hirax.net::Keywords::「距離」のブログ



2001-02-11[n年前へ]

もう一つの目から眺めた世界 

hirax.net式「平面画像立体化法」

 先日、出張のついでに本屋で野田秀樹の「20世紀最後の戯曲集」を買った。電車の中で冒頭の「RightEye」を読んでいると、こんな台詞があった。

 オレはもう二度と、立体写真を見ることができない。立体星座早見盤とか、アトラス立体地図とか、ああいうのが見れなくなるんだぞ。
「Right Eye」は野田秀樹自身の右目失明、カンボジアで亡くなったカメラマン一ノ瀬泰造、被写体を執拗に追いかけるパパラッチ達、そして死んでいった一人の女性が姿形を変えながら絡み合っていく話だ。

 立体写真を見ても立体感を感じるかどうかは人それぞれであるし、空にかかる虹を眺めてみてもそれが何色に見えるかはやはり人それぞれだろう。「平面画像を立体化する話」の話を書いてみても、それを眺めることができない人もいるし、Photoshopを使った話を書いてもPhotoshopを持っていない人には面白くないだけかもしれない、そしてオッパイ星人の話を書けば(いつもバストを大きくしがちなのは、わかりやすさの都合上だったりするだけなのだが)、それで不快になる方も多々いることだろう。

 それでも、今回も立体画像の話、「平面画像立体化」の続きを書く。

 
 さて、こんな平面画像があったとしたら、どのようにしてやれば立体化することができるだろうか?
 

こんな平面画像があったら?

 人間が立体感を感じる大きな手がかりの一つが両眼視差だ。遠くにあるものを眺める時には、右目と左目にはほぼ同じように見えるが、近くにあるものを見る時は右目と左目の場所が違うため、右目と左目では違う景色が見えることになる。例えば、下の図のように緑色の○が遠くにあって、青色の□が近くにあった場合を考えると、緑色の○は右目からも左目からも同じように見えるが、青色の□は左目からは視界の右側に見えるし、右目からは視界の左側に見える。
 

左目(上)と右目(下)から見える景色が違う

 この左目と右目からの見え方の違いを頼りにして、立体感を得るのが両眼視差である。であれば、左目用と右目用に別々の画像を用意してやり、その位置のズレを意図的に作ってやれば立体的に見ることができるわけだ。

 例えば、下の画像のように青色の□を右へずらしてやり、これを左目用の画像に使えば、立体感を得ることができる。
 

位置のズレを意図的に作ってやると?

 下の画像はそのようにしてやることで、一番最初に示した図を立体的に見えるようにしたものである。この図は平行法= 「左目で左図を見て、右目で右図を見る」なので、遠くをぼう〜っと眺めるつもりでこの図を眺めれば、きっと青い□が近づいて見えて、この図が立体的に見えるようになるハズだ。
 

こうすると立体的に見える
(平行法 = 遠くをぼう〜っと眺めるつもりで左目で左図を見て、右目で右図を見る。)

 こういった方を用いれば、立体画像を作ることができるわけで、実際「立体星座早見盤」というようなものはそういうやり方で作成されているわけではある。

 だが、実は一般的に「平面画像を立体化しよう」とすると、話はそう簡単ではない。それは、こんな図を立体化しようとする場合を考えてみればわかると思う。
 

じゃぁ、こんな図はどうやってやれば立体化できるの?

 「さっきと同じで、青い□の位置をズラしてやれば良いんじゃないの?」と簡単に言う人は少しばかり考えが足りない人である。ちょっとでも考えてみさえすれば、大きな問題に気付くハズである。この図のように背景がある場合には、青い□の位置をズラしたら、そのズレた部分は一体どうしてやれば良いのだろうか?
 

しまったぁ!見えない部分があるぞ?

 この部分に何があるかは判らない。だとしたら、単純に青い□の位置をズラすわけにはいかない。考えてみれば、そもそも一つの目から見た情報しかないのだから当たり前なのである。もう一つの目から見た時の情報は我々の手元には無いのである。そこの部分をどうしたら良いかは我々にはわからないのである。

 しかし、そうは言っても立体化するためにはこの青い□の位置を左へズラしたい。だけど、位置をズラしたらその部分が真っ白になってしまう。だけど、やっぱり立体化したいからズラしたい。"Toshift it or not to shift it; that is the question."というわけで、これはもうハムレットの心境のようになってしまう。このジレンマを解決してやらなければ、背景がある、あるいは距離の異なる物体が視野の中で重なっている平面画像を立体化することはできないのである。

 そこで、「できるかな?」ではそのジレンマを解決するために、単に位置をズラすのではなくて、青い□を拡大しつつ位置をズラすというやり方を考えてみたのである。名付けて、hirax.net式「平面画像立体化法」だ。

 例えば、上の画像の場合だとまずは青い□を拡大して、その後右へズラすのである。
 

hirax.net式「平面画像立体化法」
まずは拡大して(左図)、その後位置をズラす(右図)

 上の絵を見ればわかるだろうが、青い□を拡大してやると、元の図形と重心は同じだが、その周りに青い□が拡大することになる。そこで、その拡大した分だけであれば、位置をずらしてやっても背景の画像情報が無い場所が露出してしまう、ということがなくなる。このhirax.net式「平面画像立体化法」はつまり、隠された部分が部分的に露出してしまうのを防ぐために、それ以外の部分を隠してしまうというテクニックなのである。
 
 そのようにして、先の一枚の平面画像を立体化すると下の図のようになる。
 

hirax.net式「平面画像立体化法」を使って
立体化してみた画像
(平行法)

 前回作成したシャガールの「窓」hirax.net版などはそのようにして作成したものである。この画像の場合は窓枠部分は全く同じなのであるが、窓の中の景色を拡大後、左右の目用の画像をそれぞれ左右にズラしている(ズラし量は高さによって変えている。すなわち景色の中で遠くの部分と近く区の部分ではズラし量を変えている)のである。だから、よくこれらの画像を眺めてみれば、景色部分はオリジナルよりもhirax.net版は大きくなっているし、絵の中に描かれている情報自体もむしろ減少していることがわかると思う。
 

Window 
Chagall, Marc 
hirax.net Edittion
 
オリジナル版

 まずは、hirax.net式「平面画像立体化法」の原理がこの「画像の一部を拡大してからズラす」ということなのである。このやり方でシャガールの「窓」のような絵は立体化してやることができる。

 しかし、多くの人が気付くと思うがこれだけではまだまだ不十分なのである。最初の例えのように、四角や丸の形状の物体だけがある場合などはこれで十分なのだが、一般的にはさらなる問題が発生するのである。シャガールの「窓」の場合には、窓枠がほぼ四角と丸の組合わさったような形状をしているために、その問題は発生しないのであるが、一般的な形状の場合には話はそう簡単にはいかないのである。そんな場合、すなわち四角や丸の形状の物体だけで画像が構成されていない場合には、どんな問題が発生し、それをどんな風に解決していくことができるか、については次回以降に考えてみることにしたい。
 

 さて、冒頭で読んでいた「Right Eye」の中の「立体写真を見ることができない」という台詞はこんな感じのカメラマンに対する台詞で続けられていく。

 この写真を撮った奴らは、右目(Right Eye)をなくしてる。立体感がない。正しい(=right)右目と、覗きたい左目とのバランスを失っている。物を捉える立体感をなくしたままだ。
この台詞を眺めていると、前回の話を読んだ人であれば、その中で引用した南伸坊の「モンガイカンの美術館」の中で書かれている「写真の見方」の文章をきっと思い出すことだろう。
 一方、カメラというのは、もともとが片目で見た映像なのである。ファインダーを覗いてないほうの目を、カメラマンがあけたままであっても、写ってきた写真は片目の映像には違いない。
 これを両目で見れば、「写真は立体を平面に置き換えたものである」という正論が見えてしまうばかりである。だから、写真を、実物からうける視覚の印象と同じように見ようとするなら、片目で見なければいけないのである。
 つまり、立体感を失った平面画像を眺めるときには、カメラマンあるいは画家と同じように覗きたい片目だけで覗かなければならないのであった。そして、その平面画像に奥行きを与えもう一度立体画像にしてやるためには、hirax.net式「平面画像立体化法」ではないが、違う場所から眺めたときに「姿を現してくる隠されたもの」についてどう対応するかということを考えてやらなければならないと思うのである。

 それは、片目で平面画像を眺めて、そして頭の中でその立体感を与える作業をしてやっても良いかもしれない。また、両目を開けて考えてみても良いかもしれない。ただ、ファインダーを覗いてないほうの目で景色を眺めようとする時には、見えていない景色を想像したり、考えたりする必要があると思うのである。その想像力は、ある意味義務でもあるし、また貴重な自由でもあるのかもしれないなと、電車の中で、ドアに寄りかかりつつ「RightEye」の最後の台詞

のこされた(=left)ものは、のこされた瞳(left eye)で、のこされた夢を見続ける義務がある、… いや自由がある
を眺めながら、そんなことを考えてみたりした。
 

2001-02-19[n年前へ]

ひとりで書いてるだけだから。 

ヘッポコ文章を直したい


   面白い情報を探しにと「お笑いパソコン日誌」を眺めていると、「ウエヤマの事件簿」の「他人の日記をオモチャにしよう!」が紹介されていた。「お笑いパソコン日誌」に〜『できるかな?』風ネタであります〜と紹介されてあった通り、実に私好みの話だった。ウエヤマ氏が「自分で書いてる日記の文章」を解析して、文字の出現頻度を調べてみたものである。

 「できるかな?」は画像や科学の関連の話が多いように見える。しかし、実はそれだけではなくて文章や日記に関する話も多い。例えば、これまでに出てきた話を振り返ってみると、

に始まり、と続く、「文学の世界を眺めてみよう」という話など、あるいは「WEBページで見かける文体の特徴を解析しよう」としたなど、あるいは「WEB日記の文化を眺めて見たい」というなどの話があった。「技術サイト」という分類をされることも多い本サイトではあるのだけど、非技術的な話に強引に技術的な話を持ち込みたくなったり、技術的な話なのに何故かとても私的で非技術的な話が入ってしまったりするのが、良くも悪くも「できるかな?」の特徴だろう。もちろん、良いことでは全然無いのだけれど、こうでも書かないと悲しい気分になってしまうので、「良くも悪くも」と書いているのである。

 そういったhirax.netの特長ならぬ特徴は私が書く文章が下手なせいなわけで、そんなヘッポコ文章から脱出するべく、私の書く文章の特徴を調べて反省してみることにした。もちろん、自分のヘッポコ文章だけを眺めてみてもしょうがない。他の素晴らしい文章を書く書き手と比較しなければならないだろう。そこで、今回はいくつかの文章を品詞解析し、その結果の特徴を調べることにする。そして、書き手による文章の特徴が眺めながら、私のヘッポコ文章の欠点を調べ、さらには誰もが思わず涙がこぼしてしまうような素晴らしい文章を書けるようになりたい、と思うのである。
 

 さて、まずは目標を決めよう。私がヘッポコ文章を脱出してどんな文章を目指すかを、何より先に決めなくてはならない。となれば、あまりにも大それた目標ではあるのだが、やはり日本の文豪、夏目漱石は外せないだろう。そして、その教え子でもある寺田寅彦もやはり外すわけにはいかない。一応私も理系のはしくれ、日本の理系文章の流れを作ったこの二人を目標にしなくてなんとしよう。ヘッポコ文章を脱出していきなり、夏目漱石と寺田寅彦というところに無理があるが、そんなことを考えていては駄目なのである。「少年よ大志を抱け」とクラーク博士も言ったのである。もう少年と言うにはどう考えても年齢的に無理があるのだが、気持ちはまだまだ少年で目標は大きく持ってみたいと思うのである。

 そして、もう一人の目標は「ちゃろん日記(仮)」をマイペースに書き続ける「ななゑ」さんである。私は彼女の書く文章を読むたびにとても素晴らしい理系的センスが感じ続けているのである。しかも、理系的でありつつも笑いと涙のペーソスたっぷりの「ちゃろん文体」という独自の確固とした文体を築いているところも尊敬していたりするのである。

 というわけで、今回の文章の比較は

  1. 夏目漱石
  2. 寺田寅彦
  3. ちゃろん日記(仮) ななゑ
  4. 「できるかな?」 jun hirabayashi
の四人の書き手の文章を適当に二つずつピックアップして、その文章を品詞解析して簡単に特徴を眺めてみることにした。各書き手に対して、それぞれピックアップした文章はである。なお、夏目漱石と寺田寅彦は「青空文庫」から入手した。そして、これらの文章を日本語形態素解析システム茶筌&perlで解析後、Excelでさらに解析・表示を行ってみることにしよう。

 ところで、形態素解析とはどのようなものだろうか。まずは、例を挙げよう。例えば、

私が好きな書き手達は、夏目漱石、寺田寅彦、ななゑさんです。
という文章を茶筌で分解すると、
  1. 私 名詞-代名詞-一般
  2. が 助詞-格助詞-一般
  3. 好き 名詞-形容動詞語幹
  4. な 助動詞
  5. 書き手 名詞-一般
  6. 達 名詞-接尾-一般
  7. は 助詞-係助詞
  8. 、 記号-読点
  9. 夏目 名詞-固有名詞-人名-姓
  10. 漱石 名詞-固有名詞-人名-名
  11. 、 記号-読点
  12. 寺田 名詞-固有名詞-人名-姓
  13. 寅彦 名詞-固有名詞-人名-名
  14. 、 記号-読点
  15. ななゑ 名詞-固有名詞-人名-名
  16. さん 名詞-接尾-人名
  17. です 助動詞
  18. 。 記号-句点
というようになる。このように各文章を品詞毎に分解して、その出現分布から特徴を調べてみるのである。なお、今回注目した品詞は
  1. 読点
  2. 形容詞
  3. フィラー
  4. 感動詞
の四つである。この四つを選んだ理由は、読点は明確な決まりがないだけに書き手の感覚が入りやすいと思われ、形容詞、フィラー・感動詞に関しては書き手の気持ちが素直に現れやすいと思われるからである。ちなみに、フィラーとはから引用すれば、「あのー」「えー」といった語句ということになる。まずは各文章が書き手によってどのくらい特徴づけられるかのイメージを掴むために、形容詞の出現頻度とフィラーの出現頻度を軸にとり、各文章を二次元の世界に配置してみた結果を図示してみよう。
 
形容詞の出現頻度とフィラーの出現頻度を軸にとって、
各文章を二次元の世界に配置した結果

 結構、同じ書き手による文章が同じような位置に配置されることがわかると思う。ちゃろん日記(仮)などは、二つの独立した文章がほとんど同じ位置に配置されている。もう、ちゃろん文体は安定しまくっていて完成されているのである。そしてまた、「文豪」夏目漱石の場合も、「我が輩は猫である」と「坊っちゃん」がかなり近い位置に配置されていることがわかる。

 なるほど、結構書き手による特徴はこんないかにも雑な解析でも評価できるものなのかもしれない(あくまで「遊び」だけどね)。そして、形容詞の出現頻度などは、「雪だるまがいる景色」と「自然と生物」以外は大体同じようなものである。寺田寅彦の「自然と生物」は妙に形容詞の出現頻度が高いところが面白いところである。私の「雪だるまがいる景色」はあまり技術的な話ではなくて、確かに形容詞が多そうな話ではあるのだが、一体「自然と生物」はどうだっただろうか?

 ちなみに、「できるかな?」からの二つの文章は共にフィラーが一個も出てこない。その他の6つの文章にはフィラーが出てくるのであるが、何故か「できるかな?」の二つの文章にはフィラーが含まれていないのである。この差がなければ、寺田寅彦の二編と「できるかな?」はかなり似た場所に位置するのであるが、このフィラーは特に違うのである。

 さて、上の図ではフィラーと形容詞の出現頻度だけを眺めてみたが、読点、感動詞の出現頻度も加えて、クラスター分析を行ってみた。つまり、「読点・形容詞・フィラー・感動詞」の出現分布が似ているものを分類してみたわけである。クラスター分析にはExcelアドイン工房「早狩」の統計解析アドインを使用させて頂いた。ちなみに、クラスターの結合はウォード法を用い、非類似度計算法には標準化ユークリッド平方距離を使用した。その結果が下の図である。
 

クラスター分析の結果

 このクラスター分析の結果を示す図は近い文章をまとめていったものを示している。つまり、文章の「近さ」あるいは「似ている度」を示しているのである。ちゃろん日記(仮)の二編は本当によく似ていて、また夏目漱石の書いた二編も互いに似ている。そして、それより「近い度」は低いが「新宿駅は電気羊の夢を見るか?」は「科学について」に近くて、「雪だるまがいる景色」は「自然と生物」に近い。おして、さらに似ているものを探せば、ちゃろんの二編と「新宿駅は電気羊の夢を見るか?」・「科学について」は似ているといえなくもない、さらに言えばその四編と夏目漱石の二編が似ている。

 ここでは、四人の書き手がいるということが私には判っているので、あえて四つのクラスターに分解してみると、

1.
    • 「雪だるま」がいる景色
    • 自然と生物
    2.
    • 新宿駅は電気羊の夢を見るか?
    • 科学について
    3.
    • ちゃろん日記1998(仮)11月上旬
    • ちゃろん日記1999(仮)6月上旬
    4.
    • 我が輩は猫である
    • 坊ちゃん
という風になる。やはり夏目漱石とちゃろん日記に関してはこんなチープなごく少数の品詞解析でも、「作者の文体が同じである」と解析されてしまうのである。なかなか、スゴイとは思わないだろうか?数多くの解析をしてみるのもなかなか面白いと思う。高校生のレポートくらいだったら、これで何とか書けそうである。

 しかし、その一方で考えてみれば寺田寅彦の名随筆と「できるかな?」のヘッポコ文章が「文体が近い」と解析されてしまっているわけなので、実はこの解析の信頼性はかなり低いと言わざるを得ないところもあるのである。いや、もしかしたら「文体は同じやけど、内容が全然違いますがな」というような冷たいアドバイスを解析結果は言わんとしているのかもしれないが、もうそれは哀しすぎる事実なので考えたくないのである。

 さて、そう言えば一番最初の図で「できるかな?」と寺田寅彦の差はフィラーの出現分布だったわけであるが、「大学の講義における文科系の日本語と理科系の日本語-- 「フィラー」に注目して --」では、「聞き手への働きかけのあるフィラーが多いということは聞き手への配慮が大きいということにつながる」と書いてあった。ということは、フィラーの出現分布は聞き手への配慮に比例するというわけで、「できるかな?」の文章にフィラーが出てこない、ということは読み手に対する配慮がない、なんてことなのかなと思ってしまったりするのである。

 そんなことを考え出すと、ホラどうせひとりで書いてるだけだから読み手のことなんか考えていないのさと、思わず涙がこぼれてしまうような哀しい気持ち、になったのである。う〜む、最初は誰もが思わず涙がこぼしてしまうような素晴らしい文章を書けるようになりたいと思ったったのに、何でこんな結論になるんだろう?

 答え: それは文才がないからです。ハイ。
 
 

2001-03-18[n年前へ]

平均顔の方程式 

いい顔で、「はい、チーズ!」


 先日、メールマガジン「今日の雑学」の中の一話がコメント付きで転送されてきた。その「今日の雑学」の内容は東京大学原島・苗村研究室で作成・公開されている平均顔作成ツールに関する話だった。

 平均顔作成ツールというのは、顔写真を元に目・口・鼻などの部品の位置情報とテクスチャー情報を使い、平均化した顔を作成するツールである。顔写真を元に目・口・鼻などの部品の位置情報とテクスチャー情報を作成するのはFaceToolという別のツールを使うようになっている。例えば、下の画面はFaceToolを使って顔写真から顔の位置情報を設定しているところである。
 

FaceToolを使って顔写真から顔の位置情報を設定しているところ
 FaceToolを使って顔写真から顔の位置情報を設定する作業は、気分的にはまるでアイコラ作成作業のような感じでなかなか楽しい。アイコラを作ったことはないのだが、アイコラを作る気持ちがとても理解できてしまったりするところが面白い。うむむ…

 何はともあれ、なかなか面白そうなツールなので、近くにいた人の写真を撮って、早速昼休みに平均顔を作成してみた。まずは最初の登場人物は

  • 自称「反町隆」似だが人には「ヒロミ」に似ていると言われるいうIs氏
  • グレムリンのギズモ似と言われる某webmaster H
  • ちょっとペコちゃん似のK氏
である。まずは最初に "ヒロミ"Is氏 + "hirax.net"H(しまった、これでは全然某じゃないぞ、と) はどうなるだろうか?自称「反町隆」似のIsのエッセンスを私の顔に注入すれば、「反町隆」似の私になって、松嶋奈々子と結婚することができるかもしれない。もしかしたら、「ヒロミ」似のギズモになってしまう危険が無きにしもあらずだが、とりあえず松嶋奈々子との結婚に目がくらんでやってみた結果が下である。
 
"ヒロミ"Is
+
"hirax.net"H
=
 周りの採点者達に聞いてみたところ、この二人の平均顔は「パっと見た印象はhirabayashiかなぁ。だけど表情の特徴はIsだなぁ。」という感じだった。また、「IsでもHでもなくて、むしろヒガシさん(仮名)に見えるぞ」という意見が大多数だった。これは顔が長いIs氏と短い私(某webmaster)を合成したので、私でもなくIsでもない全然違うヒガシさん(仮名)であるような印象を与えているのかもしれない。
 しかし、とりあえず「反町隆」似の私であると言った人は一人もいなかった。最初の私&松嶋奈々子の計画は失敗に終わり、ちょっと残念である。松嶋奈々子は遠くなりにけり、なのである。

 そこで今度は私の先生でもあるK氏 + "hirax.net"H をやってみた。

 
K
+
"hirax.net"H
=
 すると、今度は見事に採点者達の意見は二つに分かれた。この二人の平均顔の与える印象は「K氏だ」という意見と、「いや、Hさんかなぁ」と分かれてしまうのである。ちょっと似た系の顔なのでそうなったのだろうか?
 もう少しリサーチしてみると、「近くで見るとHで、少し離れて見るとKさんかなぁ」と意見が多かった。目の表情が見える位の距離だと私で、少し離れると女性に見えるのでKさんと感じられるらしい。さらに採点者達の特徴から考えてみると、何はともあれ人に対する判断を「コイツは男か、女か」の二者択一で行う愛の狩人タイプの人達はこの平均顔を「コイツは女性っぽいからKさんだ」と判断し、人の特徴を目の辺りで感じる人達は「コイツはhirabayashiだ」と判断したようだ、ということがわかってきた。人に対する判断基準が男か女かの1bit判定だけだなんて、それでいいのか?という気もするが、愛の狩人達の判断基準は真実その1bitのみなのである。恐るべし愛の狩人達だ。もう何というか、歩く生殖本能としか言いようがない。
 

 それはさておき、こういう風に、二人の平均顔を作成した上で「その平均顔がどっちに見える?」と聞くとこんな風に人の判断基準が判って、とても面白いわけである。その質問の答えで、聞かれた人達がその平均顔に使われた人をどういう印象で見ているか、あるいは、さらに言えばその聞かれた人達が何を頼りに人を識別しているかがわかるのである。

 さて、先の三人の残りの組み合わせK氏 + "ヒロミ"Is氏をやってみると、これがアッサリ系の良い顔になった。美男子か美女かはわからないが、いずれにせよとても整った顔である。採点者の意見としては、「この顔の与える印象はほぼK氏だ」という意見が多かった。IS氏の影響で顔が長くなっているが、それ以外はK氏の印象であるように私も思う。
 

 
K
+
"ゴリラ"Is
=

 私のエッセンスが入らないと、アッサリ系の良い顔になるというところが、実にヤナ感じではあるが、それが事実なのだからしょうがない。何しろ、私は似ていると言われるのがグレムリンのギズモだったり、ETだったり、ヨ−ダだったりするのである。よく「芸能人だったら誰に似てるって言われる?」と聞かれるたびに、言葉に詰まってしまうのである。果たしてギズモは芸能人か?とか、じゃぁヨーダは俳優だったか?と思ったりしてしまうのだ。ETも売れっ子だが、俳優ではなかったハズだし、芸能人ではないだろう。いや、芸能人以前に地球人ですらないヤツラばかりな気も少しばかりしたりするのであるが、それは言ってはダメダメなのである。
 

 ところで、今回は本来の顔の方にはボカシをかけた。だから、これを読んでいる人には本来の顔はわからないようにしている。しかし、今回は3人の未知の顔からなる3個の平均顔の方程式が判っているわけで、これを逆に解けば本来の顔が判ってしまうキケンもあるかもしれない。そんなことを次回以降にでも考えてみることにしたい。また、その他にもこのツールを使って「強烈な顔・印象の薄い顔」トーナメント大会など色々と遊んでみようと思う。そして、その中から人の印象とは何か、特徴と平均とは何かについて、ゆっくりとゆっくりと考えてみたいと思う。

 さて、今回の話のキッカケになった先の「今日の雑学」のメールは「それぞれの職業の典型的な顔」があって、それは例えば会社の中で「職にあった顔」が大量生産されていくのかもしれない、だから

 毎朝鏡を見て、自分が「いい顔」をしているかどうか確認する。
化粧でごまかすのじゃなく、いい顔をしようと努力してみる。その
ことが、日々少しずつ何かの型にはまってしまう自分を押しとどめ、
理想の自分に向かわせていく、そんな気がする。
と締めくくられていた。そして、それに「いつもいい顔をしていたいですね。」とコメントが付けられていた。


 私も本当にその通りだと思う。そんな風に続けていれば、色んなキッカケが繋がって、いつかきっと理想が実現できたりするだろうなぁ、と思っていたりする。
 

2001-04-15[n年前へ]

『日傘をさす女』 

立体絵画のサプリメント

 きっと、車窓からの強い日差しで日傘を連想したのだろう、

「モネの『日傘をさす女』が私の家にも飾ってあるの。だけど、何かWEBで紹介されてたものと何か違って子供もいないし、女の人の顔も何か違うんだけど」
と不意に言われた。あぁ、そうだったと思い出しながら私は
「その絵は一枚だけじゃないんですよ」
と答えた。その絵が何枚も描かれていることを前提にして、あるいは背景にして書いたような覚えも自分ではあったりしたのだが、今読み直すと書いた本人ですらそんなことは全然読みとれない。どうも、行間に隠しスギの文章である。というわけで、少し書き足してみることにした。


 少し前に、

カンバスから飛び出す「名画の世界」-作者の視点から眺めてみれば - (2001.01.21)
の時にモネの「日傘をさす女」をhirax.net Edittionとして立体化してみた。一枚の絵画を元にして、その絵の中の物体に対して距離に応じて左右の視差を意図的につくり、その際に画像の拡大縮小を組み合わせることで、情報量が足りなくなることを防ぐというhirax.net式「平面画像立体化法」である。そして、その時に作った画像が下の二枚の画像である。
 
日傘をさす女
hirax.net Edittion (交差法)

 しかし冒頭の会話の通り、モネが描いた『日傘をさす女』はこの時に使った元絵だけではない。モネは少なくともあと二枚は描いている。
 モネが一番最初に『日傘をさす女』を描いたものが前回使った『日傘をさす女』である。この時のモデルは妻のカミール・モネと息子ジーンである。ちなみに、モネがこの絵を描いたのは1875年だ。そして、その4年後の1879年に妻カミールは32歳にして亡くなっている。

 『日傘をさす女』が再び書かれるのは、カミールが亡くなってから7年後の1886年である。最初の『日傘をさす女』が描かれてから数えると、11年後のことになる。それがアリス・オシュデの娘ジュザンヌをモデルにして1886年に描かれた二枚の『日傘をさす女』だ。それからさらに6年後の1892年にモネはアリス・オシュデと再婚する。

 そのモネが描いた合わせて三つの『日傘をさす女』を下に並べてみる。
 

三枚の『日傘をさす女』
1875
1886
1886

 1875年に描かれた最初の一枚はもちろん妻カミール・モネがモデルである。そして、1886年に描かれた二枚は後に自分の娘となるジュザンヌをモデルにして描かれてはいる。確かにジュザンヌをモデルにして描かれてはいるのだけれど、それは11年前に描かれた『日傘をさす女』と瓜二つである。
 もちろん、カミール・モネとジュザンヌ・オシュデの顔は当然違うだろう。しかし、後に描かれた二枚の違うべきジュザンヌの顔の部分ははっきりとは描かれてはいない。左向きの『日傘をさす女』ではほとんど「のっぺらぼう」と言っても良いくらいだ。だから、モネはジュザンヌをモデルにしてはいるが、亡き妻カミール・モネをその向こうに思い浮かべながら描いていたとも言われる。
 

 『日傘をさす女』を立体化した「作者の視点から眺めてみれば」の時には

 両目でじっくり眺めてしまうと、いまひとつ感じられない風の感じや空気の透明感が、片目で眺めると躍動感と共にあなたの目の前に迫ってきて、カンバスの中で佇んでいる妻カミール・モネと息子ジーンが、その中から浮かび上がってくるはずだ。その時、二人の背景の青い空もより深く見え、空気の透明感も流れる風が流れる時間と共に浮かび上がってくるのである
というように書いた。そして、そんな絵をそれでも二つの目で眺めるときのために、視点からの位置的な距離を元にして左右に視差を作ることでhirax.net式「平面画像立体化法」を行ってみた。一つの視点から見た情報を適当に加工して、「異なる場所から撮った二枚の画像」を作成してみたわけである。

 ところで、「過去を見る右目と、未来を見る左目と」の時の話のように、「異なる場所から撮った二枚の画像」だけが立体画像になるわけではない。「異なる時間から眺めた二枚の画像」だって、立派な立体画像になる。時間の流れの中で何かが変化すれば、左右の目で視差を生じて、私達の目は立体感を感じるのである。ということは、例えば下のように『日傘をさす女』を二枚並べて、右目で右の絵を左目で左の絵をそれぞれ眺めた時には、私達はやはり何らかの立体感覚を感じるのではないだろうか?
 

日傘をさす女
1886
1875

 右目という一つの目で右の『日傘をさす女』を眺めるとき、私達の右目はモネが妻カミールを目の前にして描いた風景を実感することができる。そして、左目で左の『日傘をさす女』を眺めると、ジュザンヌをモデルにして筆を走らせているモネの眺めている風景を実感することができる。そんな風に眺めると、モネが眺めている同じ場所で流れていった時を両目で見ることになるわけだ。時間が流れるその時間の立体感を私達は眺めることができるわけだ。

 もちろん、この二枚の絵は構図などはほとんど同じではあるが、それでもかなりの部分が異なる。単純に立体視しようと思ってみてもなかなか左右の目から眺める映像が一致しないことだろう。だから、実際のところこの二枚の絵を立体視できる人はなかなかいないに違いない。
 

 そんな左右の目から見える状態が明らかに異なる場合、両眼視野闘争( BinocularRivalry )と呼ばれる現象が生じる。右目あるいは左目の片方からの映像が最初は意識され、それが短時間毎に入れ替わるのである。例えば、下の画像を立体視してみればそんな左右からの映像が入れ替わる様子を見ることができると思う。
 

両眼視野闘争 ( Binocular Rivalry )
 
 あまりに離れた場所から撮った立体写真や、あまりに離れた時間から映し出される立体画像では、左右の目から眺める景色があまりに違ってしまい、そんな両眼視野闘争が生じやすい。今回並べてみた二枚の『日傘をさす女』もそうなのだろう。モデルも違うし、ポーズも違う。最初のモデルのカミールはすでに亡くなっているし、11年も立てば小さな子供のジーンはもういない。
 だから、そんなに違う二枚の絵で立体視をしようとしても私達の目と頭は戸惑うだけだ。しかし、もしかしたらその戸惑いはモネが景色を眺めるときの戸惑いそのものなのではないだろうか?

 私達が上のように並べた『日傘をさす女』を眺めるとき、私達の右目(righteye)は過去にモネが見た風景を、そして左目(left eye)はその11年後にモネが眺めている風景を見ている。そして、その風景は両眼視野闘争によりちらちらと入れ替わって見える。右目が眺めるカミールの顔と、左目が眺めるのっぺらぼうのジュザンヌの顔がちらちらと交互に入れ替わる。それはモネがモデルのジュザンヌを眺めているときに、ちらちらと亡き妻カミールの顔・姿が頭の中で重なったモネの見た映像そのものなのかもしれない。

 私達が左の『日傘をさす女』を眺める左目(left eye)は「残された眼」であり、そしてまたセザンヌが言ったとおり「モネは眼」であるならば、「残された眼(lefteye)」こそは「残されたモネ」なのかもしれない。だったら、1886に描かれた『日傘をさす女』はやっぱり左目だけで眺めるのが良いのかもしれない。

2001-06-04[n年前へ]

あなたの声が、すぐそばにある 

高原の向日葵と月見草 編

 昨日、東京駅の地下街にある「王様のアイデア」でこんなものを買った。見ての通り、ピストル型の集音マイク"SonicExplorer"だ。その数日前にその集音マイクを初めて見かけたのだが、遊んでみるとどうにも気に入ってしまって、次に見た時には必ず買おうと決めていたのである。
 

Sonic Explorer

 数日前に、その"Sonic Explorer"を見かけた時は出張帰りだったのだが、地下街の雑踏の中で「頭にヘッドホンを被り、ゴルゴ13のように集音ガンで狙っている」様子はさぞかしアブナイ奴に見えたに違いない。現に、私が雑踏の中に"SonicExplorer"で狙いをつけていたときには、一緒に出張していた仲間が二・三歩後ずさりして、私の側から離れていったくらいである。自分でも怪しい姿だとは思ったのだが、そんなことを忘れてしまうくらいに面白かったのである。こんなおもちゃみたいな外見に似合わないほど、これを使うと遠くの音がピンポイントでよく聞こえるのだ。地下街の雑踏の中で遥か向こうで携帯電話で話をしている人に"SonicExplorer"を向けると、私の耳元でささやいているかのように聞こえてくるのである。もちろん、遥か向こうといってもたかだか20mくらいではあるのだが、雑踏の先の20mというのはずいぶんと先に感じる。しかし、"SonicExplorer"の先のパラボラ面は見事にその遠く先の音を集めてくれる。

 ところで、遠く離れた人の声はどうして聞き取れないのだろうか?それはもちろん、遠く離れた人の声は小さくしか聞こえなくなって、その人以外が発する雑音に埋もれてしまうからだろう。それでは、人がしゃべる声は距離が離れるとどの程度小さくなるだろうか?
 音波が四方八方に等方に拡がっていくとすれば、音の大きさは音の発信源からの距離の二乗に反比例すると考えるのが自然である。つまり、喋っている人からの距離が10倍になれば、その人の声は1/100の大きさでしか聞こえないことになる。20m先で携帯電話で喋る人の声は、1m隣でささやく人の声のわずか1/400の大きさなのである。それでは、雑踏の中で溢れる他の音に埋もれてしまうのは当り前である。

 そんな声を聞き取りたい時にはどうしたら良いだろう?そんな時、私達は耳に手を当てて、耳を澄ませる。掌で音を耳に集めて何とか声を聞き取ろうとするのである。それと同じく、この"SonicExplorer"は、先端のパラボラ面で焦点にあるマイクに音を集めて増幅するのである。それでは、"SonicExplorer"は私達の耳に比べてどの程度音を多く集めているだろうか?

 そもそも、私の耳の大きさはどの程度だろう?耳はそんなに効率的に音を集めそうな形状をしているわけではなさそうだから、有効な集音面積としては直径1cmの円といったところだろう。それに対してこの"SonicExplorer"のパラボラは直径20cm程だ。ということは、直径にして20倍、面積にして二乗で400倍の面積で音を集めることができるわけである。音を集める程度は音を集める面積に比例するだろうから、"SonicExplorer"を使えば人間の耳の400倍もの鋭さで音を聞き取ることができるわけだ。400倍ということは、つまりは先ほどの「20m先で携帯電話で喋る人の声」と「1m隣でささやく人の声」との違いと同じというわけで、結局のところ"SonicExplorer"を使えば「20m先で携帯電話で喋る人の声」が「1m隣でささやく人の声」であるかのように聞き取ることができる、ということになる。

 ここで面白いのは、音が小さくなってく様子は距離の二乗に比例し、音を集める量は集音面のパラボラの直径の同じく二乗に比例するから、n倍遠くの音を元と同じように聞き取りたかったら、集音面の大きさ(長さ)をn倍にしてやれば良い、という単純な関係にあることである。20m先の声を1m横の声と同じように聞き取りたかったら、耳の大きさ(長さ)を20倍にしてやれば良いのである。

 そんなことを考えていると、ふと二十年位前のことを思い出した。その頃、私は夏になるといつも長野県の野辺山あるいは川上村というところに滞在していた。その数年前まで、私はその野辺山で暮らしていたのである。そして、野辺山にある45mミリ波望遠鏡の建設が佳境に入った頃だったのだろうか、その頃私の父は半分野辺山で暮らしていた。下の写真は八ヶ岳の麓にあるその45mミリ波望遠鏡である。
 

野辺山45mミリ波望遠鏡

http://www.icon.pref.nagano.jp/usr/minamimaki/sawayaka.htm

 そんな二十年位前のある日、父がこんなことを言った。

「45mのアンテナを赤岳(八ヶ岳の最高峰)に向けて、副鏡(焦点)の場所にいると赤岳の上にいる登山客達の話す声がまるで自分のすぐ横にいるかのようにガヤガヤと聞こえてくるんだよ」
一体、それは本当だろうか?上の写真を見ても、赤岳(八ヶ岳の最高峰)の山頂は野辺山の45m望遠鏡の位置から遥か彼方に見える。少なくとも、その頃の私からすれば遥か先のずっと遠くに見えていた。今でもそれは同じことだろう。やっぱり遠く彼方に見えると思うし、その山頂でワイワイガヤガヤと話す登山客達の声が聞こえるとは思えない。

 そこで、試しに地図で野辺山の45m望遠鏡と赤岳の山頂の距離を確かめてみると、直線距離にして10km程である。下の地図で赤い■の位置辺りが野辺山の45m望遠鏡が建っているところだ。10kmということは、メートルにして一万メートルである。メートルに直したところで、やっぱり遠いことには変わりない。
 

野辺山の45m望遠鏡(赤■)と赤岳の山頂の距離

それでは、先ほどの"Sonic Explorer"と同じように考えてみることにしよう。45m望遠鏡のパラボラ面は人間の耳(ここでも直径1cmとしよう)の45m/1cm= 4500cm / 1cm = 4500倍である。ということは、5000m先、すなわち5km先の音が1mのすぐそばにいる人の声と同じように聞こえるということになる。すると何ということだろう、10km先の八ヶ岳の山頂でワイワイガヤガヤと話す登山客達の声は、すぐ2m横でワイワイガヤガヤと話しているかのように聞こえることになる。もちろん、それは理想的な場合の話ではあるが、先の父の話は結局のところ何の不思議もないごく当り前の話だったわけである。
 

 上の写真のような、八ヶ岳の麓にそびえる白い45m望遠鏡ももちろんかっこいいけれど、私が野辺山に住んでいた頃にはまだその45m望遠鏡は建っていなかった。私がいた頃には、下の写真の中に見える朱色の野辺山太陽電波観測所の野辺山干渉計のパラボラアンテナだけが野辺山の高原に点在していた。野辺山干渉計はもう今では現役ではないけれど、今でもやっぱりイースター島のモアイのように大空に向いているはずだ。私は白く輝く45m望遠鏡も大好きだけど、その横に点在している朱色に塗られた鉄骨で支えられている野辺山太陽電波観測所の野辺山干渉計の方が大好きだ。
 

野辺山太陽電波観測所の野辺山干渉計(朱色のパラボラアンテナ)

http://solar.nro.nao.ac.jp/nori/html/introduction-j.html

 現役を引退した今ではどうなのだか知らないけれど、野辺山太陽電波観測所の野辺山干渉計のパラボラアンテナは太陽電波を捕らえるためのアンテナだったので、いつも太陽の方を向いていた。まるで、巨大な向日葵のように忠実に正確に太陽のある方向にパラボラ面を向けていたのである。だから、太陽が強く照らす晴れた日も、薄暗い雨の日も朱色の鉄塔の上のパラボラアンテナを見れば、太陽の方角はいつも一目瞭然だったのである。

 そういえば、私が子供の頃、一時間かけて歩く家から分校までの4キロメートルばかりの道端には、たくさんの月見草が咲いていた。高原の中で高くそびえる赤く巨大な「向日葵」達と、歩く私のすぐ横に咲いている黄色い「月見草」が私はとても大好きだった。

 眩しい太陽を追いかける「向日葵」達も、静かに照らす月を見る「月見草」もどこか遠くの声を耳を澄ませて聞いているのだろうかとか、その声をすぐそば近くに感じているのだろうかとか、少し思ってみたりした。



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