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2009-03-17[n年前へ]
■短いフレーズやスローガンへの違和感
森達也の「世界はもっと豊かだし、人はもっと優しい 」から。
現実と虚構の皮膜を漂流するドキュメンタリストだからこそ、短いフレーズやスローガンを掲げて拳を突き上げることへの違和感をどうしても払拭できない。
森達也 「世界はもっと豊かだし、人はもっと優しい 」
2010-03-17[n年前へ]
■酸性の洗剤とアルカリ性のそれを混ぜ合わせたら毒素が生じることはだれでも知っているけれど…
角田光代の「今、何してる? 」の「相性」から。
その人といることによってのみ、自分のある部分が強調される。幼さや、几帳面さや、わがままや従順さや。自分ですら気づかなかった面がづいに顔を出して驚くこともある。かっこ悪さ、クールさ、嫉妬深さ。
やっかいなのは、プラスの反応ばかりがでてきてもけっして万事快調にはならない、ということで、その逆に、とことんマイナスばかりが並んでいるのに関係が長続きする場合もある。酸性の洗剤とアルカリ性のそれを混ぜ合わせたら毒素が生じることはだれでも知っているけれど、自分が出会っただれかと一緒にいることで、何が生じるのかは予測すらつかない。生じたものが自分にどんな作用を促すのかも。
どうして言葉と言葉すれ違うと化学変化でめちゃくちゃになるの?
種ともこ 「You're The One」
2011-03-17[n年前へ]
■「我々に必要な科学」
高木仁三郎(*)が「人間の顔をした科学 」中で、「火山を噴火させることで人を豊かにしよう」とする物語、岩手県花巻に暮らした宮沢賢治の「グスコーブドリの伝記」をひきつつ、そして宮沢賢治が書いた「我々はどんな方法で、我々に必要な科学を、我々のものにできるか」という言葉をひきつつ綴ったもの。
「グスコーブドリの伝記」や「雨ニモマケズ」など、(宮沢)賢治との出会いが始まったころ、私自身は核化学の研究者として、死の灰(核実験による放射性降下物)による環境の放射能汚染という問題にぶつかり、どう取り組んでいいか悩んでいました。
日照りの時は涙を流し、寒さの夏はオロオロ歩き。
…そういうものに私はなりたい。
その時から二十数年経って、臨界事故に接して人びとがオロオロしているのに対して、私たちがこの視点から情報を発信したり、分析したりすることに意味があると思っているわけですが、私はこの確信はあながち間違いではなかったと痛感するわけです。
*高木 仁三郎:1938年群馬県生まれ。1961年東京大学理学部化学科卒。日本原子力事業NAIG総合研究所、東京大学原子核研究所助手、東京都立大学理学部助教授、マックス・プランク研究所研究員等を経て、1975年原子力資料情報室設立に参加。1987年原子力資料情報室代表(98年まで)。1998年高木学校設立を呼びかけ、校長に。2000年10月8日逝去。専攻は原子核化学(理学博士)。
2012-03-17[n年前へ]
■化学変化や向田邦子やスローガン
酸性の洗剤とアルカリ性のそれを混ぜ合わせたら毒素が生じることはだれでも知っているけれど、自分が出会っただれかと一緒にいることで、何が生じるのかは予測すらつかない。生じたものが自分にどんな作用を促すのかも。
(向田邦子には)喜怒哀楽でいうと「怒」と「哀」はあると思う。しかし、本当の意味での「喜」と「楽」はなかった思います。
短いフレーズやスローガンを掲げて拳を突き上げることへの違和感をどうしても払拭できない。
どうして言葉と言葉すれ違うと化学変化でめちゃくちゃになるの?