2007-07-05[n年前へ]
■「制御」と「物語」
制御工学の教科書のページをめくれば、どんなに少なく見積もっても、ページの半分ほどがフィードバック制御に関することに費やされている。
フィードバック制御、それを実に大雑把に言うならば、「現在の状態に応じて"足りないもの"を補う」「"不安定なもの"を"安定"にする」制御だ。つまり、不安定性になっていまうものを回復し、安定にさせること、である。乱暴に言ってしまえば、世の中に満ちあふれている制御は、全部そんなものに見える。
物語の基本パターンは、怪物退治と聖杯探求です。怪物は外側からこの世界を脅かすものです。英雄はその怪物を退治して、世界の秩序を回復します。一方、聖杯探求では、世界の秩序の中心が不意に消失し、世界が迷宮化してしまいます。英雄はその消失したものを探し出すことで世界の秩序を回復することになります。「文学を科学する 」を読みながら、人は「現在の世界の"足りないもの"を補い」「"不安定な世界"を"安定"にする」物語を読みながら、同時に、「現在の自分の"足りないもの"を補い」「"不安定な自分"を"安定"にしようとする」ものなのだろうか、と思う。心の中の足りないものを補い不安を和らげる、つまり、心を癒す、そんな制御を物語はしているのだろうか。
「文学を科学する 」 P.76 3.5 小説はいかに語るか
「可観測行列行列が正則でなければ、現在の状態を正確に知ることはできないし、可制御行列が正則でなければ、任意の状態に制御することはできない」とクールに断言する制御工学の教科書を読みながら、次世代の制御理論は人や世界の制御・安定化をいかに実現するのだろうか?とふと思う。
心の癒しというテーマ、それはぼくにいわせれば、とても単純な物語です。物語というものはそういう性格をもっている。心の制御工学というものがあるのなら、それは一体どういうものだろうか。
「文学を科学する 」 P.125 ストーリー性の重視