2005-01-10[n年前へ]
■NEWS
カリタテルを読む。この文章中で語られていることと直接は繋がらないこと、単に連想したことを、脈絡なく以下に書いてみる。だから、何かまとまった話ということでは全くない。
私は新聞記者が「起きた出来事を一人でも多くの人に一秒でも速く届けるという役割」を重視する姿勢はあまり好きではない。「起きた出来事」を明らかにするには時間がかかる以上、「起きた(と思われるが、その確からしさは決して高くない)ことを多くの人に速く届けてしまうという自らの判断」の必要性・危険性を「その書き手」はいつも疑い・考え続けるべきだと思う。そして、新聞記者たちがそのような期待に応えて続けているかどうかは疑問に思っている(そう思う一方で、他人のことを気にする繊細な神経の持ち主は記者を続けることは到底できないだろう、とも思っているのだが)。もちろん、私たちの中の野次馬根性に対しては、記者達は期待以上に応えてくれていると思っている。
ところで、毎日新聞というと署名記事の割合が他に比べて多い新聞社だという印象がある。私は社説というものの存在意義がよく理解できておらず、逆に意味もなく署名記事が好きなので、毎日新聞に対しては比較的良い印象を持っている(西原理恵子の毎日かあさんが連載されているからではない、多分…)。先の理系白書の書き手も書く文章の内容はさておき、その自らの名前の元に書く態度に対しては非常に好印象を持つと同時に尊敬している。また、「書く文章の内容はさておき」というのも、勝手な期待・勝手な理想を新聞に重ねてしまうせいで、そんな風に(勝手な)基準を高めてしまっているのだとも思う。そういう期待がなければ、眺めるだけで終えておけば良いだけなのだろうから(「理系白書ブログ」に関しても「毎日新聞『理系白書』の記者が作るページです」と書いてなければ、きっと何の反応もしなかったと思う)。
以前、「テレビニュース」はあなたの人生にとってなくてはならないものですか?というアンケートを見たときに、それをとても強く感じたのだが、もしかしたら(私に限らず)時に新聞記者に対してぶつけられる「(皮肉で書かれる)期待」の裏には、「(勝手な高い)期待」があるのかもしれない、と思う。その「期待」をどう眺めどう応えていくかは、その人(記者や私たちの)それぞれに違うのだろうけれど。
「テレビニュース」というものに対する(私たちの)イメージは全て自分達に降りかかってくるに違いない。(私たちのイメージの中の)「テレビニュース」という言葉は「僕ら自身」と全て置き換えられるに違いない。そう思いながら、刻々流れる質問への答えを眺めている。
「テレビニュース」が世の中に与える影響は? -> 悪い
「テレビニュース」は信用できる -> No
「テレビニュース」はあなたの人生にとってなくてはならないものですか? -> Yes
■月光天文台
「月光天文台」はその名前がとても素敵で、建っている場所もその名前に名前に負けない。スペースシャトルの大きさは後ろの建物と比べて眺め、望遠鏡の大きさはその後ろのスペースシャトルと並べてみると、わかりやすいかも?
「地球のを回る月」や「送電線」の写真は平行法で眺めてみれば、立体的にその姿がわかると思います。空に漂う雲や空に張られた送電線や、畑の向こうの林の向こうの鉄塔が、立体的に浮かび上がってくるはず。函南町の山村中の小さな公園にある地球の周りを回る月を、三次元空間の中で眺めることができるはず。