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2012-03-08[n年前へ]

何かを作ったことがない人は… 

 twitterから

@tamagotaso "何かを作ったことが無い人は「これくらいなら自分でも本気出せば作れる」と思ってる"

 それと同時に、「そんなものは作れるわけがない」と思いがちな「何かを作ったことが無い人」も多いように思う。

 「何かを作ったことがない」人は、世の中にあるさまざまなものを「作り上げる」ことの難しさも、世の中にはまだない何かを作ることができる可能性も、その両方がわからないのだろう、と思う。そういう人だからこそ、ずっと「何かを作ったことがない」というステータスのままでいる…のではないだろうか、とふと考える。

2012-03-04[n年前へ]

過去と未来に呼びかける「現在(いま)の声」 

 「繋(つな)がる」という言葉で満ちたこの一年、その何年も前の、けれど同じ3月4日の「n年前へ」から。

 この地図を提供していたGoogleの開発者たちは、被災したニューオーリンズの状況を、その地にいる人たちを心配している人たちに向けて、こんな機能追加を(驚くべき素早さで)行ったのでしょうか。
 人々が分断され、競争に駆り立てられ、揚句の果てにゴミのように切り捨てられる。そんな社会を誰が望んだであろうか。…遅すぎる気もするが、いま求められているのは人と人のつながりであり、共に生きるための知恵だろう。
 日本で最も日没が速い最東端の納沙布岬灯台(北海道)から転倒し、リレー式に最西端の与那国島の西埼灯(沖縄県)に光が灯る頃、日本列島の輪郭が光のリングで結ばれる。これは、140年変わっていないし、永遠に変わらぬ光景だろう。
 「過去の景色」と「現在の景色」を、眺めいていると、色々なことが見えてくるに違いありません。…もちろん、そこからは、過去や現在の先にある復興した未来の姿も見えてくるはずです。
 「半神」は孤独、決定的なひとつの不在を生きることについて描き、「霧笛」はその孤独な他者へ呼びかける声の乗り越えられなさを描いていると言っていいかもしれない。…ともかくどちらも、深い愛についての話だ。

2012-03-03[n年前へ]

正しい判断をしない「みんな」はいつも「バブル」を繰り返す。 

 3月になりました。昼と夜を365回繰り返すと、地球は太陽の周りを一回りして、また同じ季節がやってきます。

 そんな、もうすぐ春が来るはずの3月3日の「n年前へ」は『「バブルは繰り返す」と「学者の態度」』『「自然の力」と「人間の力」』などです。

 洪水や地震や津波や噴火・・・といったさまざまを起こす自然の力が強いように、弱い人間もやはりそれでも強い、と私は思います。
 そう願いながら、酷い状況の景色だけでなく、とても綺麗だったニューオーリンズの写真を同時に眺めたくなりました。だから、今日はこんな写真を飾ってみました。…人が祈る、ただそんな姿です。
 「分数もできない大学生」のような"みんな"が行う判断は正しいと思いますか?
 分数ができても、みんなが正しい判断をするとは言えない。金融工学がいかに進もうと、バブルは繰り返す。

2012-03-01[n年前へ]

「クラウド接続されたスマートフォン」と「30年前のウォークマン」 

 いつでもどこでも、必要なデータにアクセスできるクラウドな時代が始まったのは一体いつ頃だったでしょう?そんな自分が欲する情報をいつでも持ち歩くことができるこの時代、なぜだか、30年以上前ウォークマンが登場した頃を思い出します。

 冒頭の「ビタースウィート・サンバの音楽で始まるオールナイトニッポンを聴きつつ町を歩けば」は、ラジカセでテープにタイマー記録した深夜ラジオを聞く話ではなく、深夜のオールナイトニッポンをYoutube経由で昼間に聴いている、という話です。…それらは、まったく同じように思える話です。 from 「n年前へ

 太陽が街中を眩しく照らす中、ビタースウィート・サンバの音楽で始まるオールナイトニッポンを聴きつつ町を歩けば、まるで「自分だけの世界」に包まれつつ歩いているような感覚に陥ります。
 「広く、色んな人がいる場へ行ってみたつもりが、ふと気づいてみれば、周りにいるのはなんだか似たような人たちばかり…広い世界を探しに出たはずが、自分と似た人ばかりの少し狭い世界に入り込んでしまっている…」ということはよくあるように思う。
 広い世界はえてして狭い世界を作る。似たようなものを集めようとする力がある限りは、母集団が多い場の方が純粋に似たものが数多く集まってしまう。…とはいえ、もちろん狭い世界はやっぱり狭い世界なのである。ただ、さらに狭くなるのは難しい、というだけだ。

2012-02-29[n年前へ]

「書き表す」ことの理由や原動力 

 ほぼ4年に1度、2月29日がやってきます。もう少し正確に書けば、4で割り切れ、かつ、「100で割り切れるけれど400では割り切れない年」でない、という年になると、2月29日がやってきます。…少しわかりにくい「決まりごと」ですから、100年に一回、あるいは、400年に一度くらいは、上手く動かないシステムもありそうです。

 twitterなどに書かれるたくさんのつぶやきを眺めつつ、少し珍しい2月29日の「n年前へ」に書かれた、こんな言葉を思い起こします。

 何かを人に知らせるために書くとか、何かを感じさせるために書こうと意識すると、そこでもうお説教になっちゃうような気がします。変な言い方ですけど、書く側っていうのは、これが届いてほしいとか、誰のためだとかは考えず、ただ書くために書いたほうがいいと思うんです。

川上弘美
 web日記書きってのも自問自答凄そうな人達だよなー。闇を抱えているから人はwebで日記なんて書くんだ。

アクティブにいきたいねと思いつつ日記
 限りない自問自答の数が、表現力の目安となると信じてやまない。

阪本順治

 この下に表示されているはずの、この記事への「関連お勧め記事」も繋げて読んでみたくなります。

2012-02-28[n年前へ]

腐女子力を上げる大事な4点…略してガチホモ 

 腐女子力を上げるには「画力や文章力を磨く」「知識を増やす」「他のカップリング派の人と共存する」「妄想を公共の場では口にしない」の四点、略して『ガチホモ』が大切なのである。

腐女子力を上げるには「ガ」「チ」「ホ」「モ」の四点が大切

2012-02-27[n年前へ]

「何が起きるかが大事な”物語”」と「描かれ方が大事な”小説”」という存在 

今日、2月27日の「n年前へ」から。

 小説というのは文章のものだと思うんです。だから、何が書いてあるかというよりも、どう書いてあるかという方が圧倒的に大事だし。物語は何が起こるのかが大事だし、第一、書かれなくても(物語は)存在するでしょう?
 60億人がいれば60億の「物語」がある。けれど、その文章として書き下ろされているわけでない物語は、決して「小説」ではないのだな…と「小説と物語の違い」について、少し理解することができるのです。

2012-02-25[n年前へ]

「アホ」の「定義」 

 こんな風に、「こんな定義のアホを好き」と言えるようになりたい。

 嵐の相場くんがインタビューで「アホなひとが好き」っていっててアホの定義を聞かれ「力の配分に損得がないこと」と答えていてあまりの的確さに感動を覚えた。

 自分の力の配分に損得がない、と思うことは簡単だ。だから、「こんなアホになりたい」と思うことはそう難しくない。けれど、こんな風に、「こんな定義のアホを好き」と言うことができる人は、きっと人が好きなんだ、と思う。

2012-02-24[n年前へ]

「科学館デートをする2人」と「見抜く目を最高に持った人」 

 今日2月24日の「n年前へ」から。

 「科学に詳しい男性と科学に疎い女性の科学館デート」はOKかもしれませんが、その逆のパターン「科学に詳しい女性と科学に疎い男性の科学館デート」は…絶対駄目そうな気がします」
 私は、「過去」の長さと同じだけ先の「未来」が見えるものだと考えています。今この瞬間から「n年前の過去」を振り返り・眺めれば…今という時間の「n年先の未来」が見えると思っています。過去を振り返りつつ、未来へと進んでいく…そんな前へと進んでいく感覚は、「”前へ”」という言葉をどうしても使いたくなります。
 わたしは、読む人の力をいつでも信じています。そうでなかったら一行も書けません。また、見抜く目を最高に持った人を想定読者にするのが、このメディアを続けていくための秘訣でもあります。

2012-02-21[n年前へ]

「物質世界で起きていること」を「考えるための技術」 

 目の前で起きていることが、過去に起きたことのコピーのような繰り替えしでない限り、目の前で起きていることを理解するためには「単なる知識」とは違う種類の「技術」が必要になる。そんな、物質世界で起きていることを「考えるための技術」についてのアラン・ケイの言葉。 from 「n年前へ」から

 私たちは子供を数学者や科学者や技術者にしようと思っているのではありません。私たちが子供がそうした考え(科学)を理解する手助けをしたいと思うのは、科学が、異なる思考方法やパワフルな思考方法を体現しているからです。
 科学とは、この世界のことを、だまされずにもっとよく知る方法です。その中には、私たちの自分の脳の何が間違っているかを知る、ということも含まれています。
 …科学は、物質世界で起きていることを考えるための言語として使われたのです。だから、子供たちが科学を学ぶことが大事なのです。

アラン・ケイ「科学とは、新しいアイデアを学ぶためのもの」 

 技術や科学は「目的」ではありません。けれど、それは有力な「道具」です。技術や科学を「目的」にするのは、多分何かしら未来を損なって眺めているような気がします。けれど、それが「目的」ではないと知っている限りにおいて、それは非常に有力な「道具」です。