を悩ますのだ。どちらも、実にロマンチックである。
こうして、今回の話の結末はよくわからないままになってしまった。やはり、ここは「明暗」の津田のつぶやき、
「偶然? ポアンカレのいわゆる複雑の極致?なんだかわからない」という言葉で締めくくろうと思う。漱石は偉大である。
さて、「恋の力学」シリーズはまだまだ続く。近日公開とはならないかもしれないが、次回作の予告をしておこう。
- 恋の力学 運命の人編 - 偶然と必然の境界線 - (仮称)
2000-02-14[n年前へ]
■ウルフルズ空間の一次独立
殿馬のベクトル空間
本屋で何の気なしに買った
- 別冊宝島491 音楽誌が書かないJポップ批評5 宝島社
- 漫才師が演芸場の観客中に見る「決して笑わない客=死神」は、漫才師が「見えていないもの・言い忘れたこと」を囁き続ける。ウルフルズにとってJohn.B.Chopperはその「決して笑わない客」であった。
- 重しとしてのJohn.B.Chopperがいなくなったウルフルズには「底抜けの明るさ」がなくなった。
- 「できることは…自分の席の傍らに、どんなに混んでいようと、自分の死神のための席を一人分確保すること」という言葉をウルフルズに贈る。
やはり、同じような話題でfreddie氏の
- 「ジョン・B・チョッパー脱退に関するfreddie的思い入れ」
- ( http://www.clockworkfreddie.com/music/m004.html )
- ウルフルズにとってJohn.B.Chopperは冷静な判断を仰ぐことができる存在ではなかったか、
- John.B.Chopperのような人は、ある種残酷なところを持ち合わせていて、興味がなくなればあっさりと次へ行ってしまうのではないか、
これらの二つの文章の視点を考えてみる。まずは、広瀬陽一氏の文章は
- 「一人」を欠いてしまったバンドを第三者的に眺めた文章
- 「一人」に去られた側の視点から書かれた文章
そこで、私は死神としての「一人」を主人公として捉えた視点から考察をしてみたい、と思う。
広瀬陽一氏の文章中にとても面白い内容が書かれていた。John.B.Chopperを指してトータス・松本が言った言葉
「ドカベン」で言ったら殿馬みたいなヤツ。ひとりだけ客観的で、でもセンスはある。僕はそういうところが愛おしかったんねんけどね。僕らは、この仕事に自分は向いているかどうかでは、悩まない。でも、あいつはその悩みから逃れられんかったからね。( 「R&Rニューズメーカー」 2000/1 )である。
このトータス・松本の言葉はとても的確だと思う。特に、「この仕事に自分は向いているかどうかで悩む」というところだ。そして、「ドカベン」の殿馬を出しているところがまた非常に面白い。「ドカベン」の中では殿馬は常に野球を続けるかどうかで悩み続けている。
あるグループ(バンド)を考えてみる。そのグループを構成するメンバー達にはそれぞれ各自のベクトルがあるだろう。それらの各メンバーのもつベクトルの組み合わせで表現できる世界が、そのグループ(バンド)が表現できる世界であり、空間である。
いきなり、グループ(バンド)の話からベクトルか?と思われるかもしれないが、そう不自然ではないだろう。何しろ、よくバンドの解散やメンバーの脱退で使われるフレーズは「各自の方向性(ベクトル)が違った」である。そうベクトルなのである。
さて、あるメンバーのもつベクトルが、他のメンバーが持つベクトルを組み合わせてみても表すことのできない場合がある。つまり、一次独立である場合だ。グループ(バンド)の表現できる世界を広くしようと思ったら、メンバー各自は一次独立である方が良い。n人のバンドで各自が一次独立であれば、n次元空間を表現できる。
実際には、グループ(バンド)のメンバー各自が一次独立だったら、「各自の方向性(ベクトル)が違った」で解散することになるだろうから、一次独立なメンバーは一人(ないしは二人)が良いところだろう。だから、その貴重なグループ(バンド)の一次独立ベクトルは表現空間の広さのために極めて重要だと思うのだ。
ただ、その「一人」は他のメンバーから一次独立であるが故に、「独立」していくことが多いはずだ。ザ・ドリフターズの荒井注もそうであるし、ウルフルズのJohn.B.Chopperもそうだ。トータス・松本の「John.B.Chopperが音楽を続けるかどうかで悩み続けていた」というのは、「John.B.Chopperがドカベンの殿馬である限り必然」といえるだろう。
そしてまた、彼らが「独立」してからのグループは前とは明らかに変わってしまった、という人も多い。それもまた、重要な一次独立のベクトルをなくしたのだから当然である。
ところで、「ドカベン」の殿馬の名前は「一人(かずと)」である。確かに、そうでなくてはならないだろう。