2007-12-09[n年前へ]
■私たちの前にある「たくさんの古いこと」「数えられない新しいこと」
少し前、「栄光なき天才たち」の原作を書き、重力多体問題用スーパーコンピュータ"GRAPE"(分子動力学用途のものはWINEである)の実作業を主として担った伊藤智義氏が、高校の数年上の先輩にあたるということを知った。GRAPE関連の書籍などは色々読んでいたが、あのありふれた公立高校の校舎にいた人だとは、全然気づかなかった。この記事を読んで、なんだかとても嬉しい気持ちになったのだけれど、その嬉しい気持ちに忸怩たる違和感も、チリチリと感じた。
その違和感の原因は、私自身が別に何をしているわけでないのに、嬉しく思う・感じるのはなぜなのだろう?と考えたからだ。もしかしたら、私の気持ちの底に「虎の威を借る狐」のような欲望があるのだろうか、と考えたからだ。
「ふるさとは語ることなし」と、坂口安吾は死ぬ直前に書いた。ふるさとのように、ふるいこと、自分でない誰かがしたことは数え切れないくらいたくさんある。けれど、私たちができること・したいことも、まだまだたくさんあるはずだ。新しいこと・してみたいことは、私たちの前にたくさん積み上げられている。「ふるさとを語る」のは、まだ早い。
坂口安吾のキーワードである「ふるさと」という言葉には、二重性というより、対極的で相反するものが、そのまま一つの言葉の中に込められているという気がする。
「桜の森の満開の下」解説 川村 湊