hirax.net::Keywords::「美術館」のブログ



2000-02-24[n年前へ]

「モナリザ」の自己相似形 

48x48の「世界への微笑」

 以前、

で、
 ASCII文字で描かれたモナリザを初めて見たのは、まだ大型コンピューターしかなかった頃だ。当時、記憶媒体の紙テープをパンチした紙くずと、ラインプリンタから出力されたASCIIアートで遊んでいた。
と書いた。

 私がモナリザを見たのはこのASCIIアートのモナリザが初めてだった。何故か住宅の天井裏にASCIIアートをモチーフにしたカレンダーが貼られていた。天井裏に貼られたモナリザはとても趣があった、と思う。
 そういうわけで、初めて見たモナリザは、カラーではなくて白黒の、しかもASCIIアートのモナリザだったのである。

 もちろん、そのモナリザはもうどこにもいない。そこで、

の時にバージョンのIMAGE2ASCIIでモナリザをASCIIアートに変換したのが下の画像だ。
 
モナリザのASCIIアート

 こんなに縮小してしまうと、ASCIIアートに見えない。そこで、顔(特に目)の辺りの部分の拡大図を下に示してみる。
 

モナリザのASCIIアートの顔(特に目)の辺りの部分の拡大図

 こうしてみると、ASCII文字であることはわかる。しかし、全体像は全く見えなくなる。「これが、モナリザの目の辺りだ」と言っても全く信用されないことだろう。

 こういう画像を考えるときは、全体像と拡大図の両方を感じなければいけない。拡大図しか感じられないと、「木を見て森を見ない」状態になる。そして、全体像しか見ない場合には「実際の所をなにも知らない」状態になる。

 さて話を戻す。私が眺めていたASCIIアートをのモナリザを初めとして、モナリザほど「本歌取り」の「本歌」に使われているものもない。「モナリザの微笑」からは、沢山の人が色々なものを引き出してきた。「モナリザ」の微笑はどうにも奥深く見えるから不思議である。その微笑の先に何があるのかを深く考えさせる。その答えはなかなか見つけられない。
 そういうわけで、東京都美術館で開催されていた「モナリザ100の微笑」を先日見に行ってきた。

 特に、私が見たかったのはこれである。福田繁雄の「世界への微笑」だ。
 

福田繁雄 「世界への微笑」

 もう、おわかりだと思うが、これは切手によるコラージュである。このモナリザの顔(特に目)の辺りの部分の拡大図を次に示してみる。
 

「世界への微笑」のモナリザの顔(特に目)の辺りの部分の拡大図

 拡大すると、全体像が全く判らなくなるというところは、ASCIIアートと全く同じである。こういった、離れてみると、やっと何が描かれているかわかる、という画像はとても面白い。

 そこで、今回はそういう画像を作成してみたい。つまり、「小さな画像の集合が集まって一つの画像になる」ようなものだ。

 それに加えて、先ほど

「モナリザ」の微笑はどうにも奥深く見えるから不思議である。
と書いた。「モナリザの微笑」を眺め考えると、その先には結局「モナリザ」しか見えてこない。答えが見えないのである
 まるで、それはタマネギのようで、自己相似形という言葉さえ思い起こさせる。

 そういうわけで、小さな「モナリザ」が集まって一つの「モナリザ」となるような画像を作成してみることにした。逆に言えば- 「モナリザ」を見つめていくと、その先にさらに小さな「モナリザ」が見えてくる- という画像である。

 そういう画像を作るために、簡単なアプリケーションを作成してみた。それが、これである。

名前はjoconde.exeだ。画像を読み込み、その画像をその画像自身の縮小画像(48x48個)で表現するのである。福田繁雄は切手や国旗で「モナリザ」を表現した。私は48x48個の「モナリザ」で、さらなる「モナリザ」を表現するのである。
 いつものごとく、色々な画像のフォーマット対応のためにはSusieプラグインを必要とする。もちろん、言うまでもないと思うが信用度はアルファ版以下である。

 さて、作成した画像 - 題して、48x48の「モナリザ」 -を次に示そう。「モナリザ」の微笑は「モナリザ」でしか表現し得ない、という私の気持ちの表れである。この画像をクリックすれば、元のサイズの- 48x48の「モナリザ」 - を見ることができる。
 

jun hirabayashi 作 48x48の「モナリザ」

 この画像では、48x48個の「モナリザ」でできていることはわかりづらい。そこで、上の画像のモナリザの目の辺りを拡大したものが以下である。
 

jun hirabayashi 作 48x48の「モナリザ」 部分

 この - 48x48の「モナリザ」 - を眺めていると、「モナリザ」の微笑について色々と考えてしまう。どこが、一体魅力となっているのだろうか? いくら考えてみても、よくわからない。

 さて、モナリザと言うと、夏目漱石と「モナリサ」にも言及しなければならないだろう。しかし、それは次回のココロだ。
 

2001-01-21[n年前へ]

カンバスから飛び出す「名画の世界」 

作者の視点から眺めてみれば

 先日、新穂高ロープウェイスキー場へ行った。雄大な景色に囲まれたとても素晴らしいスキー場だ。その景色を思わずデジカメで撮ったのが下の写真である。まずはこの「写真をじっくりと眺めて」みて欲しい。
 

新穂高ロープウェイスキー場から眺めた景色

 私が感じた「雄大な景色」は伝わっただろうか? きっと私の感じた「雄大な」感じは百分の一も感じられないに違いない。それでは、次に片目をつむって、もう片方の開いた目だけでこの写真をもう一度眺めてみてもらいたい。そうすると、今度は一体どんな風に感じられるだろうか?今度は、立体的に浮かび上がる山と谷が浮かび上がってくるハズである。

 この「片目で写真を眺める」というのは南伸坊の「モンガイカンの美術館」の中で書かれている「写真の見方」である。その一部分を引用してみると、

 ヒトの視覚の特殊性というのは、横に並んだ二つの目が、それぞれ違った映像を感じて、それが脳ミソでかきまぜられて、立体を感じるようになっていることなのだった。

 一方、カメラというのは、もともとが片目で見た映像なのである。ファインダーをのぞいていないほうの目を、カメラマンがあけたままであっても、写ってきた写真は片目の映像には違いない。これを両目で見れば、「写真は立体を平面に置き換えたものである」という正論が見えてしまうばかりである。だから、写真を、実物からうける視覚の印象と同じように見ようとするなら、片目で見なければいけないのである。

 私はこれを初めて読んだときは、目からウロコが落ちたような気持ちになった。それまでは、私は写真を「じっくりと眺め」ようとして、両目でじっくりと眺めてしまっていたのである。両目、すなわち、作者とは異なる視点からじっくりと眺めてしまっていたのである。写真に切り取られている景色は作者の視点・場所から描かれているのだから、その場所からじっくり眺めてみれば、もっとそこに切り取られている世界を感じることができたに違いないのだが、そこをちょっと勘違いしていたわけだ。

 映画のセットは撮影しているカメラの位置から見るのが正しいのであって、それ以外の位置から見ても意味がない。違う角度から見てみても、それはあまり面白くないのである。いや、もちろん映画村とかユニバーサルスタジオとかそんなのも繁盛しているくらいだから、実は裏側から見るのも面白いのだろうが、それはあくまで表から見終わった後での、「裏の眺め」なわけだ。

 そういったわけで、写真を眺めるときには「(作者と同じ)片目でじっと眺める」のが良いわけであるが、それは写真だけに限らない。平面に描かれたものであればそれは何だって同じである。普通の絵画だって、版画だって、もう何でもそうだ。例えば、このモネの「散歩、日傘をさす女」を両目と片目で眺めてみよう。これはモネが家族を光り輝く景色の中で描いた名画である。
 

The Stroll, Camille Monet and Her Son Jean
Claude Monet

 両目でじっくり眺めてしまうと、いまひとつ感じられない風の感じや空気の透明感が、片目で眺めると躍動感と共にあなたの目の前に迫ってくることと思う。片目でこの画を眺めるとき、私達の目はセザンヌが「彼(モネ)は眼である。しかし、何という眼だろう。」と評したモネの目と一体化し、モネが眺めた景色を私達も眺めることができるのだ。

 というわけで、写真に限らず平面に描かれたものであれば、私は片目で作者と同じ視点に立って眺めてみるのが面白いと思うわけだ。平面に描かれた写真や絵画には、作者の片方の目から見た視点しか描かれていないので、私達も同じように片目で見てやればあとは私達の想像力が作者のもう片方の視点を作りだし、作者の感じた世界を立体的に感じることができるのである。
 

 と、そんなことを新穂高ロープウェイスキー場のリフトの上でぼぅ〜と考えていると、少し面白いことを思いついた。平面に描かれた写真や絵画には、作者の片方の目から見た視点しか描かれていないのであれば、もう一つの視点を想像して、そのもうひとつの視点から眺めた情報を絵画に加えてしまえば良いのである。

 簡単に言えば、オリジナルの画に描かれている物体の距離に応じて、左右の視差をつくってやった二枚の画像を作れば良いのである。そして、その二枚の画像を左右の目で眺めてみれば、作者が同じく左右の目で眺めている景色、作者が描こうとしたものを眺めることができるかもしれない、と思ったのだ。もちろん、その処理にはいくつかの面倒なこともあるのだが、その処理の細かい内容・注意についてはまた次回以降に説明してみることにして、今回はまずはそういう処理をしてみた名画を見ていくことにしよう。

 というわけで、これが作者の視点情報を勝手に加えて3D化したモネの「散歩、日傘をさす女」hirax.netEdittionである。この二枚の画像を平行法、つまり右の絵を右の目で眺めて、左の絵を左の目で眺めてみたならば、キャンバスの中で佇んでいる妻カミール・モネと息子ジーンが、キャンバスの中から浮かび上がってくるはずだ。その時、二人の背景の青い空もより深く見え、空気の透明感も流れる風が流れる時間と共に浮かび上がってくるのである。
 

The Stroll, Camille Monet and Her Son Jean
Claude Monet
hirax.net Edittion

 このThe Stroll, Camille Monet and Her Son Jean hirax.net Edittionを眺めれば、あなたもモネの視点から、彼の両目に映るカミール・モネを感じることができたことと思う。平行視が苦手な人は目の力を抜いて、ゆっくり挑戦してみてもらいた。平行法のコツはぼぅ〜と遠くを眺めるように、目の力を抜くことである。

 この「散歩、日傘をさす女」は単に紙で作ったニセモノのパノラマの景色みたいに見える、という人がいるかもしれないので、次にシャガールの「窓」も同じように眺めてみよう。まずは、オリジナルの「窓」である。
 

Window 
Chagall, Marc

 そして次が、作者の視点情報を勝手に加えて3D化してみたシャガールの「窓」hirax.netEdittionである。これも同じく、平行法で描かれている。シャガールが眺めている窓の向こうの景色、世界が深い奥行きと共に目の前に出現するハズである。
 

Window 
Chagall, Marc
hirax.net Edittion

 さて、写真にせよ絵画にせよそれは作者の視点から世界を切り取ったものである。その「切り取る」という作業は、このシャガールの絵のタイトルではないが、"window"=「窓」そのものである。限られた「窓」によって画家の感じた世界の一部がカンバスの上に切り取られる。それは逆に言えば、カンバス上に画家の感じた世界へ開かれた「窓」が開いている、ということでもある。 

 もちろん、私達の視点は必ずしも作者の視点とは同じでないし、作者が世界を切り取った窓もごく限られた小さな窓だろう。だから、なかなか作者が感じた世界を共有することはできないだろう。しかし、作者の視点を想像しながら、作者の切り取ったごく限られた窓に立って外を眺めてみる時、きっとそこには描かれている世界は生き生きと見えてくるに違いないと思うのである。
 

2001-02-11[n年前へ]

もう一つの目から眺めた世界 

hirax.net式「平面画像立体化法」

 先日、出張のついでに本屋で野田秀樹の「20世紀最後の戯曲集」を買った。電車の中で冒頭の「RightEye」を読んでいると、こんな台詞があった。

 オレはもう二度と、立体写真を見ることができない。立体星座早見盤とか、アトラス立体地図とか、ああいうのが見れなくなるんだぞ。
「Right Eye」は野田秀樹自身の右目失明、カンボジアで亡くなったカメラマン一ノ瀬泰造、被写体を執拗に追いかけるパパラッチ達、そして死んでいった一人の女性が姿形を変えながら絡み合っていく話だ。

 立体写真を見ても立体感を感じるかどうかは人それぞれであるし、空にかかる虹を眺めてみてもそれが何色に見えるかはやはり人それぞれだろう。「平面画像を立体化する話」の話を書いてみても、それを眺めることができない人もいるし、Photoshopを使った話を書いてもPhotoshopを持っていない人には面白くないだけかもしれない、そしてオッパイ星人の話を書けば(いつもバストを大きくしがちなのは、わかりやすさの都合上だったりするだけなのだが)、それで不快になる方も多々いることだろう。

 それでも、今回も立体画像の話、「平面画像立体化」の続きを書く。

 
 さて、こんな平面画像があったとしたら、どのようにしてやれば立体化することができるだろうか?
 

こんな平面画像があったら?

 人間が立体感を感じる大きな手がかりの一つが両眼視差だ。遠くにあるものを眺める時には、右目と左目にはほぼ同じように見えるが、近くにあるものを見る時は右目と左目の場所が違うため、右目と左目では違う景色が見えることになる。例えば、下の図のように緑色の○が遠くにあって、青色の□が近くにあった場合を考えると、緑色の○は右目からも左目からも同じように見えるが、青色の□は左目からは視界の右側に見えるし、右目からは視界の左側に見える。
 

左目(上)と右目(下)から見える景色が違う

 この左目と右目からの見え方の違いを頼りにして、立体感を得るのが両眼視差である。であれば、左目用と右目用に別々の画像を用意してやり、その位置のズレを意図的に作ってやれば立体的に見ることができるわけだ。

 例えば、下の画像のように青色の□を右へずらしてやり、これを左目用の画像に使えば、立体感を得ることができる。
 

位置のズレを意図的に作ってやると?

 下の画像はそのようにしてやることで、一番最初に示した図を立体的に見えるようにしたものである。この図は平行法= 「左目で左図を見て、右目で右図を見る」なので、遠くをぼう〜っと眺めるつもりでこの図を眺めれば、きっと青い□が近づいて見えて、この図が立体的に見えるようになるハズだ。
 

こうすると立体的に見える
(平行法 = 遠くをぼう〜っと眺めるつもりで左目で左図を見て、右目で右図を見る。)

 こういった方を用いれば、立体画像を作ることができるわけで、実際「立体星座早見盤」というようなものはそういうやり方で作成されているわけではある。

 だが、実は一般的に「平面画像を立体化しよう」とすると、話はそう簡単ではない。それは、こんな図を立体化しようとする場合を考えてみればわかると思う。
 

じゃぁ、こんな図はどうやってやれば立体化できるの?

 「さっきと同じで、青い□の位置をズラしてやれば良いんじゃないの?」と簡単に言う人は少しばかり考えが足りない人である。ちょっとでも考えてみさえすれば、大きな問題に気付くハズである。この図のように背景がある場合には、青い□の位置をズラしたら、そのズレた部分は一体どうしてやれば良いのだろうか?
 

しまったぁ!見えない部分があるぞ?

 この部分に何があるかは判らない。だとしたら、単純に青い□の位置をズラすわけにはいかない。考えてみれば、そもそも一つの目から見た情報しかないのだから当たり前なのである。もう一つの目から見た時の情報は我々の手元には無いのである。そこの部分をどうしたら良いかは我々にはわからないのである。

 しかし、そうは言っても立体化するためにはこの青い□の位置を左へズラしたい。だけど、位置をズラしたらその部分が真っ白になってしまう。だけど、やっぱり立体化したいからズラしたい。"Toshift it or not to shift it; that is the question."というわけで、これはもうハムレットの心境のようになってしまう。このジレンマを解決してやらなければ、背景がある、あるいは距離の異なる物体が視野の中で重なっている平面画像を立体化することはできないのである。

 そこで、「できるかな?」ではそのジレンマを解決するために、単に位置をズラすのではなくて、青い□を拡大しつつ位置をズラすというやり方を考えてみたのである。名付けて、hirax.net式「平面画像立体化法」だ。

 例えば、上の画像の場合だとまずは青い□を拡大して、その後右へズラすのである。
 

hirax.net式「平面画像立体化法」
まずは拡大して(左図)、その後位置をズラす(右図)

 上の絵を見ればわかるだろうが、青い□を拡大してやると、元の図形と重心は同じだが、その周りに青い□が拡大することになる。そこで、その拡大した分だけであれば、位置をずらしてやっても背景の画像情報が無い場所が露出してしまう、ということがなくなる。このhirax.net式「平面画像立体化法」はつまり、隠された部分が部分的に露出してしまうのを防ぐために、それ以外の部分を隠してしまうというテクニックなのである。
 
 そのようにして、先の一枚の平面画像を立体化すると下の図のようになる。
 

hirax.net式「平面画像立体化法」を使って
立体化してみた画像
(平行法)

 前回作成したシャガールの「窓」hirax.net版などはそのようにして作成したものである。この画像の場合は窓枠部分は全く同じなのであるが、窓の中の景色を拡大後、左右の目用の画像をそれぞれ左右にズラしている(ズラし量は高さによって変えている。すなわち景色の中で遠くの部分と近く区の部分ではズラし量を変えている)のである。だから、よくこれらの画像を眺めてみれば、景色部分はオリジナルよりもhirax.net版は大きくなっているし、絵の中に描かれている情報自体もむしろ減少していることがわかると思う。
 

Window 
Chagall, Marc 
hirax.net Edittion
 
オリジナル版

 まずは、hirax.net式「平面画像立体化法」の原理がこの「画像の一部を拡大してからズラす」ということなのである。このやり方でシャガールの「窓」のような絵は立体化してやることができる。

 しかし、多くの人が気付くと思うがこれだけではまだまだ不十分なのである。最初の例えのように、四角や丸の形状の物体だけがある場合などはこれで十分なのだが、一般的にはさらなる問題が発生するのである。シャガールの「窓」の場合には、窓枠がほぼ四角と丸の組合わさったような形状をしているために、その問題は発生しないのであるが、一般的な形状の場合には話はそう簡単にはいかないのである。そんな場合、すなわち四角や丸の形状の物体だけで画像が構成されていない場合には、どんな問題が発生し、それをどんな風に解決していくことができるか、については次回以降に考えてみることにしたい。
 

 さて、冒頭で読んでいた「Right Eye」の中の「立体写真を見ることができない」という台詞はこんな感じのカメラマンに対する台詞で続けられていく。

 この写真を撮った奴らは、右目(Right Eye)をなくしてる。立体感がない。正しい(=right)右目と、覗きたい左目とのバランスを失っている。物を捉える立体感をなくしたままだ。
この台詞を眺めていると、前回の話を読んだ人であれば、その中で引用した南伸坊の「モンガイカンの美術館」の中で書かれている「写真の見方」の文章をきっと思い出すことだろう。
 一方、カメラというのは、もともとが片目で見た映像なのである。ファインダーを覗いてないほうの目を、カメラマンがあけたままであっても、写ってきた写真は片目の映像には違いない。
 これを両目で見れば、「写真は立体を平面に置き換えたものである」という正論が見えてしまうばかりである。だから、写真を、実物からうける視覚の印象と同じように見ようとするなら、片目で見なければいけないのである。
 つまり、立体感を失った平面画像を眺めるときには、カメラマンあるいは画家と同じように覗きたい片目だけで覗かなければならないのであった。そして、その平面画像に奥行きを与えもう一度立体画像にしてやるためには、hirax.net式「平面画像立体化法」ではないが、違う場所から眺めたときに「姿を現してくる隠されたもの」についてどう対応するかということを考えてやらなければならないと思うのである。

 それは、片目で平面画像を眺めて、そして頭の中でその立体感を与える作業をしてやっても良いかもしれない。また、両目を開けて考えてみても良いかもしれない。ただ、ファインダーを覗いてないほうの目で景色を眺めようとする時には、見えていない景色を想像したり、考えたりする必要があると思うのである。その想像力は、ある意味義務でもあるし、また貴重な自由でもあるのかもしれないなと、電車の中で、ドアに寄りかかりつつ「RightEye」の最後の台詞

のこされた(=left)ものは、のこされた瞳(left eye)で、のこされた夢を見続ける義務がある、… いや自由がある
を眺めながら、そんなことを考えてみたりした。
 

2001-10-06[n年前へ]

トトロぴょんぴょん 

 TVでやってた三鷹の森ジブリ美術館の展示物。ジャグラーのトトロ版ですね。きっと、こんな展示物の前からどうしても離れない女の子がいるんだろうなぁ。
 井の頭公園なんてほんとうに懐かしいなぁ。(リンク)(リンク

2001-11-24[n年前へ]

hirax.netの美術館 

PLAY BACK

 
 
 もうすぐ師走、年賀状を作る季節になりました。ヘンなポストカードを作って、色んな人に贈ってみたいという人もきっと多いはずです。そんなあなたのために、「できるかな?」でこれまで使ったヘンな画像達のいくつかを展覧会のように並べてみました。

 これを眺めていると、ポストカードを作る何かのアイデアが湧くかもしれません。あるいは、何か他のアイデアが湧くかもしれません。

 何はともあれ、hirax.netの美術館にようこそ。夕方の閉館時間までお楽しみ下さい。


 
 
 
 
「Igot a (N)Icon Camera.」
jun hirabayashi1999

 Profile代わりに置いているもの。「謎かけのようだ」、「こんなもので何がわかる」と実に不評であるらしい。
 縦軸はデザイン上の都合で(x10)されています。ケアレスミスとの噂も…。
 
 
 
 
 
 

 「A HappyNew Year!.」
jun hirabayashi 2001

 サンディエゴをFinePix700で。そういえば、この後すぎにFinPixが壊れたのだった…。
 これは、喪中だったが、hirax.net用に作ってみたもの。
 


 
 
 
 
 
 

 
 
 
 
 
 
「淡くて儚い昔のアルバム」(部分)
junhirabayashi 2001

 「集合写真を集めた集合写真」。これを遠目に見ると、右の写真のようになる。あなたが眺めた一年を集めて、一枚の写真を作るのは如何でしょうか。
 

「笑顔で作った一枚の写真」
junhirabayashi 2001

 笑顔を集めて一枚の写真を作ったもの。笑顔がつまった年賀状なら、きっと次の一年は素晴らしい一年になるかもしれません。
 


 
 
 
 
 
 

 
 
 
 
 
 
「ゼロックス写真とセンチメンタルな写真」
jun hirabayashi1999

 荒木経惟の「センチメンタルな写真、人生 - Sentimental Photography,Sentimenatal Life - 」を見に行って、自分でもやってみたもの。左は普通の写真で、右はゼロックス写真風にしてみたもの。
 「カラーコピーの色っていうのは、妙になまめかしい」と荒木経惟は言いますが、そんな「なまめかしい色」の年賀状は如何ですか?
 

「A3用紙の広さの世界」
jun hirabayashi2001

 September 11からの一連のことから、考えて、作ってみた写真。左上に重なっている絵は「野火」という画像です。

 こんな写真ではおめでたくはないですね…。

 


 
 
 
 
 

 
 
 
 
 
 

「小さな掌に未来の地球儀をのせて」
junhirabayashi 2001

 「送られたカードを組み立てると、小さな地球ができあがる」というカードはいかが?もちろん、掌にのる小さな地球はあなただけの地球です。
 

 「モノポリー」HIRAX.NET Edition
junhirabayashi 2000

 「WEBサイトでMONOPLOY」から。それぞれの場所はそれぞれのサイト。個性溢れた小さなMONOPLYカードを送るのは如何でしょう。


 
 
 
 
 
 

 
 
 
 
 
 
「記憶の中の風景」
junhirabayashi 2001

 「できるかな?」特製の色鉛筆風のメキシコのティファナの風景。「昔見た風景」をリアルに描くことは、リアルな写真とは違う。水彩画でカラフルに描かれた世界の方が「記憶の中の風景」に近いこともあります。
 
 
 
 
 

 「Everythinglooks better in black and white.」
jun hirabayashi2000

   Paul SimonのKodachromeの歌詞は、元はEverything looks worsein black and white.だったが、
何時の間にか、Everything looks better in black and whiteに変わったといいます。
 何時の間にか、白黒の世界の方がきれいに見えてきてしまうこともあるのでしょう。


 
 
 
 
 
 

 
 
 
 
 
「ミウラ折りのラブレター」
jun hirabayashi2001

 「ミウラ折りの落書き紙」で作った「ミウラ折り」のカード。このカードに、思ったことを書き留めて贈ってみるのは如何でしょう?
 

 

日傘をさす女hirax.net Edittion 
jun hirabayashi2001

 「日傘をさす女」から。モネの「日傘をさす女」を立体化したもの。過去の世界が生き生きと動き出すさまを眺めてみると、実に不思議に感じる。

 そんなノスタルジックな立体写真カードは如何でしょう?


 
 
 
 
 

 
 
 
 
 
「言葉にされたモナリサ」 (部分)
junhirabayashi 2000

 「モナリザの自己相似形」で作成したもの。
 私がモナリザを見たのはこのASCIIアートのモナリザが初めてだった。何故か住宅の天井裏にASCIIアートをモチーフにしたカレンダーが貼られていた。天井裏に貼られたモナリザはとても趣があった、と思う。そういうわけで、初めて見たモナリザは、カラーではなくて白黒の、しかもASCIIアートのモナリザだった。

 「言葉でつづる一枚の絵」を贈るのも、趣があるのではないでしょうか?
 

 「愛で描いた仲間由紀恵」
junhirabayashi 2001

 「純愛で世界を描ききれ」で作った「純愛スクリーン」で描かれた仲間由紀恵。

 愛を込めて作った一枚の写真をあなたの大好きな人に贈るのは如何でしょう?なかなか相手には届かないかもしれませんが…。
 

 


 
 
 
 

 
 



■Powered by yagm.net