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2011-01-10[n年前へ]
■1998年冬、長野五輪「ジャンプ団体」
1998年冬、長野五輪「ジャンプ団体」から。(絆(きずな)でつかんだ栄冠・試走者たちの金メダル・2つの町を1つにした「776人に会いたい」・NHK スポーツ大陸 『絆(きずな)でつかんだ栄冠 〜長野五輪 ジャンプ団体〜』)
長野五輪でのジャンプ団体金メダル獲得。・・・前半が終わり、日本チームは4位。その後、悪天候のため競技は中断する。このまま競技が中止となればメダル獲得はない。しかしその窮地をテストジャンパーが救う。競技前にジャンプ台の整備をし、安全を確かめる役割を担う彼らが、吹雪の中を決死の覚悟で飛び出し、運営役員に続行が可能なことをアピールした。その結果、競技は続行され、日本は金メダルを獲得できた、という話だった。
2月17日の朝、試走者(テストジャンパー)たちの控え室に原田雅彦があらわれた。彼は西方仁也に「アンダーシャツか手袋を貸してくれ」と言った。西方は原田が忘れてきたと思い、シャツを渡した。原田は、次に葛西紀明のところへ行き、手袋を借りた。葛西も原田が手袋を忘れてきたのだと思った。
西方が気付いたのは、原田の「失敗ジャンプ」の直後だった。「原田は、4年前のリレハンメル五輪の僚友だった、俺と紀明の思いを背負って飛んでいる。俺のシャツと紀明の手袋を身につけて戦いに挑んでいる」
試走者25人のリーダー西方は、そのことを試走者たちに伝えた。
取材は、当時テストジャンパーを務めた人たち一人一人に、話を聞いていくことから始まった。その中で、驚いたことがある。それは、彼らの多くがテストジャンパーとなったことを「最初は悔しかった」と言ったことだ。テストジャンパーとして競技を裏で支える彼らだが、ふだんはジャンプの選手。オリンピックには当然選手として出場したい。それが果たせなかったことが悔しかった、と言う。それを聞いたとき、美談だと思っていた話が、私の中で急に血の通った生々しい話となった気がした。何か人生の一端を表している言葉のように思えた。
安全であることを証明するために転べない。雪の中バランスを保つよう手を廻すこともできない。雪で前が見えなくても、きちんと飛んで着地しなくちゃいけない。一人また一人と、雪が助走路に積もっていかないように、後の人が飛びやすくなるよう次々に飛んだ。
7秒間隔のテストジャンプで(25人の)大飛行が繰り返された。2回戦はできますよとアピールしながら、ジャンプ台を守り続けたのだ。
人は誰しも、常に勝者でいられるわけではない。しかし、そんなときであっても、誇りを忘れず、自分のすべきことをすれば、忘れられない経験が残るのかもしれない。それは誰の人生でもそうだ。そのようなことを取材させてもらった皆さんに教えてもらったような気がする。