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2001-01-27[n年前へ]

オッパイ星人の力学 仏の手にも煩悩編 

時速60kmの風はおっぱいと同じ感触か?

 本サイトhirax.netは「実験サイト」というジャンルに分類されることが多いようである。何が実験で、何が実験でないのかは私にはよくわからないのだが、とにかく「実験サイト」と呼ばれるサイトは数多くある。そして、その数ある実験サイトの中でも、人間そして愛について日夜取り組んでいるサイトの一つが「性と愛研究所」である。

 その「性と愛研究所」を読んでいると興味深いことが書いてあった。テレビ番組の「めちゃめちゃイケてる!」の中で何でも「時速60キロの風圧はおっぱいの感触である」と言っていたらしい。そしてまた、「性と愛研究所」では「おっぱいの感触と風圧に関する考察」の中で、「時速60kmでは全然おっぱいの感触ではなくて、ちょうど時速100kmを境に急におっぱいの感触を感じます。」というメールを紹介しながら、

「時速100kmの風では、本物は触れないけどお手軽に疑似体験、名付けて『プリンに醤油でウニ』ではなくなってしまう。それでは、まるで『キャビアにフォアグラでトリュフの味』だ。青少年のために疑似おっぱいを探してあげる必要があるな。」
と結論づけている。

 この「時速60kmの風」現象は「できるかな?」的にとても興味深いと思われるので、今回じっくりと考えてみることにしてみた。そして、この結論に何らかのプラスαをしてみたいと思う。

 そう、前回「オッパイ星人の力学 第四回- バスト曲線方程式 編- (2001.01.13)」でオッパイの表面で働いている力について考えてみたのは、実は単に今回・そしてさらに次回の話のための準備だったのである。(さて、ちなみに今回は会話文体をメインに話が進む。「性と愛研究所」ではないが、この手の話は会話文体の方が書きやすいように思うし、私のバイブル「物理の散歩道」でも「困ったときの会話文体」と言われていたので挑戦してみた次第である。言うまでもないが、AもBも私が書いてはいるが、私自身ではない。)
 

A : 「東名高速で出勤途中に確認してみたんだが、やはり時速100kmあたりが妥当な感じだったな。」

B : 「何を根拠に妥当なのかがよくわからないが、確かに時速60kmでは手に何かが触っているという感触すらないな。それにしても、哀しい出勤の景色だぞ、それ。」
A : ほっとけ!だけど、少し考えてみると、このおっぱい(ニセモノ)の感触問題は結構面白く、技術的にもなかなかに深い話だと思うんだよ。」
B : 「はぁそうですか…、としか言いようがないな。」
A : まぁ、聞け。何しろこのおっぱい(ニセモノ)の感触問題には流体力学のエッセンスがぎっしりと詰まっているんだからな。」
B : 「そんな話は聞いたことはないが、とりあえず聞かせてもらおうか。」
A : 「このおっぱい(ニセモノ)の感触問題を解くためには、とりあえず車の窓から手を出したときの指の周りの空気流を計算すれば良いわけだ。」
B : 「ちょっと待て。何で指の周りなんだ。手のひらじゃなくて?」
A : 「簡単なことさ。試しにおっぱいを揉む仕草をしてみろよ。」
B : 「こ、こうか?あぁ?手のひらじゃなくて指で揉んでるっ!
A : 「そうだろ。何故かわからないが、おっぱいを揉む仕草=Mr.マリックが超魔術をかける時のような指使いらしいんだよ。」
B : 「うむ、確かにそのようだな。」
A : 「だから、時速60kmの風からおっぱいの感触を受けているのは指先だと考えるのが自然だろ。それなら、とりあえず下の図のような「指の間を抜けていく空気の流れ」を計算してみれば、おっぱい(ニセモノ)の感触問題が解けるわけだ。」
B : 「実写の手に二次元の計算結果を三次元的に合成するという凝った処理が、実にクダラナイことに使われている例だな…」
車の窓から手を出して、指の周りの空気流を計算しよう
  高速で走る車の窓から手を出して、その手の指の間を抜けていく空気の流れを計算しよう。

 鉛直方向の指の等方性を考えて、右の図に示すような指を輪切りにするような水平面のみを考える。

 こんな写真を撮るときに、自己嫌悪に陥りがちなのは何故だか知りたい今日この頃。

A : 「こういう「空気の流れ」ような流体の力学は、ニュートンのプリンキピアに始まり、オイラーとベルヌーイにより非圧縮・非粘性の理想流体の運動方程式とエネルギー保存則が導かれた。それがオイラーの運動方程式とベルヌーイの式だ。オイラーの運動方程式はちなみにこんな感じだ。」
 

オイラーの運動方程式

加速度 = 外力 + 圧力勾配力
 
v : 速度
s : vに沿ってとった座標
t : 時間
p : 圧力
K : 外力

A : 「基本的には「加速度 = 外力 + 圧力勾配力」という形だな。この非圧縮・非粘性の理想流体の場合はラプラシアンがゼロのポテンシャル流れと呼ばれる単純な流れになる。試しに、そんな場合をNast2Dを元にしたプログラムで計算してみた結果はこんな感じになる。ホントはこの計算自体は完全な理想流体ではないのだが、まぁ大体はこんな感じだ。」

B : 「おっ、あっという間に計算したな。」
A : 「まぁ、ポテンシャル流れならエクセルでもちょちょいと計算できるくらいだからな。ちなみに、これは窓から手を出してしばらくしてからの空気の流れだ。」
 
粘性が(ほとんど)ない時の指の周りの空気の流れ

A : 「で、どうだ?」

B : 「いや、どうだ、と言われても困るが、なんかキレイだな。だけどちょっと小さくて見にくいなぁ。」
A : 「そう言われれば確かにそうだ。じゃぁ拡大してみるか。」
 
粘性が(ほとんど)ない時の指の周りの空気の流れ (拡大図)
空気は右から左へ流れている。いや、指が右から左へ移動していると言った方が良いか?
B : 「で、この結果から何がわかるんだ?」
A : 「この図で空気は左から右へ流れているわけだが、左端の空気の速度と右端の空気の速度は、実は同じなんだ。」
B : 「そう言われても、よくわからないが?」
A : 「指を通り過ぎてく空気は、指をとおる前後で運動量がそのまま変わってないってことさ。つまり、空気は指を通り過ぎる時になんら抵抗を受けてないってことだ。」
B : 「えっ?おかしいじゃないか、それなら逆に言えば指も空気から何の抵抗を受けないってことか?
A : 「そういうことだ。これがダランベールのパラドックスだ。」
B : 「じゃぁ、何か?この指先に感じるまぎれもないおっぱいの感触はだとでもいうのか!? そんなのオレは認めないぞ!」
A : 「まぎれもない、っていうほどのものでもないし、ニセモノおっぱい自体は何か一種の幻のような気もするが、もちろん感触自体は幻であるハズはない。そもそも、空気をサラサラな理想流体として取り扱ったところが間違っているわけだ。そこで、登場するのがナヴィエとストークスだ。彼らはオイラーの運動方程式に粘性を導入した。全てはおっぱいの感触を説明するため、だ。」
B : 「それウソだろ。ナヴィエとストークスが聞いたら怒るぞ。」
非圧縮流体に対するナヴィエ・ストークスの方程式

加速度 = 外力 + 圧力勾配力 + 粘性力
 
v : 速度
t : 時間
p : 圧力
K : 外力
μ: 粘性係数

A : 「見ればすぐわかるだろうが、この非圧縮流体に対するナヴィエ・ストークスの方程式は、最後に粘性項が入っている以外はオイラーの運動方程式と全く同じだ。」

B : 「なるほど。こうしてみると意外に簡単な式だな。」
A : 「あぁ、オイラーの運動方程式に粘性項が入っただけだからな。そのせいで計算はちょっと複雑になるが、最近のパソコンならノープロブレムだ。というわけで、粘性を考慮して計算してみた結果が次の図だ。」
 
 
粘性を考慮した指の周りの空気の流れ
B : 「おっ、ちょっと様子が違うな。何か、ジェットエンジンみたいに尾を引いてるぞ。」
A : 「そうだろ。指の後ろのl様子がずいぶんと違うだろう。で、これを拡大してみたのが次の図だ。」
 
 
粘性を考慮した指の周りの空気の流れ (拡大図)
B : 「左端の空気の速度はもちろんさっきと同じだが、指の後ろでは空気が渦巻いているし、右端の空気の速度は全然違うな。」
A : 「もっとリアルに、窓の外に手を出したときの、指の周りの空気の動きを時間を追って計算してみた計算結果のアニメーションが次の図だ。指の周りに空気が渦巻いていく様子がよくわかるハズだ。」
 
車の窓から手を出して、指の周りの空気流を計算しよう
 窓の外に手を出したときの、指の周りの空気の動きを時間を追って計算してみたもの。指の周りに空気が渦巻いていく様子がよくわかる。

 メッシュを細かく切ったおかげで、計算結果は1GB弱。なんてこったい。

B : 「指が空気の中を走り抜いていく様子がよくわかるな。確かにこれなら、空気の抵抗を受けまくりだな。」
A : 「そうだ。空気は指から力を受けるし、逆に、指は空気からしっかりと力を受けるわけだ。」
B : 「なるほど、この計算結果は指先に感じるまぎれもないおっぱいの感触を説明しているわけだな。いい感じじゃないか。流体力学そして粘性項さまさまじゃないか!」
A : 「あぁ、それも全てナヴィエとストークスのおかげだ。」
B : 「おやっ?ちょっと待てよ!これでは、ただ現実を説明してみただけで、何の解決にもなってないぞ!時速60kmと時速100kmの風の感触の差を説明しているわけでもないし、青少年のためのもっと安全な擬似おっぱいを提供しているわけでもない!」
A : 「いや、それがそういうわけでもない。実はこの先があるんだ。このナヴィエ・ストークスの方程式の解はレイノルズ数という無次元数によって決定されるんだ。今回の場合で言うと、レイノルズ数は「指の直径x 車の速度 / 流体の運動粘性率」という形になる。そして、このレイノルズ数が大きくなるほど渦が延びていくんだ。」
B : 「なるほど、わかってきたぞ。つまりあれだな。時速60kmから時速100kmに速度を上げれば、それに応じてレイノルズ数が大きくなって、空気の渦もおおきくなるし、おっぱいの感触も確実なものになるわけだな。勉強になるな。」
A : 「う〜ん、実際には密度の違いの方が大きいんだが、ナヴィエ・ストークスの方程式の理解としてはそれでいいかもな。あと、単にレイノルズ数を大きくしたかったら指を太くする、っていうのでもいいわけだ。」
B : 「そう言われても指の太さはなかなか変えられないしなぁ。」
A : 「指サックとか色々手はあると思うが、もっといい方法がある。さっきの式を眺めてみれば流体の運動粘性率が小さくなれば、レイノルズ数は大きくなる。例えば、水の運動粘性率は空気のそれの十五分の一だ。」
B : 「ってことは、水の中だったら、レイノルズ数も大きいし、密度も大きいし、指先に抵抗を受けまくりってことだな。すると、水中で手を動かしてみれば、それは空気中の高速クルージングと同じってことになるな!」
A : 「そうさ、風呂の中で手をひとかきすれば良いだけの話さ。何もわざわざ時速100kmの車の窓から手を出す必要はないんだ。実際、風呂の中で確かめてみたけど、なかなかイイ感じだ!」
B : 「時速100kmで走る車の窓から手を出すのに較べれば、風呂の中で手をひとかきすれば良いだけなんて、まさに青少年のためのもっと安全な擬似おっぱいだな!」
A : 「あぁ、それも全てナヴィエとストークスのおかげだ。」
B : 「それはもういいっ言ってるだろ。」
A : 「ところで、ふと考えてみたことがあるんだ。さっき、指を太くすれば遅い速度でもレイノルズ数が大きくなるって言っただろ。東大寺の大仏なんかかなり指が太いじゃないか。」
B : 「確かに、そうだな。」
東大寺の大仏 (想像図)

A : 「今調べてみると、大仏の掌の長さは256cmだ。つまり普通の人間の10倍くらいある。だったら、指の太さも10倍はあるだろう。ってことは、ほんのそよ風が吹いただけでも、大仏の手にはしっかりとしたおっぱいの感触が感じられているんじゃないのかな?」

B : 「単に手が大きいから空気の抵抗も大きいだけどいう気がしないでもないが、指の長さもでかいしさぞかし超巨乳の感触かもしれんな!そう考えると、あの大仏の手も何か実にイヤラシイ手つきに見えてくるから不思議だな!」
A : 「う〜ん、悟りを開いているから、指先のヘンな感触なんかには惑わされないんだとは思うけどな。しかし、案外と仏もそんな煩悩と日夜闘っていたりするのかもしれないなぁ。しかも、その煩悩がホントーにあるのかもよくわからない幻のような擬似おっぱいってところが面白くないか?大仏の指先は二十一世紀の煩悩そのものを暗示しているのかもしれん。仏の手にも煩悩ってところだな!」
B : 「言いたい放題だな、全く。」


 さて、今回は「オッパイ星人の力学第四回 - バスト曲線方程式 編- (2001.01.13)」と繋がるところまで話が辿り着かなかった。おっぱいの表面張力、マボロシのような指先の流体力学、そして大仏の煩悩をめぐる大河ドラマは人生そのもののようにまだまだ続くのである。
 

2001-07-01[n年前へ]

小さな掌に未来の地球儀をのせて 

この手で地球を作ってやろう

 先日、「サラリーマンとして会社に入ったからには社長を目指すのが当り前」と言う人とじっくりと話をしていた。まぁ、その話の内容はそれはそれで結構面白かったのだけれど、何故かその時私は映画の1シーンを思い出してしまった。チャップリンの映画「独裁者」の中で、世界制覇を目指すヒンケルが地球を模った風船を抱きしめようとして、結局その風船を割ってしまうあのシーンである。

 私と話す相手の背中のずっと向こうにその地球の風船を眺めながら、私はそれとはちょっと違う地球儀をさらに思い浮かべていた。それはこんな正二十面体の小さな地球儀である。正二十面体の表面に地球の表面の写真を描いたものだ。
 

小さな正二十面体の地球儀

 大学の教養の頃だったか、それとも大学院に入ってからだったか覚えていないのだけれど、こんな「正二十面体の地球儀」を先生の一人がよくポケットから出して使っていた。それは、もしかしたら今考えてみればFullerが作ったDymaxionMapに影響されたものかもしれないし、その先生が独自に作ってみたものかもしれない。その辺りのことも聞いたことがあるような記憶もあるのだけれど、聞いた内容はもうとっくの昔に忘れてしまった。ただ、ポケットから小さな地球儀を手品のように取り出す仕草がとてもかっこよく見えたことは覚えている。

 小さな、だけど立派に地球儀の役を果たす正二十面体をサッとポケットから取り出す仕草は、まるでのび太のために秘密道具をポケットから取り出す「ドラえもん」のようだった。もしかしたら、私に「独裁者」のヒンケルより大それた「ドラえもんになりたい」という野望を持たせるに至った理由の一つは、その小さな正二十面体の地球儀にもあったのかもしれない。
 

 その先生が自分で作って持っていたのは、たった一種類の地球儀だけだった。だけど、そんな正二十面体の表面に色んな写真や地図、例えばそれは衛星写真であったり、国別に塗り分けられた世界地図であったり、あるいは月の表面の写真であったり、を貼り付けて色々な地球儀や月儀を作ってみたい、とその頃からずっと思っていた。そこで、そんなことができそうな道具を探してみると、

にある「緑の地球」なんかを使えばできそうな感じである。しかし残念ながら、動作環境OSがあの素晴らしき「超漢字」なのだった。超漢字というネーミングも実に素晴らしいが、OS自体も素晴らしすぎて、もったいなさすぎて、私は未だ使ったことが無いのである。それどころか、未来永劫これからも使うことが全く無さそうな気がするくらいなのである。これでは、残念ながら「緑の地球」を試すことができない。

 しかし、少しばかり考えてみれば「道具をサッとポケットから取り出すドラえもんになりたい」と野望を持つくせに、道具を探すばかりではあまりに恥ずかしい態度ではないだろうか。ドラえもんが人の道具に頼ってばかりでどうする?というわけで、急遽そんなことができるソフトを作ってみた。それがこのIcosahedronである。というわけで、いつものごとく「必要は発明の母」で「父は私」なのである。

 とりあえず、このIcosahedron.exeを使うと、Windows Bitmapファイルとして保存されたメルカトル図法の地図を、正二十面体の展開図に変換した後に、Bitmap画像に保存することができる。

 Icosahedron.exeの使用手順は次のようになっている。いつものように「動いてしまえば、ハイそれまでよ」というプログラミング態度なので、ボタンを押す順番が違うと動作しなかったりするけれど、その時は単に動かないだけで、大した問題はないと思う(多分)。
  1. Loadボタン → メルカトル図法で描かれた地図ファイルを読み込む
  2. Resizeボタン → 作成する正二十面体のサイズを決める。プリンタでの出力解像度、正二十面体の直径(とは言わないかな)を決める。
  3. Convertボタン → 正二十面体の展開図を作成する
  4. Saveボタン → Windows Bitmapファイルとして正二十面体の展開図を保存する
Icosahedron.exeの動作画面

 画面の上半分に読み込んだメルカトル図法の地図が表示され、画面の下半分には作成した正二十面体の展開図が表示される。もっとも、正二十面体の展開図の「のりしろ部分」は一部表示をはしょっているので、下の訂正図を参考にして切り取って欲しい。
 

「のりしろ部分」の訂正図

 上の図のような正二十面体の展開図をプリンターで出力して、さらにそれを切り取って、正二十面体の地球儀を組み立ててみたものが下の図である。
 

作成して切り取った正二十面体の展開図(左図)と
それを組み立てた正二十面体の地球儀(右図)

 ところで、私がかつて在籍していた研究室は「理学研究科 地球惑星科学専攻地球物理学分野 測地学講座」という名前なのである。その名前を見れば一目瞭然、私はまさに「地球を描くための英才教育」を受けてきた?のである。「その実力を見せてやれ」というわけで書いてみたのが下の図だ。これが「私の世界地図」である。
 

これが私の世界地図

 確か地球ってこんな感じ?というわけで書いてみたのだが、どうもおかしい。いや、はっきり言えばかなりヘンである。アメリカ大陸の辺りなんかむちゃくちゃ無理がある。コロンブスが使っていた大航海時代の(アメリカなんかなかった頃の)地図の方がよっぽど正確に違いないのである。そう私には地球を描く実力なんかはなから無いのであった。そう、哀しいけれどこれっぽちも無いのである。

 いや、そんなことはどうでもいいのだ。とりあえず、私の世界地図を使って「私だけの地球儀」を組み立ててみたのが下の写真である。
 

これが「私だけの地球儀」

 まるでSF映画の異世界の星みたいな感じになってしまったが、誰が何と言おうとこれが「私だけの地球儀」なのだ。世界にたった一つの私だけの地球儀なのである。

 もちろん、私には私だけの地球儀があるが、それは誰しも同じハズである。十人十色、十人の人がいれば十個の地球儀があるはずだ。だから、こんな「私の地球儀」だけではなくて、これを読んだ方はぜひぜひ色んな地図を書いたり、手に入れたりして、色んな地球儀(それとも月儀、メルヘンちっくな人だったら例えば「星の王子さま」の「星儀」なんてのもいい感じかも…etc.)を作成してみてもらいたいなと思う。

 そして、特に世界地図を覚えているわけもない小さな子供達に世界地図を書かかせてみて、そしてこんな正二十面体の地球儀を組み立ててみたらきっと面白いことだろう、と思う。「独裁者」の中のヒンケルみたいに地球の風船を抱きしめて遊ぶなんて、とてもイヤな感じだ。けれど、小さな子供達がそれぞれの世界地図を描いて、その世界地図で正二十面体の地球儀を作って、そしてそれぞれの小さな掌にその正二十面体の地球儀をのせて遊ぶ、なんてのはとても素晴らしく良い感じだと思う。

 子供達がどんな世界地図を描くかは想像もできない。きっとずいぶんとヘンテコな世界地図がイッパイ出来上がるに違いない。そして、そんな世界地図から生まれる地球儀だって、奇妙奇天烈なものになること間違いなしだ。
 だけど、その地球儀はもしかしたら未来の地球儀かもしれない。だって、子供達が未来の地球を作るということも、それもまた事実なんだから。子供達が小さな掌に未来の地球を乗せて作っていくのだから、この正二十面体の地球儀は本当に「未来の地球儀」に違いないと思うのだ。
 
 

2002-02-11[n年前へ]

めがねっこ大好き。 

めがねを外すと美人になるは本当か!?

理系=めがねっこ大好き?

 「どんな時に自分を理系だと思う?」と文系人間に聞かれた。私は「うむむ…」と答えに詰まってしまった。そんな私に、その文系人間はまるで勝ち誇ったような表情で「じゃぁ、理系と文系はどう違うと思う?」と畳みかけるように聞いてきた。この手の数限りなくある、「理系と文系」「男と女」はどう違う?という問いには立ち入ってはいけない、というのが私の家の代々の家訓なのであるが、ここで黙りこんでいては「勝ち負け」でいうところの「負け」だと思ったのか、理系の誇りを守るべく、私の口がいきなりしゃべり出した。
 

 例えば、建築で言えば、鉄骨建築が理系で、プレハブ住宅が文系なのである。体で言えば、皮膚の感覚を大事にするのが文系で、骨から組み立てていくのが理系なのである。つまり理系は骨があるのである。そして、詩で言えば、散文詩は文系で定型詩が理系なのである。つまり、理系は型にこだわる部分があるのである。

 だから、例えば理系は女子高生の制服が大好きなのである。色々ある女子高生をセーラー服(あるいはブレザー)という記号で記号・集合論的に取り扱うことを可能にし、その記号を言葉にし、ついにはその制服を見るだけで萌えることができるのである。それが理系なのである。

 つまりは、「このアイドルがなんとなく好き」というのが曖昧模糊としたものが文系であるならば、「このアイドルがめがねっこだから好き」という確固とした意志それすなわち理系なのである。理系=めがねっこ大好きなのである。

 と、スキーのモーグル競技でコントロールを失い、コースアウトしてしまう選手のように私の口は暴走を続け、理系=めがねっこ大好き、という辺りではもう「勝ち負け」でいうところの「負け犬」であるようにしか思われず、理系の誇りを守るどころか、理系を単に汚しただけに終わってしまった。そこで、悔しさのあまり、今回は「めがねっこ」に対し理系的なアプローチで近づいてみることにした。そして、私が汚してしまった理系の汚名をすすぎたいと思うのである。
 

「めがねを外すと美人になる」は本当か!?

 よく、少女マンガなどで、「ヒロインが眼鏡をとると美人になった」というストーリーをみかける。今はどうだか知らないが、少なくとも昔はよくそんなストーリーを見かけた。あれは果たして本当だろうか。そして、それが本当であるならばそれは一体どんな物理現象なのだろうか?そして、ヒロインが眼鏡をとると美人になった」というストーリーと「めがねっこ大好き」というそ相反する二つの事象はどんな原因に基づいているのであろうか?それを理系的なアプローチで明らかにしてみたいと思う。
 

 めがねはもちろん視力が悪い場合に、その矯正を行うための道具である。近視の人であれば矯正のために凹レンズをかけるし、逆に遠視の人は矯正のためには凸レンズをかける。凸レンズと言えば、虫眼鏡と同じで、何かの近くにレンズを持っていけばそれが拡大されて見える。また、逆に凹レンズであれば、対象物が小さく見える。
 

凹レンズ(右)と凸レンズ(左)
凸レンズでは文字が大きく見え、凹レンズでは文字が小さく見えている

 だから、近視の人が凹レンズである眼鏡をかけた場合には、その人の目が他の人からは小さく見えてしまうのである。実世界でも、少女マンガの世界でも大きな瞳は美少女の象徴であるが、近視の人が眼鏡をかけると、大きな瞳を持つ美少女でもちっこい瞳になってしまうのである。

 試しに、仲間由紀恵に凹レンズの眼鏡をかけさせた場合の、シミュレーションを行ってみたのが下の結果である。左のめがねをかけた「近視の」仲間由紀恵は確かにキレイではあるけれど、右の仲間由紀恵の方が、美少女という魔性の魅力という点で遙かに勝っていることが判るだろう。
 

近視の場合
めがねをかけた「近視の」仲間由紀恵
めがねを外した「近視の」仲間由紀恵

 そう、近視の人の場合には、「めがねを外すと美人になる」は物理的に本当なのである。近視の人の割合は国によって大きく違うらしいが、少なくとも現代の日本では近視の人の割合は圧倒的に多い。ほとんどの人が近視である、といっても良いくらいである。ということは、そんな日本では「めがねを外すと美人になる」はかなりな確率で事実である、と言えるわけだ。
 

 それでは、「めがねを外すと美人になる」ということと相反するとしか思えない「めがねっこ大好き」現象をどう説明したら良いだろうか?一つは、遠視の場合先の近視の場合と逆のことが起きる、ということである。すなわち、遠視の人の場合には、眼鏡をかけると瞳が大きく見えるのである。すなわち、眼鏡をかければ、美少女の象徴たる大きな瞳が手に入るのである。

 下の「遠視の」仲間由紀恵の場合の眼鏡シミュレーションを見てみると、めがねをかけたことでずいぶんと美少女度がアップしていることが判ることと思う。まさに、その瞳には魔性の魅力が宿っているとしか思えないほどなのである。
 

遠視の場合
めがねをかけていない「遠視の」仲間由紀恵
めがねをかけた「遠視の」仲間由紀恵

 ということは、「眼鏡を外すと美人になる」は本当。ただし、近視の人の場合は、ということなのだ。そして、もし遠視の人であれば、「眼鏡をかけると美人になる」が本当なのである。

 とはいえ、日本人では遠視の人は少ないわけで、それではめがねっこを増やす原因たる「眼鏡をかけると美人になる」が少なくなってしまう。そこで、他の原因を考えてみると、例えば近視の人が裸眼の時には瞳の口径を小さくすることで、被写界深度を深くする、すなわちハッキリとものを見ようとして、目を細めがちであること、すなわち小さな瞳になりがちであること、なども原因の一つとして考えられるだろう。

 そしてまた、実は近視の程度が低い場合には、「めがねっこ大好き」現象を支えるもう一つの事実がある。レンズの度数がきつくなくて、他の人から見た瞳の拡大縮小が行われないような場合にも、眼鏡をかけると実は心理的に瞳の大きさが変わって見えるのである。

 下の「目が小さい」仲間由紀恵は左右で目の物理的な大きさは完全に同じである。が、心理的には結構違って見える。眼鏡をかけた仲間由紀恵の方が目が大きく見えることが判ると思う。「目が小さい」場合、めがねをかけると瞳が大きく見えるのである。
 

めがねっこチェック
「目が小さい」場合、 めがねっこの方が絶対可愛い〜。
めがねをかけていない
「目が小さい」仲間由紀恵
めがねをかけた
「目が小さい」仲間由紀恵

 日本人は目が小さい人が多いから、このような眼鏡をかけると心理的に瞳が大きく見える影響は無視できないに違いない。

 ところが、目がもともと大きい場合には、この現象はそれほど大きく現れるわけではない。もともと瞳が大きいがために、眼鏡をかけたからといって割合的にそれほど瞳が大きく強調されたりはしないのである。その例を下に示す。下の二枚は目の物理的な大きさは完全に同じなのであるが、心理的に受ける瞳の大きさ=美少女度の違いは上の例ほどではないことが判るだろう。
 

めがねっこチェック
「目が大きい」場合 …う〜ん、あまり差がない〜。
めがねをかけていない
「目が大きい」仲間由紀恵
めがねをかけた
「目が大きい」仲間由紀恵

 ということで、

  • 瞳が多きい近視の人の場合、眼鏡を外すと美少女になる
  • 目が小さかったり、遠視だったりする人の場合、「めがねっこ」=美少女になれる
などのさまざまな知見を理系的アプローチで見つけることができ、これまでの少女マンガなどに描かれたストーリー達が実は物理現象をこと細やかに描写した事実に即した観察日記であったことが明らかにされたわけである。

ところで、理系と文系…

 さて、理系的「めがねっこ大好き論」も良いのだが、話をそもそもの「どんな時に自分を理系だと思う?」という問いに戻ろう。

 よく私が見かけるパズルは大抵が論理的なパズルだ。論理的=理系ではないから、それを理系パズルと呼ぶのはいけないと思うが、あえてそれを理系パズルと呼んでみる。間違っているのを承知で、あえてここではそう呼んでみる。

 そんな理系のパズルでもやっぱり色々あるだろう。大抵のそんなパズルの答えは答えがただ一つに限られるものだろうが、時にはその答えが無限にあるものもあるかもしれない、そして答えが一個もないパズルだってあるかもしれない。そしてまた、「答えを見つけられないこと」を証明できるようなパズルだってあるだろう。だけど、いずれにせよ、そのパズルを解く過程で現れようとする「割り切れない何か」は「それが割り切れる軸」を駆使することで、巧妙に消し去っていくことができる。だから、とてもそれは結構気持ちが良い作業だ。少なくとも、私にはそうだ。あるいは、答を判定するものが、自分ではない論理なり自然現象に任せられているから楽なのかもしれない。

 だけど、もしそんな論理的なパズルとは違う非論理的なパズル、ここではあえて文系のパズルと呼ぶようなものがあったとしたら、その答えは「割り切れない何かを拾い集めたようなもの」であるような気もする。そして、その解く過程はもしかしたら割り切れない感情や雰囲気を拾い集めて、割り切れないままに何とか答えを投げ出しいく作業であったりするのかもしれない。それに、そこでは答を判定する何かなんかそもそも存在しないか、あるいはその判定する何かが人であるのかもしれない。

 私には、そんな「割り切れないままに何とか答えを出していく作業」はちょっと辛いなぁと思う。やっぱり、私は理系パズルの方がずっと楽で気持ちが良い。だから、今度「どんな時に自分を理系だと思う?」と聞かれたら、そんなことを上手く言えたらいいな、と思う。いつも、思い浮かべたことを伝え続けたいな、と思う。

2002-03-12[n年前へ]

今日の面白かったこと 

 以前、何かの榊原教授のセミナーを聴いたときになんとも上手い話し方をするなぁ、と感嘆したので、そういう人の説明を直接聴ける貴重な時間は忙しいときだからこそ、ということで東京へ。
 「あれ?」とびっくりするくらい聴いている人は年輩の方が多いが、そんなことはおいておき、今日「そーいえば、そーだったっけなー」と思ったのは、メキシカンハットがガウス関数の微分という一言だった。「MexicanHatでWavelet変換をかけるときは、ガウスの微分に分解している。もし、ガウス関数で表されるような現象であれば、それはその微分に展開している」という物理的な意味として使うのに面白いかも、と思ったのだった。結果的には、その一言を聴くためだけに行ったようなものだけど、コストパフォーマンスは悪くないかな。

2002-05-19[n年前へ]

風上に向かう「しょんべん小僧」 

「しょんべん小僧」の物理学 逆風編


 近所の海辺で、不思議なお堂を見つけた。迷路のような曲がりくねった裏小路を抜けて行くと、小高く鋭い丘があって、その上に小さな八幡宮が建っている。そして、その丘(というより小高い岩)の中腹には小さな不動堂が建っている。かつては不動堂がその丘のヌシであったらしく、その丘は不動岩と名付けられている。とにかく、本当に小さいけれど、とても不思議な空間なのである。そして、その不動岩のてっぺんで潮風に吹かれて体が冷えたワタシは、バチ当たりにも立ちションをしてしまったのだ。

 恥ずかしい話ではあるが、ワタシはトイレが近い。長〜い重要な会議中、カリカリと鉛筆の音が響く試験中、ビアグラスがぶつかる音が溢れる居酒屋で、あらゆる時、あらゆる場所でソレをもよおすワタシは、あらゆる場所でソレをする。もうそれは散歩中の犬並といっても良い位にソレをしまくるのである。

 思い起こせば、観光バスで首都高速を走っているときに、いつものようにソレをもよおしたワタシは、観光バスに満載された同級生達(もちろん共に満載である)の視線を背中に浴びまくりつつ、首都高速の道路沿いで立ちションにいそしんだことすらあるくらいだ。そして、さらに真相を書いてしまえば、その時にはあまりの背中に降り注ぐ視線のイタさに(膀胱に押し寄せる強風波浪に関わらず)ろくに放水活動ができなかったことも、今となっては懐かしくも哀しい思い出なのである。

 海辺の不動岩の上で潮風に吹かれながら、そんな「立ちしょんべん」にまつわるエトセトラを思い出したワタシは、久々に「しょんべん小僧」の物理学パートツー- 風に向かって「立ちしょんべん」をするにはどうしたら良いか -を考えてみたい、と思うのである。逆風に負けずに立ちションを遂行するためにはどうすれば良いかを考えることにより、時と場所を選ばず立ちションを遂行したいと思うのである。

 そこで、まずは、「立ちションベン」のパラメーターを決めてみよう。もちろん、立ちションには色々なパラメータがある。もちろん、人によっても違うだろうし、状況(観光バスの視線を集めたワタシのソレは明らかに「普通の立ちション」ではなかった…)によっても違うことだろう。しかし、ここはひとまず「しょんべん」の初速と放水を行う「銃筒」の角度を適当に決めてみる。つまり、立ちションがどの向きにどれだけの速さで放出されているかを決めてみるのである。
 

ちょっとリアルな「しょんべん小僧」
「銃筒」を構え、水平撃ち中の「しょんべん小僧」

「しょんべん小僧」の物理学- あともう一歩、前に出ろ - (2000.10.29)

 下左のグラフは「銃筒」を水平撃ちする歳の「しょんべん」の初速と、その場合の「しょんべん」の軌跡である。「銃筒」から「しょんべん」が秒速2,3,4mで飛び出すときの「しょんべん」の軌跡を計算してみたモノだ。縦軸が鉛直軸、横軸は立っている場所を0とした時の水平距離を示している。単位はいずれもメートルである。ショーという感じで放水中の立ちションの様子がよく判ると思う。「しょんべん」を放つ「銃筒」の高さは70cmとちょっと低めにしてしまったが、普通もう少し高い場所にあるのが自然だろう。
 飛翔中のしょんべんが受けるの空気抵抗も、この計算中では考慮してあるが、この段階では未だ特に風が吹いているわけではないので、しょんべんの軌跡は大体放物線と似通っているものになっている。このグラフを眺める限りでは、しょんべんの初速は秒速3m位に設定するのが自然に思われる。場合によっては(どんな場合だ!?)、もう少し違うような感じもするのだが、とりあえず平均値としては「しょんべん」の初速は3m/s位で良いように思われる。
 

「しょんべんの初速」と「銃筒の角度」が違う場合の軌跡の違い
青 : 2m/s
黒 : 3m/s
赤 : 4m/s
青 : 下向き30度
黒 : 水平撃ち         
赤 : 上向き30度

 そして上右は試しに、「しょんべん」を放つ「銃筒」の放出角度を変えた場合の「しょんべん」の軌跡を計算してみた場合の「しょんべん」の軌跡である。ここでは下向き30度、水平撃ち、上向き30度の三種類をやってみた。この三つの場合の結果、そして色々な「しょんべん小僧」を見る限りでは、「しょんべん」の狙い方としては水平撃ちが普通だろう。自らの経験と重ね合わせてみても、「しょんべん」は水平撃ちが「安定度・飛距離」共に優れており、それ故にそのやり方が一般的ではないかと思うのである。
 

 さて、こんな感じで大雑把に初速度を決めてみたところで、本題の風が吹いている場合の「しょんべんの軌跡」を計算してみた。下のグラフが、潮風に吹かれながら風上に向かって放水作業を行う場合の「しょんべんの軌跡」である。つまりは逆風に晒されたしょんべん小僧のしょんべんの軌跡である。

 左は吹いている風の風速を0〜28m/sまで変えてみた場合のしょんべんの軌跡を計算してみたものだ。しょんべんはもちろん風上に正確に狙いを付けている。このグラフを見ると、風が強くなるに従い、しょんべんの軌跡が風に吹かれて自分の足元に吹きながされているのが判ると思う。風速3m/s位では、「しょんべんの飛びが何だかちょっとなんか違うかな?」という程度であるが、風速28m/sにもなると、自分の足元に押し戻される程度では済まず、何と自分の足先に「しょんべん爆弾」が見事に誤爆してしまっている。何とも恐ろしい事態である。秒速28m/sの風= 時速50kmの風圧と言えば、それはすなわちCカップバストの感触(擬似オッパイに関するhiraxの関係式)であるわけであるが、その「天使のCカップバスト」を装う魔の風に銃筒を向けて「しょんべん」を撃った瞬間に、何と自分の足先に天罰が下ってしまうのである。恐るべき、逆風なのだ。
 

風が吹いている時の「しょんべんの軌跡」の違い
左 : 風速の違い
右 : 銃筒の角度 (風速28m/s下)
黒 : 0m/s (時速0km)   
赤 : 3m/s  (時速10km)  
青 : 8.5m/s  (時速30km)
緑 : 28m/s  (時速55km)
 
青 : 水平撃ち          
黒 : 下向き30度
風速 = 秒速28m, 時速55km

 そこで、もちろん、そんな強風の中での立ちしょんべんをする場合に誤爆しないようにするためには、いくつかの対策がある。もちろん、誰でも思いつく一番判りやすい方法が「しょんべん」が銃筒を飛び出す初速や構える銃筒の角度を変えるというものである。風に負けない強さでしょんべんを放水したり、飛距離が出なくても良いから、風に流されにくいような銃筒の角度に狙いを変えるというものだ。右のグラフは、例えば銃筒の角度を水平撃ちを止めて、「しょんべん爆弾」が風に流されて誤爆しないように、下向き30度の速射タイプに変更してみたものである。自分の足に見事に命中していたしょんべん爆弾が、なんとか誤爆せずに地面に吸い込まれていることが判ると思う。
 

  ところで、実は立ちションベンにはたくさんのパラメーターがある。ションベンの初速度と銃筒の角度だけではないのである。実は地味だが、大きなパラメータが数多くある。その内の一つが、しょんべんを撃つの銃筒の口径なのである。風が吹いていないような場合にはあまり関係ないが、風が強くて空気抵抗がとてもとても無視できないような場合には、この銃筒の口径は大きく効いてくるのである。空気抵抗の大きさ自体が口径の二乗で効いて、ションベンの質量は口径の三乗に比例するから、結果として口径に比例して空気抵抗の影響が小さくなる。すなわち、口径が小さいと風の影響を強く受け、口径が大きいと風の影響を受けにくいのである。つまりは、細くショワァーと放水するか、太くジョワァーと放水するかどうかはとても重要なのである。

 というわけで、下のグラフが風速28mの逆風下で「しょんべんを水平に撃つの銃筒の口径」を変えてみた場合の計算結果である。口径を大きくすることで、風の影響を受けやすい水平撃ちをしているにも関わらず、しょんべん爆弾の誤爆を楽々と防ぐことができているのが判るだろう。風吹く中で立ちションを力強く安定してするためには、何より放水口の口径を大きくすることが大切なのである。
 

しょんべんを撃つの銃筒の口径を変えてみた場合
青 : 半径 4mm 
黒 : 半径 3mm
赤 : 半径 2mm
(風速28/s = 55km/h下における水平撃ちの場合)

 というわけで、「逆風に負けずに立ちションを遂行するためにはどうすれば良いか」「時と場所を選ばず立ちションを遂行するためにはどうしたら良いか」を考えてきたワタシは、「しょんべんを撃つの銃筒の口径を太くするべし」という結論を得たわけである。と、書きつつ「そんなことできるかぁー」と叫びたくもなるが、日々鍛錬をすることで、いつ日かそんなワザを拾得し、あらゆる時と場所で、雨ニモ風ニモ負ケズ、そして「天使のCカップバスト」を装う魔の風にも負けないワタシになりたい、と思うのである。

 ところで、そんな「しょんべんを撃つの銃筒の口径を太くしたりする」ことが既にできるヤツラもいるのである。それはもちろん、ションベン小僧達である。だから、街中に立っているションベン小僧達、強い逆風に晒されりすることの多いションベン小僧達は、「銃筒の口径」がきっと太いのではないか、とワタシは想像するのである。なかなか、彼らのソレの口径を計ったりする機会には恵まれないのではあるが、きっと彼らは太くジョワァーと放水をすることで、風に負けない立ちション生活を貫いているのではないか、とワタシは想像したりするのである。ワタシもいつの日か、力をつけて彼ら逆風に負けないションベン小僧のようになりたいと思うのである。  …どう特訓するのか判らないけど…。
 



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